悪魔と踊れ  5 



「タピスリーができたってさ」
 ラウルの頬を撫でていたユージーンが、ジュールのことばに振り返る。
「いったいいつがきたら、全部揃うんだ」
 苛々しながら、アンドロメダ姫のタピスリーを広げて見せる。
「いないと思っていたら、彼女たちのところにいたのですね」
 受け取りながら、ユージーンが独り語ちた。
 青い波。陽射しきらめく空。人間の都合など関係ないとばかりのきらめきのなかで、半裸の姫が、岩肌に縛められている。やがて救いが現われることなど知らないのだろう。うなだれた頬に、閉じた瞼に、絶望のかげりが宿っている。
  「あいかわらず、彼女たちの手はみごとなものですね」
 ずしりと重いタピスリーが、ユージーンの腕の中で、かすかに波打つ。
「最後の一枚は、最後の犠牲者のもの。その恨みも絶望も、生々しいかぎりでしょうから」
 恬淡と、ユージーンがつぶやいた。
「まだなのかよ」
 まだか。
 ジュールの全身が震えた。
「まだですけれどね。彼女たちがそう言いませんでしたか? 残念ながら、ラウルが救われるのも、君が救われるのも、まだ先のようですね」
 ふたりの視線がラウルに向けられた。
 ラウルはただ眠っている。
 稚いばかりの寝顔は、どんな夢を見ているのか、穏やかなものだ。
「たぶん、ラウルはオレと違って優しいから………だから、目覚めないんだろう」
 ポツリと零れ落ちた一言に、ユージーンがジュールを見た。
「今更、後悔、ですか?」
「違う。後悔なんか……していない。ただ…………ただ、ほんの少しナーバスになっちまってるだけだ」
 自分で、この道を選んだことを、後悔はしていない。それでも、違う道があったのだと、限りなく後悔に近い感情が、ラウルを見ていて脳裏を過ぎったのも確かだった。
「君も、充分に優しいと思いますけどね」
「オレ? オレは、ただの弱虫だよ。ラウルは復讐なんか望んでない。ただ与えられた死を、それがどんなに酷いものでも、受け入れたんだ。けど、オレには、それが出来なかった。だから、今、オレは、ここにこうしているんだ………あんたの親父に魂を売り渡してまで」
「自分だけのためじゃないでしょう。家族のためにも、許せなかった。だから、父に、すべてを渡すと、誓った。違いますか?」
「そうだ………けど」
「それでいいと思いますけどね。あなたの家族も、最後の一人も、他の者たちも。苦しみつづけているじゃないですか。今もね。彼らの苦痛は、彼らを害したものの痛みでしか癒されませんよ」
 昔、どこかの誰かが言いましたっけね。
 右の頬を打たれれば、左の頬も出しなさい――と。
 打たれた痛みは、その本人にしかわかりませんよ。
 だから、別の誰かは、目には目を、歯には歯を――――と言ったのでしょうけど。
 けれども、それだって、被害者にとっては、生ぬるい――と、苛立つことでしかないのでしょう。
「ね」
 琥珀色の眸が、笑みをかたちづくる。
 赤いくちびるが、持ち上がる。
 美しい微笑みに、ジュールの背筋が、逆毛立った。



 なにかがおかしい。
 いや。
 すべてが、おかしいのだ。
 終わりのない嵐。
 立派な城。
 美貌の城主。
 家令らしい若者。
 そうして、城中を埋め尽くすかの、おびただしいタピスリー。
 これらを織っているのが、若者が入っていった部屋の主なのだろうか。紡ぎ車の音や、機織の音に混じって、しわがれた笑い声が、聞こえていた。
 神話に登場する獣たちの目が、自分を見ているような気がして、眠れない。
 すばらしい味のワインを再び取り上げる。浴びるようにして、司教は、飲んだ。
 酔いが、眠りを導いてくれることを祈りながら。
 しかし―――――
「うわあっ」
 襲い掛かる悪魔に、飛び起きた。
 薄暗い室内は、しんと、冷たい空気に満ちている。
「ふう」
 流れる冷汗を拭ったとき、さわさわと、ひそひそと、ささやき交わす声が耳に突いた。
 楽しげではない、不安を煽るような、そんな声音だ。
「だれだっ」
 司教の声に、ぴたりと、止まる。
 辺りを見回しても、誰もいない。
 暗がりに慣れた目に映るのは、壁を覆う、タピスリーの、影。
 脳裏を過ぎるのは、この間の光景。
 ぞくりと、後頭部が逆毛立った。
 こんな城にはいられない。
 そう思うのに、なぜか、出てゆこうとする意思が、挫けるのだ。
 嵐――だけが、理由ではない。
 しかし、なにが、こんなにも、自分を押しとどめようとするのか。
 意識が冴えて、寒気に震えた。
 暖炉の火が、消えかけている。
 薪を足さなければ。
 ベッドから降りた足元が、べちゃりと濡れている。
 雨漏りなどしようはずがない、堅牢な城の一室だというのに。
 見下ろす視線の先、消えかけた炎に赤黒く光を弾く床が生々しい。
 そう見えただけで、全身に鳥肌が立った。
 奥歯を噛み締める。
 震えるからだを抱きしめて、一歩進んだ。
 これは、幻覚なのだ。
 自分は、神に仕えるもの。
 これは、試しなのだ。
 うろたえてはいけない。
 けれど、いったい、どっちの試しなのだろうか。
 自分は、神に仕えるもの。
 思う心の片隅で、神の試しか悪魔の試しか、疑心がわきあがる。
 震える手で火掻き棒を取り上げた。
 今にも、暖炉のどこかから、火に焼け爛れたなにかが出てきそうな気がしてならない。
 気の迷いだ。
 しかし――――
 ドクンドクンと、心臓が痛いくらいに、鼓動を刻む。
 耳鳴りが、上下の感覚を乱すような、錯覚があった。
 火掻き棒を暖炉に差し込んだ瞬間、積み上げられていた薪が、突然、音をたてて崩れた。
 ひときわ大きく炎が揺らめき、そうして、室内は、完全な闇に閉ざされた。



「うわあぁっ!」
「うわっ」
 叫びながらまろび出てきた司祭を避けるまもなく、ジュールはしたたかに背中を壁にぶつけた。
「いってぇ…………」
 後頭部をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
 気がつけば、足元で蹲っている司祭が、小刻みに震えている。
 ジュールの口端が、ひきつるように震えた。
 このまま足蹴にしてやれば、どんなに…………。
 ふるふると、頭を横に振る。
「司祭さま。どうなさいました」
 しゃがんで肩に手をかけると、顔を持ち上げた。
「あ、あ、ええ、あなたですか」
 司祭の怯えたさまに、どうしても笑いそうになる自分を律しながら、ジュールは、手を差し出した。
「どうぞ」
「すみません」
「まだ、夜は明けませんよ。お部屋に戻られて、おやすみください」
 扉を開けようとするジュールの手に手をかけて、
「いや。部屋を、部屋を変えてほしい」
と、縋りつかんばかりである。
「また、ですか?」
 ほんの少しだけ呆れたふうに、ジュールは、司祭を見下ろした。
 おそらく、タピスリーにこめられた魂たちが、これ幸いと司祭に襲い掛かったのだろう。
 溜息をつきながら、
「わ、悪いと思ってはおるのですが」
 いつもの尊大な雰囲気が嘘のような司祭に、
「明日では、いけませんか」
 半分は本音である。誰が、夜の夜中に部屋を整えたいものか。
「どこでも結構です」
 そうまで言われては、突き放すわけにもいかないだろう。お楽しみはまだまだ後のことなのだから。
「とりあえず、今夜は私の部屋をお使いください」
 ベッドを使わすくらいなら、問題は起きないだろうし。
 ジュールは、司祭を、階段下の自室へと案内した。



「どうしました」
 溜息をついたジュールに、ユージーンが、声をかけた。
 どこか、笑いをにじませたような声に、
「意地が悪いよな」
 ベッドの上に上半身を起こしたままで、ジュールがじろりと見上げる。
「どうぞ。蜂蜜とレモンを入れておきましたよ」
「王子さま御手ずから、ありがとうございます」
 恭しく額の前に持ち上げる。
「どういたしまして。未来の母上には、孝行いたしますよ」
 喉に送ろうとしていたワインが、気管に逸れた。
 ひとしきり咳き込んで、ジュールが涙目を擦った。
「な、んっつーことを」
 つぶやくと、
「昨夜は、父上がお見えのようでしたけど」
 よっぽど、君のことが心配なんですねぇ。
「わるかったな」
「なにがあったんです」
 突然、ユージーンのまとうものが、真剣なものへと変化した。
 琥珀の眸が、濃さを増す。
 とろりとした黄金のようなまなざしは、あまりに非人間的過ぎて、後頭部の髪が逆毛立つ。
「……タピスリーが、司教を襲ったらしいんだ。それで、部屋を変えてくれっていうから」
 ジュールは肩を落とした。
「部屋くらいかまわないだろって思ったんだけどさ」
「ああ……そういうことですか」
 クスリとひとつ笑いをこぼすと、
「父上も、嫉妬深いようですね」
「なんでよ。オレは、悪魔に魂を売り渡したんだ。なのに、なんで、あんたもあんたの親父も、別の意味にとるんだよ」
 ジュールはこめかみを押さえた。
「でも、それだけじゃなかったんでしょう?」
 悪戯そうに言われて、もはや何度目かもわからない溜息をついた。
 まさかとは思うが、あの悪魔もこの悪魔も、自分の行動を監視してでもいるのだろうか。
 昨夜、自室に案内してすぐに司教の部屋に行こうと思っていたのだが。
『すみませんが、手を離していただけませんか』
 司教は首を振って、ジュールの上着を離してはくれない。
『頼みますから』
『いやだ』
 聞き分けのない子供のような力に、ジュールは適わなかった。
 押し倒され、抱きしめられ、吐息が耳を掠める体勢に、ジュールは焦った。
 オレのほうが、厭にきまってるだろう。
 魂を売った相手に、そういう行為をほのめかされてはいるものの、はっきり言って、ジュール自身にそういう趣味はないのだ。
 もがけばもがくだけ、溺れた人間がなにかにしがみつこうとするように、必死になってすがりついてくる。
 クソッ。
 こんなこと知られたら。
 あの男が自分に言ったことばが、脳裏を過ぎった。
 からだを自分以外に触れさせるなと。
 自分のものなのだと。
 肝に銘じておけ―――――と。
 冷たい汗が、ジュールの背中を滑り落ちる。
 なんで、引き剥がせないんだ。
 躍起になれば躍起になるほど、まるで蛭のような執拗さで、しがみついてくる。
 神を信じているんじゃないのか。
 神の僕なのだろうがっ!
 ぎゅうぎゅうと絡み付いてくる感触に、怖気が立つ。
『やめっ』
 司教相手の仮面が、剥がれ落ちそうになったその刹那だった。
 大きな音をたてて、木製の窓が、開いた。
 司教が、ひときわ大きな悲鳴を上げて、ジュールを放した。
 雨が吹き込み、風がはいってくる。
   突然の吹き込みに、しかし、はかないはずの蝋燭の炎は、はためくだけで、消えずに燃えさかっていた。
 窓に近づいたジュールは、背後に、あの気配を感じて立ちすくんだ。
 何で来るんだ。
 しかも、こんなタイミングで現われたりしたら、司教にばれたら、万事休すじゃないか。
 恐怖よりも、腹立たしさが勝った。
 振り返ると、案の定、そこには、あの存在が着衣をはためかせて立っていた。
 彫の深い面を、陰影が厳しいものに飾り立てている。
 ガラガラと、雷鳴が、轟いた。
 幾条もの雷光が、夜空を引き裂く。
 どこかに落ちた気配が城を震わせた。
 きつい視線が、ジュールに据えられ、微塵も動かない。
 近づいてくる男に、ジュールが、後退さる。
 これまでに感じたことがないほどの恐怖に、一歩が、心もとなかった。
 頭から、司教のことなど、消えていた。
 ただ、視線を逸らせれば最後だと。それだけが、頭を占めていたのだ。

 どうしようもなかった。
 男の怒りに、なすすべもなく、ジュールは、摘み取られ、毟られ、散らされたのだ。

「君に関しては、父上も、結構、我慢がきかないのですね」
「おかげで、動けやしない」
 ユージーン相手だと、片意地張らずにいられる。
「いいきっかけですよ。司教は、別のものに任せましたから」
 ジュールが肩を竦めた。
「落ち着かないなら、ラウルの世話をしますか」
「あんた以外がラウルに触って、いいのか?」
 クスクスと、ユージーンが笑った。
「君は、ラウルに不埒な感情を抱いてはいませんからね」
「あっ、あたりまえだろうっ!」
 なんで、弟に。
 ラウルと自分は、双子なのだ。
「では、すみませんが、お願いしましょう」
 そう言うと、ユージーンは、ジュールを残して、部屋を出て行った。


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up   20:50:03 2008 09 12
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