貫きたい想いがある。
そう。あのひとを得たい。
誰にも渡さずに、この手の中に鎖して、そうして………。
想いを告げてかなうものなら、疾うにそうしていただろう。
しなかったのは、相手が悪すぎたから。
なぜなら、相手は、同性の、しかも、『兄』だったからだ。
父親だけが同じ、兄。
この想いは、あまりにも、報われなさすぎた。
※ ※ ※
それは、悪夢にも似た、現実だった。
母親の連れ子の慎が、実は父親が同じ弟だと知ったのは、いつだったろう。それは、親父が、母を裏切っていたことの証である。けど、母が死んだ今となっては、そんなことを気にするのは、自分だけだ。
そう。そんなことで、慎の人間性を決めつけて嫌うのは馬鹿げている。しかし、理性と感情とは別物なのだ。
可愛いと思っていた弟の存在。それが、少しずつ疎ましくなってゆく。どうすればそれに歯止めがかけられるのか、わからないままで、確実に慎との間に溝が刻み込まれていった。
気がつけば、家族の中で独りきり孤立しているオレがいた。
仕方がないで片づくものなのかどうか、自分でも判然としないままで、そんな現実を受け入れていた。
どうせ、もうじき家を出るつもりだった。
大学に受かりさえすれば。
言ってみれば、それだけが希望だった。
そうして、彼らが死んだ。突然のことだったから、すぐに信じることはできなかったけれど。けれど、どうしようもない現実だった。
「兄さん、志望大学を変える気、ない?」
オレを産んだ母のアトリエ。母はちょっとは名の知られた画家だった。
陽がさんさんと射し込んでくるここだけが、自分の部屋以外で唯一気が抜ける場所だった。
いつの間にか寝こけていたようだ。
葬式が済んでからこっち、妙に疲れやすい。
からだが、だるい。
立ち眩みもするし、咳も出る。
風邪だと、ヤバイ。
もうじき入試があるというのに、気を引き締めなければ。
「聞いてる?」
二つ年下の慎は、やけに懐っこい。
けれど………。
華奢で色白で、やさしい顔立ちをしているが、目つきがそれらを裏切っている。なんというか、危ない目つき、思い詰めたような目つきをしている。
頭がよくて、おそらく、親父は慎を後継ぎに考えていただろう。
オレは別に医者になりたくはないから、はっきり言って、別に誰が医者を継ごうとかまやしない。どうでもいいことだ。だいいち、人間の体を切り開いて、血が滲む内臓や神経なんかにさわりたくない。あんなことは、どこか神経が一本もげてでもいなければ、できないと思うのだ。
そんな恐ろしいことを職業にするよりも、好きな絵を描いて過ごしたい。人間関係に煩わされずに………。
それだけが、望みなのだ。
放っておいてほしい。
「聞いてる。でも、なんで、いまさら変えないといけないんだ?」
突拍子のないことを――と、ソファにだらんと懐いていたからだを起こす。それだけで眩暈がする。からだが、重い。
「あそこ受かったら、県外じゃないか。兄さん、そんなに、家を出たいのか?」
慎の薄い色の瞳が、驚くくらい目の前にある。
なぜだか背中が強張るのがわかった。
慎には不思議な迫力がある。いつも、外人のように、こっちの目を覗き込むようにして話し掛けてくるからだろうか。慎のことを苦手だと思う理由だった。
怖いような目をしている。
そう。目は口ほどにものを言うとか、目は心の窓とかいうけれど、それが正しいのだとすれば、慎はいったいどういう人間なのだろう……。
わからない。
同じ高校なので、慎が女子に受けがいいことは知っている。外見が優男だから、わからないでもない。しかし、女子だけではなく、意外と誰にでも好かれるタイプらしいのだ。証拠というわけでもないが、まだ一年なのに生徒会長をしている。
「出たい」
もういいと思って、ストレートに断言した。
放っておいてくれ。
何かにつけて、慎が懐きたおしてくるのが鬱陶しい。
基本的に、独りが苦にならない。というより、独りでいることのほうが好きなのだ。
「そう。……兄さんって、僕のこと嫌ってるよな。基本的に」
わかってるんじゃないか。
必死で嫌わないようにと思っていたが、やはり、本能では、どうしようもなかったらしい。慎に気づかれるくらいには、露骨だったということなのか。
「それってやっぱり、僕が愛人の子だからだったりする?」
ダイレクトに聞いてくるよな。ま、いいか。
「そうだ。なるたけ考えないようにはしたけどな。どうしても、駄目だった」
じぃっと、見つめてくるまなざしが、まるで天敵のようで。ぞくっと、鳥肌が立つ。
「そっかぁ…。兄さんって、嘘つけないもんな」
呟きながら、慎は、アトリエから出て行った。
このやりとりが、最後の堰を切ることになったのだと、オレは、気づいてもいなかった。
言い訳になるが、知らなかったんだ。
オレが慎のことを嫌いだと言い切った後も、ヤツは忘れたように寄ってきた。
受験勉強の友に―――と飲み物や食い物を持ってくるのだ。
食べ物で懐柔しようとでも言うのだろうか? そこのところの慎の思考回路が理解不能だったりするのだが………。
オレの体調が最悪になってとうとう倒れてしまったのは、最悪なことに入試の十日前だった。
最悪だった。
せめて、試験だけでも受けられていたなら。
後からそう思ったものだ。
そう。逃げることができていたかもしれない。
この、地獄から。
すべては、慎の仕業だった。
知ってしまった。
知らずにいたほうがよかったのか。
慎の張り巡らせた蜘蛛の糸は、すでにオレを捕えて離さない。
今夜も慎は来るのだろうか。
…昼も夜も朝も、慎にとってはあまり意味がないらしいが。
それでも………。
かいがいしく病気の兄の世話を焼く弟。
美談だろう。
誰だって、疑いもしない。
少しずつ少しずつ、からだのだるさは酷くなり、そうして遂に首から上以外動かせなくなった。
原因不明の病。
そう診断されて、やがて1年。
けれど、オレにはわかっている。
オレの病気の原因は、慎なのだ。
思い込みなどではなく。
慎が、運んできた飲み物や食い物。その中に、毒物が混ぜてあったのだ。
オレは、そういうことに興味がなかったから詳しくはないが。でも、家が総合病院をしているせいで、比較的容易に手に入れることができるのかもしれない。
そうまでしてオレを閉じ込める、慎の執着。
いつのまに、こんな執着を持たれていたのか。
人としての道を踏み外すほどの、執着。
血の繋がっている弟が、どうして………。何度繰り返した疑問かわからない。
愛でもなければ、もちろん恋などというものでもない。
あるはずがない。
ただの、執着。
あの時、オレが受験する大学を変えていれば、慎はこんな暴挙に及ばなかったのだろうか。
わからない。
ただ、恐ろしいのだ。
手段を選ばない慎が、酷く恐ろしい。
慎は、オレを、抱く……のだ。
血の繋がっている弟が、異母兄であるオレを。
誰も知らない。知られたくもない。
おそらく、ただひとりを除いて。
慎に懐柔されたのは、父の助手だった男。
彼もまた医者だというのに、慎に頼まれるままに、カルテを書き換えたのだ。
医者のすることじゃない。
オレの口が利ければ、せめて、オレの手が動けば、慎を殴り倒してヤツを訴えるだろう。
しかし、現実のオレは、動くことすらできないのだ。慎の手を借りなければ、身動きひとつままならない。
オレの眠りは揺らいだ。
誰かがオレの首筋に触れている。
確かめるまでもないと、わかっている。
こんなことをするのは、慎しかいない。
ゆるゆるとしたまどろっこしい覚醒。
怠い。
からだが泥の中に埋められているようで、辛い。
昨夜の慎のしつこさが思い出されて、ドキンと心臓が跳ねた。
快感は屈辱に直結している。
一方的に煽られ、堕とされる。その繰り返しの果てに訪れる、引き裂かれる苦痛すらもがいつかしら快感へと変貌を遂げて…。
どうせなら意識もない人形であったほうが、どんなにかマシなのに。そう思い知らされる時間。
出てくるのは、叫びにもならない、無様な喘ぎばかりで。
思い出すたびに死にたくなる。
どうしてこんなことをされなければいけないのか。
いくら考えても、わからなくて。
憎いのなら、目障りなのなら一思いに殺してくれればいいのだ。
ぐるぐると、出口のない思考。
無限ループから抜け出したのは、からだに触れてくる掌の感触のせいだった。首筋を上下していたそれが、ふいに、胸に移動して、快感の種に触れたのだ。
慎によって敏感になってしまったからだがかすかに震え、喉が鳴る。
触れたと思えば抓まれた。引っ張られ、爪を立てられ、弾かれ、ぬめったくちびるが触れた。からだの中心が熱をもつ。
(やめろっ! やめてくれっ。こんなことは、イヤなんだ)
ことばにならない叫びが、首を動かす。
「これがいいんだね……」
ねっとりといやらしい声が耳朶を打つ。
(慎!)
「ここが、もうこんなに」
そう言って慎が触れたのは、からだの芯だった。
自分の意志ではほとんど動かないからだが、わずかにとはいえ跳ねる。
熱を散らすすべなどもとよりなく。
好き勝手にからだを弄られる情けなさが、涙を誘った。
「悔しいの?」
くすくすと笑いながら、慎がささやく。
「でも、こうすれば気持ちいいでしょ?」
やっとのことで背けた顔を、慎が正面に向けなおす。
「ダメだよ。誰が兄さんを抱いているのか、しっかり見てなくちゃ」
色の薄い瞳が、オレの目を覗き込んでくる。
せめてもの抵抗と、目をつむろうとしたオレの…を、慎が力まかせに握りしめた。
信じられない痛み。
「懲りない人だなぁ……。まだわからない? おとなしく身を任せるしかないだろう。いくらからだが動かなくったって、感覚はあるんだから、痛みよりも、気持ちいいほうがいいはずだよ。それとも、兄さんって、マゾなの? そういうのが好きなのだったら、そうしてあげるけど?!」
(そういうおまえは、なら、ネクロフィリア―死体嗜好―かよっ!)
クソッたれがっ!
ぺっ。
(あっ)
怒鳴り返せない苛立たしさから、思わず飛ばした唾。それが、まともに慎の頬に命中した。
「………」
慎の眉間に縦皺が刻まれる。
鬼面のような表情に後悔したが、後の祭りだった。
「そう。よくわかったよ…」
何がよくわかったのか。しかし、それが、慎の逆鱗に触れたのだということだけは、慎の表情を見れば一目瞭然だった。
慎の激情。
オレの快感など置き去りにして、自分の快楽だけを求める行為………。
(もうイヤだ。死なせてくれ………)
あまりの苦痛に舌を噛もうとして、
「死なせない。死ぬのなんか、許さない」
くぐもった慎の声。
死にたい。なのに。
頬で爆ぜる熱。何度も何度も、慎が頬を殴る。
鼻の奥はきな臭く、くちびるはひりひりと痛む。
からだの芯は感覚すらなく。
しだいになにもかもがわからなくなった。
「…さん。にいさん……ごめん………」
遠い声。
「ごめん…」
慎の声。
いつもの自信に満ちたエゴイストきわまりない響きは、どうしてか、なかった。
むかし、ずっとむかし。まだオレが自分自身の感情を持て余していなかった頃。――まだ、慎の母のことを屈託なく『母さん』と呼べていた頃。そう、父と彼女の裏切りを知らなかった頃の、慎の声。もっとも、そう思ったのは、後のこと。おそらく、慎の暴行に記憶が混乱していたのだ。
だから、
(どうしたのだろう)
(なにが、そんなに、悲しいんだ…)
大丈夫だと言ってやりたかった。しかし、声も出ない。手も動かせない。
(どうして)
目を開けることすらできなかった。自分の自由になる箇所がない。それどころか全身の痛みが何故なのかもわからなくて。
ただ混乱し、焦った。
ストンと、自分の〔今〕を思い出せたのは、
「あんたがいれば、なにもいらない………」
慎の声のトーンが変わったからだった。
今まで一度も聴いたことのない、掻き口説くような甘い声。
「兄さん、あんたは、僕のだ。どこにもやらない。勝手に死ぬのだって、許さない」
(え?)
ドクンと、一つ鼓動が大きく鳴った。
信じられない。
ねっとりと絡みついてくる慎の声に、からだが熱くなる。
身勝手きわまりない、独白。しかし、それは、どこか愛の告白に似ていた。
しかし、そんなことを、認めるわけにはいかない。
慎のしたことを、許すわけにはいかない。
これが、愛だなどと、そんなたわけたことを認めてどうするのだ。
これは、愛じゃない。
愛というのじゃなく………、ただの執着なのだ。だから、
(許さない)
(許してなんかやらない)
おわり
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