悪魔と踊れ 6
ジュールという名前の青年を探していた。
体調を崩したとかいう話で、彼と違う人間が食事を運んできた。
そっけない態度で、食事を置くと、すぐに部屋から出て行った。
食事は相変わらず上等なものだったが、味も何もわからなかった。
ジュールに一緒にいて欲しかった。
そうすれば、不安も、恐怖も、いなせる気がした。
胸元のクルスを手繰り寄せながら、きょときょとと、視線をさまよわせる。
恐ろしいばかりのタピスリーを壁から引き剥がしてしまいたい衝動に駆られる。しかし、近づくのすら、厭わしかった。
みごとな城だ。
しかし、陰気な城だ。
陰気で、不穏な、城。
それは、城主にも言えた。
あまりの美貌に、恐怖を覚える。
赤いくちびるが紡ぐのは、ここちよい言葉だった。
喉の奥で鈴が転がるような笑い声もまた。
しかし、ふと気がつけば、その琥珀のまなざしは、凍えた月のように冴え冴えとして、非人間的だった。
ひとを人として見てはいない。
どこか、自分を蔑んでいる。
後頭部が逆毛立つような感覚に、城主との対話が苦痛になった。
早く嵐がやめばいいのだ。
そうすれば、ここから出て行ける。
窓を開けて、雨風に、溜息をついた。
時間の感覚はすでにない。
今が朝なのか昼なのか、夜なのか、もはやわからなかった。
はためくタピスリーに、血の気が引く。
怖い。
司教はジュールを探す足を速めた。
「ちょっ、ちょっとまってくれっ」
ジュールの声には、明らかに狼狽と恐怖とが含まれている。
「なんでっ。事が終わるまで好きにしろっていったの、あんたじゃないかっ」
「あれのやり方は、悠長すぎる」
いいかげん、待つのも飽きた。
きっかけを作ってやろう。
「なんのっ」
くつくつと喉の奥で噛み殺す笑い声。
「ま、まだ痛いって」
焦った声が、己の窮状を訴える。
「オ、オレを殺す気かっ!」
甲高い悲鳴が短く響き、布を裂く音が鋭く空気をかき乱した。
黒い髪黒い瞳の壮年の男が、ジュールを組み敷く。
肉付きの薄いからだが、赤く染まる。
首の後ろで褐色の髪を束ねている赤い布がほどけて落ちた。
それは、室内を照らす炎の色なのか、それとも、羞恥の色なのだろうか。
司教は、薄く開いたドアの隙間から、ジュールが見知らぬ男に犯される場面を見ていた。
ジュールの肌は絹よりもすら滑らかそうに、司教の脳裏に刻み込まれた。
まがうことなき劣情が司教の腰骨をとろとろと焙っていた。
滴り落ちる水滴の音がやむ。
カラカラと回る糸車から音が消えた。
織機のたてる音がやんだ。
「おお」
「おお」
「おお」
喚起の音色が混じる三つのしわがれた声が、やがて高らかに王子の名を呼ばわった。
ぼんやりと目を開けた。
うっすらと光る室内は、見たことがないくらい、きれいだった。
信じられなくて、目を擦る。
白と金とやわらかな色調。
花のいい匂いがする。
そうして。
「……………」
自分の手を握り目を閉じている青年。
そのつややかな黒髪に、整いすぎて見える白皙に、鼓動がひとつ大きく打った。
「ユ……ジィン」
渇いた喉が、引き攣れて痛い。
驚いたように自分を見下ろす、琥珀の眸が、まるで泣きそうに、細められた。
「ラウル」
甘く響く、低い声。
とても懐かしく思えた。
涙が出そうなくらい懐かしくてたまらなくなる。
一目で恋に落ちた相手が、そこにいる。
恋に落ちて、そうして、すぐ、離れなければならなかった、相手だった。
「なんで? オレ」
ユージーンに助けられて上半身を起こしたラウルは、差し出されたコップの水がとても美味しく感じられて、貪るように、飲み干した。
優しく笑まれて、ラウルの頬が赤く染まる。額を合わされて、頭を撫でられた。そのままもう一度、ベッドに横たえられると、すぐに睡魔が襲ってきた。とろとろと瞼が下がる。
「今しばらく眠っていてください。どうやら、準備はすべて整ったようです」
静かにつぶやくユージーンの瞳には、さっきまでのとろけるようなやわらかな光は宿っていなかった。
「い、いやだぁっ」
感極まった声と濡れた音に、司教の息が荒くなる。
目を閉じることすら出来なかった。
乾いたくちびるを司教が舌で湿らせたとき、男の下になっていたジュールの体勢が変えられた。
男の上になった刹那、欲を煽る短い悲鳴が、ジュールの喉からほとばしった。
赤く染まった象牙色の背が弓なりに撓る。
そのくぼみに、かすかな記憶を引っかくものを、司教は見出した。
赤く禍々しい痣。
その、こうもりの羽の形をした烙印を見た瞬間、
「うおっ」
司教は叫んでいた。
口を押さえても今更である。
抜けた腰が、床を打つ。
痛みなど感じる余裕もありはしなかった。
動きを止めた二人の瞳が、司教に向けられていたのだ。
濡れた褐色の瞳が、たちまちのうちに凝固する。そこにたたえられた感情が羞恥などではなく、紛れもない憎悪であることを、司教は怯えたままで見上げていた。
漆黒の瞳から、たちまちのうちに、艶冶なまでの熱が消滅する。冷酷なまでの冷ややかさがとって代わるのを、司教はただ見ているだけだった。
司教のからだが、小刻みに震える。
ずくずくと、冷たい汗が、全身をしとどに濡らす。
あれと同じ烙印を、何十年も前に見た記憶があった。
あれと同じ烙印を同じ位置に持つ少年を、自分がどうしたのか。
まざまざと思い出す。
屈辱と、それよりも勝る、壮絶なまでの恐怖の記憶が、司教の脳裏を過ぎり、彼の動きを縛めた。
司教の震えがひときわ大きくなった。
立ち上がろうとして、力の入らない足が、自分自身を裏切る。
尻でいざるものの、すぐに壁にぶつかった。
するりするりと、タピスリーが次々と壁から滑り落ち、床にとぐろを巻く。
しかし、ふたりから視線をはがすことも出来ずにいる司教は、それに気づいてすらいなかった。
人間ではない。
この黒い目の男は、人間ではない。
では、何者なのか。
色鮮やかなタピスリーが、まるで氷が解けるかのようにとろけ、赤い溜まりをつくってゆく。
ぴちゃり。
ぬりゃり。
水音が、司教を取り巻く。
だらしなく投げ出されたままの足を、赤い液体が、ぬるりと、捕らえた。
「みごとなものです。とても」
矯めつ眇めつするユージーンの手の中には、老婆たちが織り上げた最後のタピスリーがあった。
それには何の絵柄も織り込まれてはいない。
ただ、赤黒いばかりの布だった。
「まだ、なにが起きたのか理解しておらんらしゅうてな」
「そうじゃな。何の図柄も、織り出せなんだ」
「他の色には染め上げられなんだ」
「さすがですよ。最後の作品にこれ以上ふさわしいものは、ありません」
にっこりと笑うユージーンに、皺深い老婆たちの頬がかすかに染まった。
ふと、ユージーンの表情が、空白になった。
「父上のおいでのようですね」
よほどジュールがお気に召されたようだ。
ユージーンのつぶやきに、老婆たちの顔が強張りつく。
「これ以上悠長に構えていては、どうやら父上の逆鱗に触れそうです。そろそろ最後の仕上げと行きましょう」
そう言うと、ユージーンはその場から姿を消した。
後には、三人の老婆たちが残された。
悲鳴がくちからほとばしる。
逃げる先々に、タピスリーが溶け崩れ、赤い液体へと変貌を遂げる。
司教を包み込むのは、怨嗟の声。呪の声。苦痛を訴える、あまたの、声。
生臭い液体が、小さな手となって、司教を捕らえようとする。
それらを引き千切り振り払い、司教は、城館の奥へとただ闇雲に走った。
「何事です」
聾がわしい音を立ててまろぶように駆け込んできた司教を、ユージーンが見下ろしている。
城主の居間に通じる控えの間だった。
穏やかそうな琥珀のまなざしに、司教の緊張が、少しばかりゆるくなる。
「た、助けて……」
「いったいどうなさったのです。お偉い司教さまらしくありませんよ」
言葉に含まれるかすかな毒にも気づかず、司教は、ユージーンの着衣の裾を握り締めた。
「あ、あ、あああああ」
「私などに助けを求めるより、あなたの神に助けを求められてはいかがです」
あざけるような言葉にも、司教は気づかなかった。
ただ、きつく握り締めたままで、震えるばかりである。
「水でも飲めば落ち着くでしょう」
差し出されたコップを受け取り飲み干した。少しは落ち着いたらしく、司教はようやく立ち上がる。
「あ、あなたの家礼は、魔女ですぞ」
「魔女ですか?」
「笑い事ではありません」
司教がいきり立てば立つほど、ユージーンは笑いを深くしてゆく。
「処刑しなければ」
ついには、堪えきれないとばかりに、声を上げて、笑った。
「ご城主どの?」
「処刑と言われても困るのですよ」
肩を竦める。
ふと気がつけば、いつの間にか、背後にひとの気配があった。
振り向いた司教は、そこに、
「ひっ」
「ジュール。父上が申し訳ありません」
幾分か青ざめた表情を赤く染めて、ジュールが肩を竦めた。
逃げようとする司教の腕を掴み、顔を覗き込む。
「まだ、懲りてないんだな」
「?」
目を白黒させる司教に顔を近づけて、
「あなたの都合で処刑された者たちが、どれほどの苦痛に嘆きつづけているのか、知らないままというのは、罪なことですよ」
ユージーンがささやいた。
「眠れないと泣くんだ」
ジュールが付け加える。
「痛いと、悲鳴を上げるのです」
「無実だと」
「魔女などではないと」
「熱いと」
「苦しいと」
「助けてと」
「自分たちをこんな目に合わせたものに、罰をと」
ふたりが交互に言葉にするたびに、ほろりとタピスリーが解け崩れる。
赤黒い血だまりが、少しずつかさを増してゆく。
ひたひたとかさを増して、驚愕に逃げることすら忘れた司教を包み込んでゆく。
「た、あ、たすけてくれっ」
ねっとりと絡みつく赤い液体にともすれば溺れそうになりながら、司教が叫ぶ。
「オレにしたみたいに、足を砕いて、目を刳り貫いてやろうか」
それから、鞭打ちか。
死ぬまで鞭で打たれたんだ。
それとも、妹にしたみたいに、骨が砕けるまでからだを伸ばしてやろうか。
蛇のように長い半透明の影が、うっすらと現われる。
砕いたガラスの刃の上を馬で引っ張ってやってもいい。
血まみれの影が密やかに現われた。
車輪に括りつけてもな。
いびつに歪んだ影が現われた。
あんたが手を変え品を変えした拷問の数だけ、それが、どんだけ苦しくて痛いか。あんたに教えてやりたいんだ。
みんなそうさ。
ジュールが一言言うたびに、半透明の人影が姿を現し、その濁ったようなまなざしで、司教を無表情に睨めつける。
みんな、あんたにされたことがどれだけ苦しいことだったか、あんたに知って欲しいんだ。
味わって、苦しんで、それでも、狂って欲しくはないんだよ。
狂ったら、わからなくなるからな。
死にそうになったら、生き返らせてくれるって、ユージーンが言うんだ。
だから、大丈夫。
死ぬなんて怖がらなくていいんだ。
正気のままで、味わい尽くしてくれよ。
どれだけの時間がかかるか、オレにはわからないけど。
そうしてくれたら、みんな、眠れるって言うんだ。
安らかに、眠りにつけるって。
「わ、わたしが、手を下したわけじゃっ」
「同じことだ。あんたが、魔女だといわなければ、拷問にかけさえしなければ、オレは、オレたちは、誰も、こんな目にはあわなかった」
だから、おねがいだよ。
強請るようなまなざしと声音とに、司教の背中が逆毛立った。
「い、いやだっ」
魂消るような絶叫が司教の口からほとばしる。
「ユージーン?」
突然眠りから追い出された。
ベッドから降りようとして、足に力が入らないことに気づいた。
「な、なんだ、これ」
椅子に縋って立ち上がり、ラウルは一歩一歩ゆっくりと進んだ。
ひとの気配を、ドアの向こうに感じていた。
かなりな時間をかけてドアを二つ開けたラウルが見たものは、たくさんのうごめく影だった。
地響きを立てるような背筋が凍りつきそうになるような呻き声が、その、たくさんの半ば透けたような影から発せられている。
その中にあってなによりも明瞭なふたつの人影に、ラウルは、近づいていった。
「ラウル」
最初に気づいたのは、ユージーンだった。
静かな声に惹かれるようにして視線を声のほうへとそらせたジュールの褐色のまなざしが、大きく見開かれた。
ラウルがユージーンに抱きしめられている。
うっとりと目を瞑り、全身を預けている。
「ラウル…………」
安心しきった弟のようすに、ジュールの復讐の快美感に酔っていた心が現実へと立ち返る。
後は、家族や仲間の霊に任せればいい。
彼らはこれで、安息を得るだろう。
すべての苦痛を司教に肩代わりさせ、そうして、安らかに消えてゆくことが出来る。
しかし、自分はどうなのだろう。
安心しきってユージーンに抱きしめられているラウルに、ジュールは密やかな羨望を覚えずにはいられない。
愛し合っているのが傍目にもわかる。
何故ともわからない涙が、ジュールの頬を流れ落ちた。
「なにを泣くことがある」
気配もなく背後に現われた魔王に肩を抱かれた。
「今更後悔か」
「違うっ。後悔なんかしてない」
そう。
後悔はしていない。
恨みを晴らすことが出来たのだ。
後は、契約どおり、魔王にすべてを差し出すだけだ。
ジュールは振り返った。
「オレの全部をあんたにやる」
見上げた先で、黒いまなざしが、ほころんだような気がした。
end
up 23:02:53 2008 09 19
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