朝もやの中、赤子の泣き声が、心もとなく耳に届く。
川のほとりにしゃがみこんだ少女が、芦にかかって揺れる塊を抱き上げた。
今にも死に絶えそうな弱々しい声。
「大丈夫。大丈夫だからね」
優しくささやきかけながら、赤子の体温を奪う布を取り去った。
水を拭い、腰骨の上に見つけた紛れもない刻印に、息を呑む。
「ああ。可哀相に………」
いたいけな身に背負わされた魔女のしるしに、この双子の一生が、決して晴れやかなものとはなりえないだろうことを、ラウラは、悲しんだ。
戸惑い、笑い、泣き、怒る。照れたようすも、拗ねた顔も、ころころと変わる表情が、忙しなくも愛しい。
古びたリュートを見よう見まねで爪弾いて、即興の曲を弾く。ジュールの奏でる音楽に合わせて踊れば、そのステップに、観客が、一斉に沸いた。
拍手とともに足元にばら撒かれるコイン。
拾い集めるのは、小さなぷくぷくとした手。
幼い妹を抱き上げて、ラウルはもう一度少しおどけたおじきをして見せた。
客が去ってゆくのを見送り、
「やった!」
ジュールと顔を見合わせ、手を高く合わせる。
「ごくろうさん」
ラウラが、笑顔で、彼らを迎えた。
「ご飯、できてるよ」
さっさとたべちまいなよ。
言われて椀を取り上げて、
「あちっ」
もう少しで、取り落としそうになった。
「まったく、そそっかしいなぁ」
ジュールに小突かれて、へらりと笑う。
「ああ、その顔だけはよしなよ」
母親にたしなめられる。
「わかってるけどさぁ」
椀の中のスープに息を吹きかけながら、ラウルが答えた。
「馬鹿みたく見える」
「あっ、言ったな!」
ジュールに掴みかかれば簡単にいなされて、
「押し殺される〜」
ムッとばかりに、ラウルが膨れる。
「なんでよっ。オレそんなに重かないやい」
「けど、オレよか重いよな」
そういって笑うジュールは、ラウルに比べてどう見ても骨細である。
「そんなに変わんないって」
似たかよったかじゃん。
舌を出すラウルに、
「悪かったな」
今度はジュールがそっぽを向いた。
魔王の新たな子が双子であったと知ったとき、ユージーンも、また、魔王も、少なからぬ驚愕を覚えた。
互いに褐色の髪と瞳の双子は、しかし、似ているのは、それだけであるようだった。
明るく感情豊かな少年と、どこか物憂げな少年とに、双子はそれぞれ成長した。それはどうやら持って生まれた性格の違いであるらしかった。同様に外見も、異なっていた。心持ちふっくらとした少年がラウルで、あまり肉がつく性質ではない少年がジュールだった。
飽きない。
どの表情も、どんな行動も。
少年たちのその一つ一つが、ユージーンを魅せないことはなかった。
しかし、より深く彼を魅せた少年は、ただひとりだった。
できるだけ早く、彼をこの腕に抱きとめたいと、ユージーンはそう思った。
それは、ラウルが十五の春だった。
木漏れ日の中で出合った若者を思い出して、ひとりでにラウルの頬が赤く染まった。
見たこともないような、立派な衣装をまとった、一目で上流階級に属するとわかる、若者だった。
信じられないほどの美貌に、やわらかな微笑をたたえて、金色の眸が、ラウルを見た。
刹那。
心臓が、ひときわ大きく弾んだのだ。
一目ぼれ――――だった。
はじめて会ったばかりの、名前すら知らない、男であるというのに。
同性の。
なのに、生まれてはじめて、家族以外の誰かを、好きだと、心が切なく、竦みあがった。
動くことすらできなくて。
ただ、ラウルは、その漆黒の髪を、金色の眸を、見つめていた。
「ラウル」
いつの間にかすぐ目の前に、そのひとは立っていた。
白い、まるで象牙細工のような手が、やさしく、ラウルの頬に触れた。
「オレの名前………」
震えがはしる。
莞爾とばかりに微笑むその白皙に、目を奪われて、それでも、恥ずかしさに、顔を背ける。
「なんだって知っていますよ」
耳元にささやかれる蠱惑を含んだ甘い吐息に振り返れば、
「僕の名は、ユージーンというのですよ」
金の眸が、ラウルの目を覗きこんだ。
「呼んでください」
あなたの声で。
ラウル?
乞われるようなひびきに、こわばりついた喉を震わせた。
「ゆーじーん」
と――――――――――。
その瞬間、襲いかかってきた戦慄。
まるで、雷にうたかれたかのような、衝撃。
目の前の美貌の主との間に築かれたなにかを、ラウルは強く感じた。
うっとりと、目を細めて笑うユージーンが、耳の付け根に、くちびるを押し当てた。
かすかな痛み。
痛みから広がる、じわじわとした心地よさに、ラウルは、全身から力が抜けてゆくのを感じていた。
「これは、約束の証。君と僕の………次に合うときまで、僕のことを忘れないで」
そう言って、ユージーンは、どこへともなく去っていったのだ。
名前しか知らない彼を思い出すと、同時に、全身があのときの陶酔を思い出す。
甘く切ない、痛み。
これまで知らなかった、不思議な感情に、ラウルは、ただ、捕らわれていた。
繋がった。
ラウルが自分の名を読んだ刹那、どれほどの陶酔に襲われたか、知るものがいるのだろうか。
倦怠を忘れて、ただ、至福を感じていたあのひととき。
――――彼がいるから、この冬を乗り切らなければならない。
そんな欲が生まれていた。
兄も姉も、この感情を、持ちえなかったのか。
冬を越えれば、この手に抱こう―――と、心の奥底から欲しいと願うものがなかったのか。
これが、恋。
でなければ、執着。
彼を、自分以外の誰にも奪われないように、必ず、自分は、冬の果てに、目覚めよう。
どれだけ、あのまま異界へと、彼を奪い去りたかったことか。
それをしなかった理由は、ただひとつ。
魔王の純血の子がユージーンだけであるのとは異なり、混血の子は、ラウルとジュールのふたりだった。
たとえ自分が欲するのがラウルただひとりであったとしても、混血の子はもう一人いる。
たとえ自分は無事だとしても、ジュールが死ねば、ラウルは嘆くだろう。
嘆くラウルなど見たくなかった。
冬の間、ふたりを守ることは、ユージーンであれ、不可能なことでしかなく。
しかし、王の血を欲しがるあまたの異形たちからラウルたちを守れるものもまた、彼以外にはない。
人界にあれば、少なくとも、異形からは、守られる。
今の時代、人界へと足を運ぶのは、よほどの剛の者だけである。
自分以外には、王しかいない。
王が、ふたりを害するわけもなく。
だからこそ、安全な地であるはずだったのだ。
ユージーンは、ゆるゆると、瞼を閉じる。
目覚めの果ての幸福を疑いもせずに。
ラウルの笑顔を思い描きながら。
ラウルもジュールも共に十七になったばかりだった。
いやだいやだいやだ。
首を振り、後ずさる。
目の前に立つのは、大きな男。
白い僧服を身にまとい、胸元に金の十字架をぶら下げて。
労働を知らない、ふにゃりとやわらかな手が、ラウルに向かって伸ばされる。
壁に背中がぶつかった。
二の腕を掴まれて、ラウルの全身が、大きく慄く。
顎を捉えられ、掌の感触に、首を竦めた。
背中があわ立つ。
「家族を助けてくれるなら、と、約束しただろう。そうして、私は、約束を果たした」
ん? と、顔を覗きこまれ、ラウルの動きが、止まった。
僧侶のことばが半ば真実であれ、残りが嘘であることを、ラウルは知らない。一度、ラウルの目の前で解放した彼の家族を、もう一度捕らえて、地下に繋げと命じたのは、彼自身だったのだ。
教会前の広場でいつものように出し物をしていた。
ただそれだけだったのに。
突然教会の扉が開いたと思えば、修道士たちに取り囲まれていた。
逃げる間も何も、ありはしなかった。
なにが起きたのかもわからないままで、ラウルたちは、教会へと連れ込まれたのだ。
石の床が冷たい。もうじき冬支度が必要だった。
怯えた妹が泣いていた。
青ざめた、母親と、ラウラ。
ジュールが、ラウルの手を握った。
やがて現われたのは、この教会の責任者というにはやけに若い男だった。男は、しずかに、ラウルたちを見渡した。その視線がラウルを見て、にやりと細くなる。そうして、ラウルだけが、家族から引き離されたのだ。
三十過ぎぐらいなのか。のっぺりとした白い顔が、いやらしい欲望に歪んでいる。
目を硬く閉じたのを承諾ととった僧服の男が、ラウルの髪を掻きあげた。
鳥肌が立つ。
くちびるを耳元に寄せられ、ラウルの眉間の皺が、より深いものになった。
いやだっ!
食いしばったくちびるから、赤い血が、糸を引く。
目頭から、悔し涙が、にじみこぼれる。
「可愛がってやろうというのだ。なにを泣くことがある」
丈の短い上着の裾から、掌が、もぐりこんでくる。
ピッとやけに甲高い音をたてて、シャツが、引き裂かれた。
ぞわぞわと、ただ、肌があわ立つだけの感触に、ラウルの脳裏に、金の眸が、過ぎった。
「ユッ」
名を呼ぼうとしたその時、
ガツンッと、全身を襲ったのは、これまでとはまったく別の、痛みだった。壁に突き飛ばされ、床に蹲る。
「おまえっ」
男の声が、硬くこわばりついている。
見上げようと、かすむ目を凝らすが、白くかすむ視界に、ぼんやりとしか見えなかった。
「魔女かっ」
僧服の男の悲鳴めいた声を最後に、ラウルの意識は、失われた。