ある朝ミツルは突然に



 出会いは、まったくの偶然だった。


 カラオケボックスでの誕生パーティーは、計画してくれたのが悪友たちだったということもあって、少々羽目をはずした楽しいものだった。。内緒で持ち込んだアルコール。ついついはしゃぎすぎて、おひらきになったのは夜の十時近くだった。
「やっべーよなぁ」
 いくら門限はあってないような高校生男子とはいえ、塾でもないのにこれはさすがにやばい時間ではなかろうか。
(ここつっきってけば、近道なんだよな)
 夜の公園は常夜灯が灯ってても、なんとなく気味が悪いと感じてしまう。けど、しかたがない。背に腹は換えられない。結局ミツルは公園を突っ切ってゆくことを選んだ。
 白々と照らし出される木々や遊具の影。噴水の音。どこか現実味の乏しい夜の公園は不気味で、
(さっさと抜けてっちまおう)
 決意も新たに足を速めたミツルだった。
 ふと、ミツルの足が止まる。
 声のようなものを聞いた気がしたのだ。
 どろりと澱んだ真夏の空気に耳を澄ませたミツルの聴覚に触れるのは、遠く響く車のエンジンの音やクラクションなど町の喧騒ばかり。と、集中していた耳がもう一度、今度は確実に聞こえてきたかすかな悲鳴を捉えた。
 咄嗟にミツルの正義感が弾かれる。気がつけばミツルは駆け出していた。
 後先考えない性格は後になって思い返すたびぞっと背中に粟を生じさせるが、当然のことながらその時はそんなことを考える余裕もない。
 悲鳴の方向へと勘を頼りに近づき、
「大丈夫かっ?!」
と、声を張り上げ、同時にミツルの鳶色の瞳が大きく見開かれた。
 丈高い植木に囲まれた公園の中の死角に、漆黒のシルエットが端然と佇んでいる。
 都会の闇など闇ではないと嘲うかのような存在感でその場を支配している、それ。
 夏場の生ぬるく澱んだ空気が突然の風に押しやられ、雲間から月が顔を出した。
 月が照らしだしたものを、ミツルは見たのだ。
 漆黒の闇を統べるかのような、この世のものならぬ異形の美を。
 月光に照らされて闇に浮かび上がる白い顔を。
 欝金に滾る異形のまなざしを。
 過ぎる血の色を宿した、真紅のくちびるを。
 そうして、その足元に倒れている人影をも、ミツルはしっかりとその目に焼きつけてしまったのだ。
(死んでいる?)
 闇をまとった存在を気にしながら、ミツルは恐る恐る倒れている人影に近づいた。
 ”闇”は、端然と動かない。
「!!」
 伸ばした手に触れる、かすかにまだあたたかい頬のぬくもり。
「おいっ」
 生きているだろうかと、目の前の”闇”の存在を忘れて手首を握り脈を診る。しかしどんなに手首を探ってみても、その人物が生きているという証は得られなかった。
 ふいに、闇を統べる存在が動いた。
 今がどういう状況なのかをたちまち思い出し、ミツルが立ち上がる。
 ”闇”は流れる水のようなすべらかな動作でミツルに近づこうとしていた。それは、あきらかに人の動きではなかった。
「ひっ」
 本能で後退さったミツルの背中が、植木がしなるほどの激しさでぶつかる。素早く伸びてきた腕が、ミツルの肩を捕らえた。と、ミツルの全身が大きく震える。ミツルの鳶色の瞳を覗き込んでくる、欝金のまなざし。感情を捉えがたいそのまなざしが、ふと眇められたように見えた。
「………命を取るのはやめておきましょう」
 何かを思いついたのか、かすかな感情が異形の瞳に宿った。
「その代わり」
 近寄ってくる白い容貌。限界まで見開いたミツルの視界いっぱいにその異質なまでの美貌が迫る。赤く濡れた舌がそれよりも赤いくちびるをちろりと湿した。
 どこか爬虫類めいたその仕草にミツルの恐怖が頂点に達する。
 白い異形が、ミツルの視界から消えたと思った時には、きつく抱きしめられていた。それは、拘束であったのだろうが。思わぬほど近くに自分のものではない息遣いを感じ、ミツルの思考が硬直する。
 これまでに感じたことのない種類の恐怖に震えるミツルの耳のつけ根に、ちくりとした痛みが走った。一瞬の痛みののちにカッと焼け爛れるような熱がその場に集中してゆく。  ドクンドクンと、ミツルの全身が巨大な一本の血管になったような錯覚があった。
 同時にくらりと地面が揺らぐ。
 自分自身を支えることができない心もとなさのまま、脳が激しい眩暈にへシャげるような錯覚が襲いかかってくる。
 玲臈と響く声が、意識を手離しかけていたミツルの耳の奥に幾重にもこだましていた。
『これは、契約ですよ。いつかそう遠くなく、君は僕の助けを求めることになるでしょう』


※ ※ ※



「みっつるー、朝だぞ、起っきろ〜!」
 バタンと大きな音を立ててドアが開く。耳元でがなりたてるのは、夏休みのお約束、早朝ラジオ体操から戻ってきた弟である。
 耳がキーンとなる。
 心臓がばくんばくんと乱打する。
「ますみ〜おまえなぁ…」
 ベッドサイドに腰をかけて、頭を支える。
 頭が重い。
 そういえば、いつの間に家に戻ってきていたのだろう。
(昨夜は、ヤツらがカラオケボックスで誕生会を開いてくれてぇ、そんで羽目を外して、遅くなった…んだったよな。この頭痛って、二日酔いとか?)
 昨夜の自分の行動をあらかた思い出したミツルは、脳裏を過ぎった映像にギョッと固まった。
 闇の申し子のような、白い美貌。
 足元に事切れていた、骸。
 あれは、現実にあったことだろうか。
(夢じゃなかったか?)
 もう一度記憶をたどろうとしたミツルの思考は、
「ミツルっ! 早く起きろよなっ」
 マスミの叫び声に霧散した。そうしてミツルは、くらくらする頭を抱えて居間に下りたのだ。
「あら、ミツルあんた顔色が悪いわよ」
 どったりとテーブルについたミツルに、母親が心配そうな声をかける。
「夜遊びなんかするからバチが当たったんだ」
 八つ年下の生意気盛りの弟の底意地悪そうな指摘に反論をする気にもならない。なぜなら、父親が読み捨てた八月六日付けの朝刊を開いたミツルは、何気に泳がせた視線の先の小さな記事に全神経を奪われてしまったのだ。それは、ミツルの家から遠くはない公園の片隅で、男性の死体が昨夜遅くに発見されたと言うものだった。死因は過労死と書かれてはいたが、ミツルは直感していた。
 その死体こそ、自分が昨夜見たものにちがいない―――と。
 ふと視線に気づき顔を上げた。
 母親と弟が変な顔をして自分を見つめている。
 震え出すのを堪えてようやくしぼり出したのは、
「朝メシはいらないから」
 それだけだった。
 途端、
「ミツル?!」
 マスミが素っ頓狂な声をあげた。母親も卵焼きを巻いていた菜箸をまな板の上に置き、テーブルの向こうに座っているミツルに手を伸ばした。何があっても三度の食事は忘れないミツルのそれは、ふたりの度肝を抜くのに充分だったのだ。
 かすかに湿った冷たい掌の感触。額に感じる母親の掌が心地好く、ミツルは目を閉じた。
「あんた熱があるわよ。昨夜遅くまで帰ってこないって 心配してたら、玄関先で寝てるんだから、まったく。お酒も飲んでたでしょう。ばれないと思った? まったく、男の子ってちょっと羽目を外すとすぐこうなんだから。風邪でも引いたんでしょ。天罰よ。薬飲んでおとなしく寝てなさい。後でお粥でも持ってくから」
 結局その日から二日間、ミツルの熱は下がらなかった。
 ベッドの中で見るのは、闇をまとった死神のようだったあの白い美貌ばかりで、何度もうなされては飛び起きた。耳鳴りに混じって、玲臈とした声が、聞こえる。そのたびに、
(どうしてオレが見も知らない人間でもないものの助けを求めるんだ)
と、喚こうとするが、声にもならなかった。

 二度目の出会いは、ミツルの熱が下がって三日後のことだった。

 夏休みである。ミツルは繁華街をぶらついていた。というか、友人にドタキャンされたのだ。携帯の向こうで突然のデートにワクワクと舞い上がってる友人になにが通じるだろう。
「友情をおろそかにしやがって、このやろ。今度なんかおごれよなっ」
 どうせ忘れられるだろうことは承知の上で、ミツルはそう言うと通話をきったのだ。
「あっつ〜、人を殺す気かこの熱さは」
 年々殺人的になる猛暑。からだの弱い人間などひとたまりもないような気がする。クラクラと目の前が白く眩むほどの紫外線。全身がだるく、今にもこの場所でへばってしまいそうだった。
 ちょうど日曜日と重なっていることもあってか、人ごみはいつもの比ではなかった。
「はぁ…どっかの店に入るか?」
 少なくとも涼しくはなるだろう。喉も渇いてきていた。ミツルがきょろりと周囲を確認した時だった、
「君」
 突然のことに、声の主が自分を呼んでいるとは気づかず行き過ぎようとして、
「君ですよ、Tシャツにバミューダパンツの君のことです」
 それが自分を呼んでいるのだとミツルはようやく気づいた。
 声の方向を見れば、よくもそんな目立たないところにと思うようなビルと店舗の隙間、細く翳った路地に占い師らしき姿があった。黒いクロスのかかった折りたたみテーブルとこれも折り畳みだろう椅子。占い師は繁華街の方向を向いているが、影に半ば隠れるようにしているために顔はわからない。テーブルに両肘をつき組み合わせた手の甲に顎をのせていた占い師が、右手でミツルを招いた。
「金なんかねーよ?」
 胡乱だと思いながらもなんとなく近づいたミツルに、占い師が椅子を勧める。
「お代は結構ですよ。それよりも、君、カードを選んでくれませんか」
 白い手が優雅に深紅のカードを切る。ミツルが言われるままにカードを選ぶたび、たゆみなく黒いクロスの上にスプレッドが展開されてゆく。
 一枚を中央に、残る六枚が円を描く。
「これが、君の運気の流れ………おや、ジャスティス…正義の正位置ですね。誠実で公明正大。結構なことです。よって、人間関係は、テンペランス…節制の正位置。いかにもです。安定した生活に、活発な社交」
 優美な手がひるがえるたび、深紅のカードがモノクロのイラストの面へと反されてゆく。静かな響きのよい声が、滔々とカードからミツルの運気を読み取ってゆく。
(遊びだよなぁ…)
 なんとなく気を飲まれてはいたものの、ミツルはそんな感じで、占い師の言葉を半分聞き流していた。
「…おや、恋愛は、タワー、塔の逆位置ですね。これは…大変ですよ。好きな相手との別離の兆し……頑張らなくては。誠実さを心がけることです。そうして、家庭は…おや? 意外なカードです。ハイアラーファント、法王の逆ですか……これはどうしてでしょうね、何か大変な問題に、援助が得られ難いと言うことでしょうか。その問題は……ああ、デス…しかも正位置とは。君、健康に気をつけたほうが良さそうですよ。どうも、以下、デビルの逆位置に、ホイールオブフォーチュン、運命の輪の逆と続くからには、循環器系には特に注意して。おかしいと思ったら、すぐ病院に行ったほうがいいですね」
「はいはい」
 なおざりなミツルの返事に、
「おや? 本気にしてはいませんね。僕の占いはよく当たるのですよ。特に、ひとの生死に関わることでは、ね」
 ふと、占い師の声のトーンが、変わった。
「なぜなら、僕自身が、ひとの生死に関与するものなのですから…」
 面白がっているような、そんな雰囲気が占い師の言葉に混ざる。そうして、声はどちらかと言えば、無機質なものへと。その奇妙にアンバランスな声の響きにミツルが硬直する。
 占い師の口から紡ぎだされる美声が記憶をよみがえらせる。
 町の喧騒が遠く潮騒のように引いてゆく。
 そうして。
 目の前にいる占い師は、いつしか闇をまとったあの夜の人ならざるものへと変貌を遂げていた。
 正体を現わしたとでもいうべきだろうか。既に、テーブルも椅子も、影も形もない。ただ、路地の影を背景に、端然と、ひとならざる青年が佇んでいるのだ。
「おまえは…」
「ああ、覚えていてくれたのですね。ほんと、君、病院に行ったほうがいいですよ。これは、僕からの忠告です」
 ゾクリとするような、白く壮絶なまでの異形の……。
「おまえは、いったい!」
「おまえと呼ばれるのは、あまり楽しいものではありませんね。そうですね、僕は、上総青海かずさおうみと言うのですよ、伊藤ミツルくん」
 うってかわってひとがましいまでの楽しげな声に、しかし、ミツルはゾッと震えた。
「なんで、どうしてオレの名前っ」
 クスクスと、ひとの悪そうな笑い声が耳を打つ。
「それは、企業秘密とでも。それでは、また遠からずお会いするとは思いますが」
 そう言うと、上総青海と名乗った存在はミツルの目の前から幻ででもあったかのように姿を消したのだ。
 一気に、町の喧騒がミツルを取り巻く。
 くらり――
 ミツルの視界が、へしゃげ、揺らぐ。
 きゃぁっ!
 うわっ!
 なんだっ!!
 周囲のざわめきがひときわ大きくなり、ミツルの脳裏を遠く駆け抜けてゆく。
 そうして、ミツルの意識は途切れたのだった。


※ ※ ※



「ミッちゃん」
「あ、理美」
 食後の薬を飲んでしばらくうとうととしていたミツルは、木原理美の静かな声で我に返った。
 検査入院して五日間、毎日退院の「た」の字も聞こえては来ない。
 せっかくの夏休みなのに、損をしているような気がしてならない。
 幼馴染みである理美の見舞いに、なんとなく居心地が悪いような気がしたが、
「その椅子にでも座ってくれよ」
とりあえず、椅子を勧めた。
「うん。はいこれ、お見舞い」
 手渡されたのは、ケーキの箱と、小さなひまわりの花束。
「サンキュ」
「おばさんとマスミちゃんから聞いてびっくりしちゃった。ミッちゃんが入院なんて、初めてだもんね」
 言いながらも理美はポットからお湯をそそいでいる。二人分用意したカップの中にそれぞれティーバッグが沈んでいる。
 箱から出されたのは、
「プリンだったら食べられる?」
「ああ、食べ物に制限があるってわけじゃないみたいだし」
「よかったぁ! じゃあ、ケーキのほうがよかったかな」
 理美の心配そうな表情が明るくなる。
「いや、これも美味いぜ」
 早速プリンを頬張りミツルが理美に答える。
「けど、そう言われてみれば、ケーキなんてずいぶん食べてないよーな」
「嘘ばっかり。二週間前に食べたでしょう。誕生日だったんだし」
 理美の指摘に、ぽりぽりと後頭部を掻きながら、
「そーいやそーだっけ」
「そーよっ! 理美特製のデコレーションケーキを忘れたとは言わさないぞ」
 悪友たちが開いてくれたカラオケボックスでの誕生パーティ。それとは別に、早い時間に理美と家族が祝ってくれた会で、目玉とばかりに出されたケーキを思い出す。理美がメインでマスミがデザインしたのだと言う微妙にいびつなひまわりの形にデコレイトされたケーキには、こってりとした生クリームがたっぷりと塗られていた。
「あれは、美味かったよなぁ。愛情たっぷりで」
「しょってる」
 クスクスと笑いながらも、理美もまんざらではないのだろう。
「また作ってきたげるね。でも、それまでに退院したなら、退院おめでとうパーティ用のほうがいいかな」
「退院?」
 ミツルの怪訝そうな声に、
「あれ、ミッちゃん聞いてないの? さっきおばさんに会った時、明後日くらいには退院できるって言ってらしたわよ」
「明後日…」
「よかったわね。ミッちゃんに病室なんて似合わないもの。ね、なんのケーキがいい? リクエストきいちゃうよ」
 ミツルの顔が変に歪む。もっともそれはほんの一瞬のことだったが、形になりきらない不安を理美に覚えさせた。
「ミッちゃん…?」
「あ? ああ、なんだっけ。食後の薬飲んだ後って、妙に眠いんだな」
 にっこりと笑って後頭部を掻くミツルに、理美の芽生えかけた不安は掻き消される。
「もうっ! せっかくリクエストきいてあげるって言ってるのに。気分害しちゃうぞ。ケーキ、どんなのが食べたい?」
「そうだなぁ、この間のが生クリームだったし、チョコレートのが食べたい」
「チョコレートケーキね、オッケー」


 ミツルの瞳が闇を見つめる。
 救急外来から突然の入院ということもあったのか、ミツルがいるのは個室だった。だから、窓のカーテンを開けたままで眠ろうとあまり文句は言われない。夜の点検に回ってくる看護婦が閉めて行くぐらいで。
 窓の外、四階分の高さから見下ろせば、そこは常夜灯が灯る病院の庭。明るいことも手伝い、星は数えるくらいしか見えはしないが。
『ミツル、明後日には退院だって。よかったわね』
(よかったね――か)
 なんとはなく、自分がもうそう長くはないだろうという予感があった。
 あっちの検査室こっちの検査室。毎日のようにあちこちと移動されて、それで、もう退院できる。本来なら喜べばいいのだろうが。どうしてだろう、喜べない。母や父の医師や看護婦たちの言葉から、裏を読み取ろうとする自分がいる。
(単なる気のせいだったらいーんだけどなぁ)
 母の悲鳴じみたた短い叫びを昨日聞いてさえいなければ。
 医師と父とが交わしていた会話を耳に挟んでさえいなければ。
『こうなるまでに発見できなかったことのほうが問題なのですが。先天的な心臓の畸形の一種とでも言えばわかっていただけるでしょうか』
『治りますか』
 父の、沈痛な声。
 沈黙の時が訪れ、聞こえるのは、母の啜り泣きばかりだった。しかし、それで、充分だった。
(そうか)
 あの時、すとんと理解してしまった。詳しいことはわからないが、自分の命はそう長くはないのだと。
「くっ」
 光が、潤む。目が熱くなり、こみあげてきた涙。目尻を、涙の粒が転がり落ちる。
(死ぬのか、オレ。………何にもしてないや)
 学校の勉強も、何もかも、すべて、適当で。悪友たちとわいわい騒ぐことのほうが心地好くて。そうして、
(理美)
 幼馴染みの可愛い少女。ずっとずっと大好きで、自慢で。
(キスだってしてないって〜のにな)
 愛してる。
 おそらく、これは、初恋だろう。
 今時十七才でキスもまだなどというのは、笑い話かもしれないが。それでも、あまりに身近にいすぎて、そうして、却って告白するタイミングを失ってしまっていた。空気のように自然で、そうして、必要不可欠な相手だというのに。
「オレってバカだよなぁ」
(こんなになって、コクれるわきゃねーって)
 涙もろい理美を、泣かせてしまうだけだ。それくらいなら、理美のことは幼馴染としてしか見ていないと、いっそきっぱりと割り切ってしまえばいいのだ。そう、告白なんかしないほうがいい。理美を泣かせてしまうくらいなら。
「失恋、だよなぁ」
 ぐいと、手の甲で目元を拭った時、
「誰が誰に失恋なんですか」
 すっかり耳に馴染んでしまった声。
「おうみ」
「そんなおざなりに呼ばないでくれませんか」
 闇の中端然と佇むのは、上総だった。
 集中治療室で目覚めたあの時、最初にミツルが見たのは、両親でも妹でもましてや医師でも看護婦でもなく、上総だった。それから夜毎、上総はなにをするでもなくミツルの病室を訪ねてくるようになった。最初こそ上総に対して警戒を顕にしていたミツルだが、
「あんたも暇人だよな。病人覗きに来てなにが楽しーんだ」
 軽口を叩けるほどになっていた。
 憎まれ口の主を、しばし無言で見下ろしていた上総だったが、
「そうですね、君は、僕に気づきましたから」
「はい?」
 思いもよらない答に、ミツルが上半身を起こした。
「普通はね、気づかないんですよ。僕自身、他人に気づかれないようにする術は心得てますから」
「そーいうもん?」
「ええ。でなければ、狩られますからね。かといって、人里離れた場所で、僕のようなものは生きてゆけませんし。独りでは何かを生み出すこともできませんからね。人に狩られて死んでしまうなどと、虚しいだけでしょう」
 ぎしりと、ベッドが撓む。確かな質量をともなって、上総が腰を下ろしたのだ。
「それで、人を殺してるって?」
 泣き顔を覗き込まれるのが嫌で、ぷいとそっぽを向く。
「あれは、仕事ですから」
 似合わない台詞に思わず振り返り、上総の欝金のまなざしとミツルの鳶色のまなざしとがぶつかりあう。
「仕事?!」
 にっこりと笑んだ上総に思わず見惚れたミツルだったが、
「殺し屋、殺人犯、殺人鬼、何でもいいですよ、別に。ただ、人の血かエネルギーをもらわないことには、僕だとて死んでしまいますから。だから、せめて、殺す相手は、それ相応の罪を犯した者とか、裏社会に属していてそれではみ出した者とか。……これでも、苦労しているんですよ」
 秀麗な顔。しかし、その赤すぎるくちびるからつむぎだされる言葉は血生臭く、ミツルの顔が顰められる。
「苦労ってなぁ」
 脱力するミツルだったが、
「生きてくための苦労じゃないですか。それとも、僕が人間じゃないと言う理由で、差別しますか」
「それは」
「こんな話は止めましょう。で、誰が誰に失恋したんですか?」
「あんた、結構俗っぽいよな」
 硬質な人ならざるものという第一印象からずれてゆく上総に、思わずぼやかずにいられない。
「俗で結構。で?」
 はぁ………と、これみよがしに溜息をつき、
「オレがっ、理美にだよっ」
 投げつけるように言う。
「ああ、君の幼馴染みの」
「あんたなぁ………ストーカーはいってるってそれ」
(なんだってあんたが理美のことを知ってんだよ)
「君のことならなんだって知っていますよ」
「あーそーですかっ」
 もう一度そっぽを向こうとしたミツルを、顎を捕らえることで圧し止めて、
「僕もね、人恋しいんですよ」
 前後の脈絡がいまいちわからず目をぱちくりと見開いたミツルだったが、
「人恋しいって、あんたが?」
 上総の手を顎から外させる。
「そうですよ。人の何十倍という時間を生きてきたとはいえ、一人身ですからね。そうそう慣れるものじゃないようなんですよ、独りというのは」
「仲間とか恋人とかいない?」
「僕の仲間は、絶対数が少ないんですよ。臆病ですしね」
「臆病って、あんた」
(臆病なヤツが人殺しなんかしないって)
「だから、ね」
「だから?」
 何が言いたいんだこいつはと思いながら、言葉尻を繰り返す。
「僕もそろそろ伴侶が欲しいんですよ」
「伴侶?」
 古風な単語にミツルが小首を傾げる。
「ワイフ、ベターハーフ、妻、…半身、連れ合いということばもありましたよね」
「結婚したいってことか………って、理美はだめだぞ!! あんたが誰を嫁さんにしようと勝手だけどな、理美だけは、駄目だかんな!」
 慌てるミツルに、
「まだわかりませんか?」
「へっ?」
 上総が何を言いたいのかわからず、ミツルの瞳が点になる。
 そろりと、上総の左手がミツルの右肩にのせられた。それを目で追いながら、
「なんだよ?」
「しっ、黙って」
 くちびるに押し当てられたのは、上総の右手の人差し指だった。
 何だよと食ってかかろうとして、できなかった。なぜなら、右手が外されたと思えば、それはそのまま後頭部へと逸れ、ミツルの頭を固定したからだ。
「!!」
 頭の中が真っ白になり、スパークする。
 感じるのは、くちびるに落とされた他人のくちびるの生々しい感触ばかりで。
 ドンッ!
 無理矢理上総を押し退けた。
 はぁはぁと、全身で息をする。酸素がどうにか肺に流れ込んできて、ミツルは脱力した。
「はじめて、みたいですね」
 嬉しそうな楽しそうな声が、ミツルの耳に届く。上総の言葉の意味を捉えた途端、カッとミツルの顔が熟しすぎた桃のような赤に染まる。
「あ、あんたな…」
「上総、ですよ。君になら今までどおり青海でかまいませんけどね」
「オレは、男、だぞ」
「そんなこと、わかりきっているじゃありませんか」
 しれっとした態度で、上総はミツルを見つめる。
「じゃあなんで………」
「君がいいんですよ。君が僕に気づいた時、僕は、君を選びました。これから続く永い時を、共に歩むものとして」
 とろりとした欝金のまなざし。
「君は、気づいているのでしょう。君を遠からず喰らいつくすだろう、苦痛と死の足音に」
 白い、顔。その、端整な容貌が引きずり出した恐怖に、心臓が軋む。
 無意識に、ミツルの手が心臓に当てられた。
「君は、怯えているでしょう」
 赤い、くちびる。
 恐怖とは違った意味で心臓が大きく鼓動を刻む。
 思わず顔を伏せたミツルの耳元で、
「誰も、君を救ってはくれない。ターミナル・ケア…末期医療を受けますか」
 上総が、ささやく。
 決定的なその単語に、ミツルの全身が震えた。
「君を、救えるのは、僕だけですよ」
 恐る恐る、ミツルが顔を上げた。
「僕だけが、君を救うことができます。僕の手を取りなさい。僕を受け入れると。そうすれば、君を苛んでいる苦痛と恐怖から永遠に君を救い出してあげましょう」
 早鐘のように心臓が悲鳴をあげる。
 これは、警鐘だ。
 どんなに怖くても、どんなに死が、苦痛が恐ろしくても、人でなくなってまで生きていたいなどと、考えてはいけない。
 人として生まれたのだから、人として死んでゆくのが道理というものだ。
 どんなに、怖くても、恐ろしくても、叫びたいくらいに心細くても、選んではいけない道があるのだから。
 でも。
 でも…………………。
「おう、み…………」
 血の気の失せたミツルの顔が、暗く絶望と希望とに揺らぐ鳶色の瞳が、上総を凝視する。
 なめらかな頬を伝って、涙がシーツをぬらす。
「ああ、きれいですね。君は、本当に、きれいだ」
 下瞼に溜まった涙が、頬にこぼれ落ちる。それを人差し指で掬い、上総がささやいた。
 ミツルは首を振る。
 そんなミツルを見下ろしながら、上総が立ち上がる。
 ギシリ――と、ベッドが軋る。
「返事を急かしはしませんが」
 示唆するにとどめられたことばの先を、ミツルは理解していた。
『返事を急かしはしませんが、君に残された時間はあまりありませんよ』
と、上総はつづけたいのだろう。
 上総のまなざしが、おだやかにミツルを見下ろす。
「それでは、また来ます」
 そう言うと、上総は来た時と同様、掻き消すように姿を消したのである。
 独り病室にとり残されたミツルは、看護婦に注意されるまでただ闇を見据え続けていた。


※ ※ ※



「ミッちゃん」
「ミツルっ」
「退院おめでとう!」
 理美とマスミそれに両親が揃った居間に、歓声があがる。
 色とりどりの紙テープで作られたチェーンやティッシュ細工の花。『退院おめでとう!』の文字が躍る垂れ幕。テーブルの上にはミツルの好物、それに約束のチョコレートケーキがある。
「みんな、ありがとうな。心配かけて、ごめん」
 ミツルは、それしか言えなかった。
 乾杯の声と同時に、フライドチキンにかぶりつく。
 クスクスと笑う理美とマスミ。楽しそうに見える両親。すべてを見てとりながら、ミツルの心は静かだった。
 昨日、両親と揃って、担当医から病気の説明を受けた。その後、父から無理矢理聞き出したのだ。
 自分に残されているだろう、時間を。
 一ヶ月―――それは、思いのほか短い時間だった。
『絶対のものではないらしい。宣告されて、三年四年、十年以上長く生きた人もいるそうだ』
 父はそう、フォローしていたが。
『逆もあるんだろ』
 一月よりも短くなる場合もありえるだろう――とたたみかけたミツルに、父は絶句していた。それは、言葉で説明されるよりもよほど雄弁なものだった。
 発作が、夜毎訪れるようになっていた。
 軽い発作であるはずだが、心臓を握りつぶされるかのような壮絶な苦痛が、延々とつづく。
 治まってみれば、そんなに長い時間ではない。それでも、夜毎の発作は、ミツルを怯えさせ不安を覚えさせるのに充分なものだった。
 死ぬということは、理解していたつもりだった。けれど、それが、これよりも壮絶になるだろう苦痛の果てなのだとしたら、堪えられない。自分には、耐えることなどできはしない。
 不様に足掻いてのた打ち回り、そうして、死ぬのだろうか。
 それとも、そんなことすらもできないくらいに弱って、そうして。
 どちらの自分も、嫌だった。
 嫌で嫌で、想像するのも辛くて。
 でも、怯えている自分を、両親やマスミや理美に、知られることがもっともっと嫌でならなくて。
 そうして、絶望的な気分になるのだ。

   退院して一週間が過ぎた。

 『また来ますよ』と言っておいて、あれから上総は姿を見せない。
 ぎりぎりと心臓を握りつぶされるような苦痛に枕を噛みシーツが破れるほど握りしめながら、必死にやり過ごそうとする。声など出してマスミにでも聞かれたら、両親を呼ばれるのがわかっている。いつもよりも苦しいような気がするこの発作を見られてしまえば、おそらく病院に逆戻りだ。治りもしないのに、入院など馬鹿げてる。
(もう少し……)
 痛みか息苦しさが少しでいいから薄れれば、薬に手を伸ばすことができるのに。胸の下でシーツを掴み苦痛をやり過ごそうとしている手を、動かすことができる。
『劇薬ですから、一度に飲む量には気をつけて』
 ただし、適量を飲みさえすれば苦痛はすぐさま癒えると、医師は言っていた。事実、その言葉どおり、薬の効き目はたいしたものだった。もう何度飲んだか知れやしない。その薬は、ベッド脇の三段ボックスに置いてある。
 もう少し…。
 早く………。
(死にたくなんかない)
 きつく目を閉じる。
 そうしてどれくらい時間が流れたろう。
 誰かに背中を撫でられているような気がした。誰かの手が触れているような錯覚が過ぎると、少し、苦痛が和らいだような気がした。
 少しずつ、撫でられるたびに、呼吸が楽になる。
 荒かった鼓動が、無理矢理手を突っ込まれて直接握りこまれているようだった心臓が、詰まりそうだった息が。
 大きく肩で息をし、握りしめていた手が、噛みしめていた口が、瞑っていた瞼が、ゆるく脱力する。
 喘ぐように大きな呼吸を繰り返しながら、やっとのことでベッドの上で身を反した。
 腕で額から目までを覆い、
「サンキュウな、上総。助かった」
 ミツルが告げる。
 確かめるまでもない。
「大丈夫ですか?」
 上総がいつの間にかベッドに腰を下ろしていた。
「おうみ」
「そんなおざなりにひとの名前を呼ばないで下さいと言いませんでしたか」
「青海」
「…………」
 声もなく、上総がミツルを見下ろす。
 顔は見えないが、泣いているのだろうか。小刻みにミツルは震えているようだった。上総の優美な腕がついとミツルの褐色がかった黒髪に伸ばされる。中途半端に長い髪を、上総が梳く。幾度も幾度も。
「青海」
 おざなりではない呼びかけに、上総の瞳がかすかに大きく見開かれた。
「オレ、あんたと行く」
 上総が動きを止める。
「ただし、今すぐじゃない。医者が言った一ヶ月が過ぎてオレがまだ生きていたら、だ」
「……」
「一ヶ月なら、オレは何とか我慢ができる。多分、壊れずに笑っていられる。けど、それ以上は、駄目だ。それ以上は我慢できない。こんな不安。いつ心臓が止まるかしれやしない。いつまたこんなにきつい、これよりきつい発作が来るかしれやしない。その時、薬を飲めなかったら? 薬を飲んでも、効かなかったら? 嫌だ。オレは、もう、嫌だ。こんな、じりじりと心臓を潰されてゆくみたいな死にかた。したくない! 狂ってしまいそうだ。だから! その時が来てオレが生きていたら………」
 ミツルが言葉を切る。しばらく沈黙したと思えば、思い切ったように顔を上げた。
「オレを連れて行ってくれ」
 涙に濡れた鳶色のまなざし。
 上総はゆるやかに口を開いた。
「ずるいですね」
「わかってる! あんたはどっちになるかわからないことを待たなきゃならない。そうしてオレが生き延びれば連れてゆける。けど、オレが持ち堪えられなければ、また、オレ以外の誰かを待たなきゃならない。これが、あんたにとって酷な提案だってことは、わかってるさ。でも……」
 真摯な鳶色のまなざし。
 それが、この少年――伊藤ミツルにとってギリギリの境界線なのだろう。それがわかるから、上総は、
「それで、君は後悔しませんか」
と、訊いたのだ。
「…………しない」
 平坦な一切の感情を圧し殺したミツルの声に、上総はゆっくりと一度瞬きをした。
「わかりました。これは、契約の証です。少しは発作の苦痛を抑えてくれるでしょう」
 上総が静かに告げた。そうして、同時にその赤すぎるくちびるでミツルの首筋に触れた。
 ツキンとした痛みと共に、何かが体内に流れ込んでくる。それは、発作の後の気だるさを癒してゆくかのようだった。
 顔を上げた上総は、かすかな笑みをそのくちびるに刻み、何気なくミツルのキスを掠め取った。
 見る見る真っ赤になったミツルに、
「それでは、一月後にお会いしましょう」
と、言いおいて、瞬く間もなく姿を消したのである。


 一ヶ月後の朝、いつものようにミツルの部屋のドアを開けたマスミは、慌てて両親のもとに駆けつけるだろう。
 報せを受けた両親とマスミは、ミツルの机の上に『かきおき』を見つけるのだ。それは、少しばかり荒唐無稽で、本当のことだとは思えない、創作じみた手紙だろうが。
 彼らの悲しみがどうにか癒えたころ、彼らは雑踏の中に、失踪した頃と少しも変わらないミツルの姿を見出すはずである。ミツルは、誰か彼らの知らない青年と歩いているだろう。あの屈託のない笑顔を満面にたたえているかも知れない。
 そうして、彼らは知るのだ。
 ミツルの『かきおき』に記されていた真実を。


 しかしそれらは、いつのことかわからない未来の光景である。
 今はただ、夏の澱んだ夜だけがミツルと孤独な妖が交わした約束を知っているのだ。

おしまい
up    10:02:19 2009 06 12

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