夜の水面が、青白い光に満たされる。
たゆたゆと揺れる水面につれて、光は消え、再び生まれる。
祖父が愛し還って行った、この夜の海の光景を、わたしはきっと一生忘れないだろう―――と、思った。
海のほとりに立つ館が、祖父とわたしの家である。かつては、日本建築であったそれは、地震で崩壊し、その後、洋館に建て直された。
そこはまた、祖父が生まれ、奪われ、殺されかけた場所でもある。
資産家のお家騒動といえば、使い尽くされた感のある、よくある話ではあるだろう。祖父もまた、その犠牲になりかけたひとりだった。
両親の初七日を済ませた夜、気がつけば、祖父は地下室にいたのだそうだ。
祖父にとっての叔父が、悪鬼の形相で、煉瓦を積んでゆくのを、ぼんやりと、眺めていたらしい。
すでに固く乾いている壁の、上部だけが、人一人くぐれるくらい、口を開けていた。その穴も、埋められてゆく。
祖父は、猿轡を噛まされ、手足をロープでくくられ、そうして、今にも新たな壁の奥に、閉じ込められてゆこうとしていた。
何か薬でも盛られていたのだろう―――と、祖父は、語ってくれた。
ただぼんやりと、叔父の所業を見ていたのだと。
飢えと渇きにさいなまれ、孤独と闇の恐怖に、なぜ一思いに殺してくれなかったのだと、祖父は叔父を呪いすらしたという。
おおらかで、おおよそ、そんな負の感情とは無縁のように思える祖父が、である。
腹筋を使って、縛られた足で壁を蹴ったり、肩で壁に体当たりしたり。できることはすべてやったと、祖父は笑う。
歯で、壁に齧りつきさえしたぞ――――と。
そのどれもが徒労と思えはじめたころ、古い壁の奥に、何かの気配を感じたような気がしたのだそうだ。
壁をたたけば、壁の奥から、音が返ってくる。
狂ったか――と、思いもしたが、そういえば――――と、思い出したのが、一族に伝わる残酷な御伽噺だった。
海の神の娘と一族の男の恋と、破綻と、その、忘れ形見。
やはり館の地下に閉じ込められたのだという、異形の息子。
異形の息子は、財を生むのだと、その母である人魚とともに、父親の手で地下に閉じ込められた。その時、なぜなのか、入り口が作られていたとか、いないとか。
まさか――と、自嘲してみても、おそらく、何でもよかったのだ。縋れるものでありさえすれば、たとえ―――――――。
残る力で壁のあちこちを力任せに蹴りたくり、御伽噺が真実であったのだと、感動を覚える間もありはしなかったのだと、祖父は苦笑していた。
漆喰を厚く塗りこめた下で、蝶番は朽ちていた。
耳にうるさい音をたてて、それまでの努力をあざ笑うかのように口を開いたその奥から、潮風が、吹き込んでくる。
しかし、祖父は、ただ、見上げていたのだ。
ぬめのように白い肌は、青白い燐光を帯び、つややかな黒髪が、水をふくんで、からだにまとわりつく。一対の、黄金のまなざしが、祖父を見下ろし、朱のくちびるが、ゆっくりとほころんでゆくのを見て、祖父は、意識を失ったのだった。
外国にある、青の洞窟よりすらも、まだ青い空間だった。
石灰岩の岸に腰を下ろし、ゆたゆたと寄せ返す波を見やりながら、祖父は、御伽噺の登場人物を待っていた。
御伽噺が真実であったのだから、自分の何代も前の先祖にあたるだろう、半神半人の、彼を。
やがて、海の底から戻ってきた彼は、祖父に、食料を、差し出した。
彼が、器用に捌いた生の魚を、塩水で食べる。
地下水が流れ込んでいる岩の裂け目から、真水をすする。
そんな祖父を、彼は、黄金色のまなざしで、眺めていた。
言葉はなく、ただ、静かに、ふたりは、寄り添うようにして、地下の洞窟で、時を過ごした。
出口はないのだと、祖父は、信じていた。
彼もまた、出口を示唆するようなことはなかった。
その日、彼は、祖父に、それを、手渡した。
それは、彼の首に下がっていた、流れ落ちる雫のような形の真珠だった。洞窟と同じ、海の青を宿して、うっすらと光をはじいていた。
なぜ?
見上げた祖父の首にそれを無理やりかけさせて、そうして、彼は、海に消えた。
いつものように、魚を獲りに行ったのだろうと、そう思いはしても、なぜだか、不安は拭えなかったのだと。
そうして、そのときは、やってきた。
激しい揺れだったのだという。マグニチュード5クラスの地震が、土地を襲ったのだ。
洞窟の天井が、音をたてて崩れ落ちた。
祖父は、死を意識せずにはいられなかった。
しかし―――――――
助かったのだ。
切り傷や擦り傷以外にはさしたる怪我もなく、洞窟の天井が落ちたことが幸いして、救い出された。
幾日ぶりの日の下だったのだろう。
崩壊した屋敷の下敷きになって、叔父は、亡くなっていた。
残されたのは、祖父の従姉妹と、祖父だけだった。
何十年もが過ぎて、祖父は、老いた。
祖父は、妻をもらうことはなかった。わたしは、祖父の従姉妹の孫にあたる。
数ヶ月前から病床についていた祖父は、医師に無理を言って、生まれ育った家に帰ってきた。
祖父は、自分の死期を悟っていたのだろう。
寝室の窓から、夢見るように、海を眺めた。
きらきらと陽射しをはじく波濤を眺め、おだやかに笑む。
その、すっかり痩せてしまった喉元には、青い、みごとな真珠がゆれていた。
「海水?」
廊下が濡れているのだと、家政婦が言ってきたのは、そんなある朝のことだった。
雨はここ何日も降っていない。しかも、確認した家政婦が言うには、それは真水ではなく、海水だというのだ。海水が、祖父の部屋に向かっているのだ。それは、まるで、誰かの足跡のように見えた。
いやな予感がした。
ありえないことがおきている。
それは、凶事の前触れなのではないか。
今、この家で凶事といえば、祖父に関すること以外に、考えられなかった。
あわてて祖父の部屋に向かった私は、ホッと胸を撫で下ろす。
杞憂に過ぎなかったのだと。
祖父は、おだやかに、眠っている。
けれど、部屋のドアを開けた瞬間、鼻先を海の匂いが、かすめたような気がしなかっただろうか。
わたしは、首を振った。
誰が開けたのか、窓が開いている。
潮風の匂いに違いない。
わたしは、祖父を起こさないように、そっと、窓を閉めた。
けれど、次の朝も、また次の朝も、同じことがつづいた。
不安が、強くなる。
いったい、何が、祖父の身に起きているのだろう。
わたしは、誰にも知らせず、見張ることにしたのだ。
祖父の部屋のすぐ隣、ドアのあるべき場所にタペストリーがかかっているだけの次の間に忍び込み、わたしは、寝ずの番をした。
そうして、見た。
ひそやかな音に惹かれるように、わたしは目を覚ました。いつの間にか眠っていたのだ。
自分で自分を叱咤して、わたしは、タペストリーをそっと持ち上げた。
いつの間に。
見知らぬほっそりとした人影が、祖父のベッドの横にたたずんでいる。
青白い月が、窓から射し込み、そのひとと祖父とを照らし出していた。
なぜだか、祖父は、古いアルバムの、セピアがかった写真の少年のようで、わたしの心臓が、痛いくらいに、跳ねた。
うっすらと頬さえ染めて、祖父は、そのひとを、見上げている。
「やあ。夢じゃなかったんだな」
「夢だと思っていたのですか」
どこかあきれたような声が、涼やかに響く。
「あの地震のときに、死んだとばかり………」
「あれくらい」
「そうか。君が生きていてくれて、本当に、うれしいよ。こうして、死の間際に会うことさえできた。これで、もう、思い残すことはない」
すがすがしい祖父の口調に、わたしの全身が、震える。
嫌だ。
祖父が死んでしまうなんて。
けれど、わたしの喉は、空気を震わせない。
わたしのからだは、動くことすら忘れている。
「死? 何を言っているのです」
「私はもう、皺々の年寄りだよ。病気を追いやる力など、もはや、ありはしない」
「僕が、なぜ、ここにきたと思っているのです。君を迎えに来たのですよ」
「私を?」
「そうです」
「なぜ、だい」
「…………」
しばしの沈黙が、祖父と見知らぬ男の間に、たゆたう。
やがて、
「いつも、君のことを、見ていましたよ」
海の底から。
ゆっくりと、空気に刻み付けるかのように、男が、言う。
「それなら、どうして、私の前に現れてくれなかったんだ」
「君が僕を覚えているかどうか、わからなかったので」
「馬鹿なっ」
私が、君のことを、忘れるはずないだろう。
祖父の手が、喉元を探る。
青い真珠が、月の光をてらりと宿す。
「これが、君との思い出が、私の心の支えだったよ」
どんなに辛いときでも、あのときを、君のことを思い出せば、踏ん張れたんだ。
「つかさ…………」
男が、祖父の名前を、まるで壊れやすいものに触れるかのように、そっと、ささやいた。
祖父の目が、大きく見開かれた。
「どうしてオレの名前を」
祖父の、自分を呼ぶ人称が変わる。
「僕の名前は、xxxxですよ」
「xxxx………」
ゆったりと、味わうように、祖父が、つぶやく。
「愛しています」
男が、祖父に、告げる。
それ以外に、彼がここにいる理由などありはしないのだと、わたしは、感じていた。
それは、祖父にとっても、同じことだったのだろう。
「ああ。オレもだ」
ゆっくりと、祖父が、うなづいた。
ふたりの顔が、近づいてゆく。
刹那、ふたりに挟まれた青い真珠が、信じられないほどの光を放った。
はっと気づいたとき、そこにいるのは、男と、祖父であったろう、少年だった。
少年が、わたしを振り返る。
「沙耶、いろいろとありがとう」
そう言うと、祖父は、男に手を取られて、ベッドを抜け出した。
窓が、大きく開かれた。
わたしは、動けなかった。
ふたりが、窓の外へと消えてゆくのを、ただ、呆然と見ているだけだったのだ。
呪縛が解けたかのように、わたしが動くことができるようになったのは、月が翳ってからのことだった。
ざざん。
ひときわ大きな波の音に、はじかれるようにして、わたしは、窓に駆け寄った。
窓の外、はるか眼下の水面が、夜光虫に青白く輝きつづけていた。
いつまでもいつまでも。
わたしは、こみあげる涙を拭うことすら忘れて、ただ、海を眺めていたのだった。
おわり
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