「タピスリーができたってさ」
ラウルの頬を撫でていたユージーンが、ジュールのことばに振り返る。
「いったいいつがきたら、全部揃うんだ」
苛々しながら、アンドロメダ姫のタピスリーを広げて見せる。
「いないと思っていたら、彼女たちのところにいたのですね」
受け取りながら、ユージーンが独り語ちた。
青い波。陽射しきらめく空。人間の都合など関係ないとばかりのきらめきのなかで、半裸の姫が、岩肌に縛められている。やがて救いが現われることなど知らないのだろう。うなだれた頬に、閉じた瞼に、絶望のかげりが宿っている。
「あいかわらず、彼女たちの手はみごとなものですね」
ずしりと重いタピスリーが、ユージーンの腕の中で、かすかに波打つ。
「最後の一枚は、最後の犠牲者のもの。その恨みも絶望も、生々しいかぎりでしょうから」
恬淡と、ユージーンがつぶやいた。
「まだなのかよ」
まだか。
ジュールの全身が震えた。
「まだですけれどね。彼女たちがそう言いませんでしたか? 残念ながら、ラウルが救われるのも、君が救われるのも、まだ先のようですね」
ふたりの視線がラウルに向けられた。
ラウルはただ眠っている。
稚いばかりの寝顔は、どんな夢を見ているのか、穏やかなものだ。
「たぶん、ラウルはオレと違って優しいから………だから、目覚めないんだろう」
ポツリと零れ落ちた一言に、ユージーンがジュールを見た。
「今更、後悔、ですか?」
「違う。後悔なんか……していない。ただ…………ただ、ほんの少しナーバスになっちまってるだけだ」
自分で、この道を選んだことを、後悔はしていない。それでも、違う道があったのだと、限りなく後悔に近い感情が、ラウルを見ていて脳裏を過ぎったのも確かだった。
「君も、充分に優しいと思いますけどね」
「オレ? オレは、ただの弱虫だよ。ラウルは復讐なんか望んでない。ただ与えられた死を、それがどんなに酷いものでも、受け入れたんだ。けど、オレには、それが出来なかった。だから、今、オレは、ここにこうしているんだ………あんたの親父に魂を売り渡してまで」
「自分だけのためじゃないでしょう。家族のためにも、許せなかった。だから、父に、すべてを渡すと、誓った。違いますか?」
「そうだ………けど」
「それでいいと思いますけどね。あなたの家族も、最後の一人も、他の者たちも。苦しみつづけているじゃないですか。今もね。彼らの苦痛は、彼らを害したものの痛みでしか癒されませんよ」
昔、どこかの誰かが言いましたっけね。
右の頬を打たれれば、左の頬も出しなさい――と。
打たれた痛みは、その本人にしかわかりませんよ。
だから、別の誰かは、目には目を、歯には歯を――――と言ったのでしょうけど。
けれども、それだって、被害者にとっては、生ぬるい――と、苛立つことでしかないのでしょう。
「ね」
琥珀色の眸が、笑みをかたちづくる。
赤いくちびるが、持ち上がる。
美しい微笑みに、ジュールの背筋が、逆毛立った。
なにかがおかしい。
いや。
すべてが、おかしいのだ。
終わりのない嵐。
立派な城。
美貌の城主。
家令らしい若者。
そうして、城中を埋め尽くすかの、おびただしいタピスリー。
これらを織っているのが、若者が入っていった部屋の主なのだろうか。紡ぎ車の音や、機織の音に混じって、しわがれた笑い声が、聞こえていた。
神話に登場する獣たちの目が、自分を見ているような気がして、眠れない。
すばらしい味のワインを再び取り上げる。浴びるようにして、司教は、飲んだ。
酔いが、眠りを導いてくれることを祈りながら。
しかし―――――
「うわあっ」
襲い掛かる悪魔に、飛び起きた。
薄暗い室内は、しんと、冷たい空気に満ちている。
「ふう」
流れる冷汗を拭ったとき、さわさわと、ひそひそと、ささやき交わす声が耳に突いた。
楽しげではない、不安を煽るような、そんな声音だ。
「だれだっ」
司教の声に、ぴたりと、止まる。
辺りを見回しても、誰もいない。
暗がりに慣れた目に映るのは、壁を覆う、タピスリーの、影。
脳裏を過ぎるのは、この間の光景。
ぞくりと、後頭部が逆毛立った。
こんな城にはいられない。
そう思うのに、なぜか、出てゆこうとする意思が、挫けるのだ。
嵐――だけが、理由ではない。
しかし、なにが、こんなにも、自分を押しとどめようとするのか。
意識が冴えて、寒気に震えた。
暖炉の火が、消えかけている。
薪を足さなければ。
ベッドから降りた足元が、べちゃりと濡れている。
雨漏りなどしようはずがない、堅牢な城の一室だというのに。
見下ろす視線の先、消えかけた炎に赤黒く光を弾く床が生々しい。
そう見えただけで、全身に鳥肌が立った。
奥歯を噛み締める。
震えるからだを抱きしめて、一歩進んだ。
これは、幻覚なのだ。
自分は、神に仕えるもの。
これは、試しなのだ。
うろたえてはいけない。
けれど、いったい、どっちの試しなのだろうか。
自分は、神に仕えるもの。
思う心の片隅で、神の試しか悪魔の試しか、疑心がわきあがる。
震える手で火掻き棒を取り上げた。
今にも、暖炉のどこかから、火に焼け爛れたなにかが出てきそうな気がしてならない。
気の迷いだ。
しかし――――
ドクンドクンと、心臓が痛いくらいに、鼓動を刻む。
耳鳴りが、上下の感覚を乱すような、錯覚があった。
火掻き棒を暖炉に差し込んだ瞬間、積み上げられていた薪が、突然、音をたてて崩れた。
ひときわ大きく炎が揺らめき、そうして、室内は、完全な闇に閉ざされた。
「うわあぁっ!」
「うわっ」
叫びながらまろび出てきた司祭を避けるまもなく、ジュールはしたたかに背中を壁にぶつけた。
「いってぇ…………」
後頭部をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
気がつけば、足元で蹲っている司祭が、小刻みに震えている。
ジュールの口端が、ひきつるように震えた。
このまま足蹴にしてやれば、どんなに…………。
ふるふると、頭を横に振る。
「司祭さま。どうなさいました」
しゃがんで肩に手をかけると、顔を持ち上げた。
「あ、あ、ええ、あなたですか」
司祭の怯えたさまに、どうしても笑いそうになる自分を律しながら、ジュールは、手を差し出した。
「どうぞ」
「すみません」
「まだ、夜は明けませんよ。お部屋に戻られて、おやすみください」
扉を開けようとするジュールの手に手をかけて、
「いや。部屋を、部屋を変えてほしい」
と、縋りつかんばかりである。
「また、ですか?」
ほんの少しだけ呆れたふうに、ジュールは、司祭を見下ろした。
おそらく、タピスリーにこめられた魂たちが、これ幸いと司祭に襲い掛かったのだろう。
溜息をつきながら、
「わ、悪いと思ってはおるのですが」
いつもの尊大な雰囲気が嘘のような司祭に、
「明日では、いけませんか」
半分は本音である。誰が、夜の夜中に部屋を整えたいものか。
「どこでも結構です」
そうまで言われては、突き放すわけにもいかないだろう。お楽しみはまだまだ後のことなのだから。
「とりあえず、今夜は私の部屋をお使いください」
ベッドを使わすくらいなら、問題は起きないだろうし。
ジュールは、司祭を、階段下の自室へと案内した。
「どうしました」
溜息をついたジュールに、ユージーンが、声をかけた。
どこか、笑いをにじませたような声に、
「意地が悪いよな」
ベッドの上に上半身を起こしたままで、ジュールがじろりと見上げる。
「どうぞ。蜂蜜とレモンを入れておきましたよ」
「王子さま御手ずから、ありがとうございます」
恭しく額の前に持ち上げる。
「どういたしまして。未来の母上には、孝行いたしますよ」
喉に送ろうとしていたワインが、気管に逸れた。
ひとしきり咳き込んで、ジュールが涙目を擦った。
「な、んっつーことを」
つぶやくと、
「昨夜は、父上がお見えのようでしたけど」
よっぽど、君のことが心配なんですねぇ。
「わるかったな」
「なにがあったんです」
突然、ユージーンのまとうものが、真剣なものへと変化した。
琥珀の眸が、濃さを増す。
とろりとした黄金のようなまなざしは、あまりに非人間的過ぎて、後頭部の髪が逆毛立つ。
「……タピスリーが、司教を襲ったらしいんだ。それで、部屋を変えてくれっていうから」
ジュールは肩を落とした。
「部屋くらいかまわないだろって思ったんだけどさ」
「ああ……そういうことですか」
クスリとひとつ笑いをこぼすと、
「父上も、嫉妬深いようですね」
「なんでよ。オレは、悪魔に魂を売り渡したんだ。なのに、なんで、あんたもあんたの親父も、別の意味にとるんだよ」
ジュールはこめかみを押さえた。
「でも、それだけじゃなかったんでしょう?」
悪戯そうに言われて、もはや何度目かもわからない溜息をついた。
まさかとは思うが、あの悪魔もこの悪魔も、自分の行動を監視してでもいるのだろうか。
昨夜、自室に案内してすぐに司教の部屋に行こうと思っていたのだが。
『すみませんが、手を離していただけませんか』
司教は首を振って、ジュールの上着を離してはくれない。
『頼みますから』
『いやだ』
聞き分けのない子供のような力に、ジュールは適わなかった。
押し倒され、抱きしめられ、吐息が耳を掠める体勢に、ジュールは焦った。
オレのほうが、厭にきまってるだろう。
魂を売った相手に、そういう行為をほのめかされてはいるものの、はっきり言って、ジュール自身にそういう趣味はないのだ。
もがけばもがくだけ、溺れた人間がなにかにしがみつこうとするように、必死になってすがりついてくる。
クソッ。
こんなこと知られたら。
あの男が自分に言ったことばが、脳裏を過ぎった。
からだを自分以外に触れさせるなと。
自分のものなのだと。
肝に銘じておけ―――――と。
冷たい汗が、ジュールの背中を滑り落ちる。
なんで、引き剥がせないんだ。
躍起になれば躍起になるほど、まるで蛭のような執拗さで、しがみついてくる。
神を信じているんじゃないのか。
神の僕なのだろうがっ!
ぎゅうぎゅうと絡み付いてくる感触に、怖気が立つ。
『やめっ』
司教相手の仮面が、剥がれ落ちそうになったその刹那だった。
大きな音をたてて、木製の窓が、開いた。
司教が、ひときわ大きな悲鳴を上げて、ジュールを放した。
雨が吹き込み、風がはいってくる。
突然の吹き込みに、しかし、はかないはずの蝋燭の炎は、はためくだけで、消えずに燃えさかっていた。
窓に近づいたジュールは、背後に、あの気配を感じて立ちすくんだ。
何で来るんだ。
しかも、こんなタイミングで現われたりしたら、司教にばれたら、万事休すじゃないか。
恐怖よりも、腹立たしさが勝った。
振り返ると、案の定、そこには、あの存在が着衣をはためかせて立っていた。
彫の深い面を、陰影が厳しいものに飾り立てている。
ガラガラと、雷鳴が、轟いた。
幾条もの雷光が、夜空を引き裂く。
どこかに落ちた気配が城を震わせた。
きつい視線が、ジュールに据えられ、微塵も動かない。
近づいてくる男に、ジュールが、後退さる。
これまでに感じたことがないほどの恐怖に、一歩が、心もとなかった。
頭から、司教のことなど、消えていた。
ただ、視線を逸らせれば最後だと。それだけが、頭を占めていたのだ。
どうしようもなかった。
男の怒りに、なすすべもなく、ジュールは、摘み取られ、毟られ、散らされたのだ。
「君に関しては、父上も、結構、我慢がきかないのですね」
「おかげで、動けやしない」
ユージーン相手だと、片意地張らずにいられる。
「いいきっかけですよ。司教は、別のものに任せましたから」
ジュールが肩を竦めた。
「落ち着かないなら、ラウルの世話をしますか」
「あんた以外がラウルに触って、いいのか?」
クスクスと、ユージーンが笑った。
「君は、ラウルに不埒な感情を抱いてはいませんからね」
「あっ、あたりまえだろうっ!」
なんで、弟に。
ラウルと自分は、双子なのだ。
「では、すみませんが、お願いしましょう」
そう言うと、ユージーンは、ジュールを残して、部屋を出て行った。