悪夢
「酔ったかな」
慣れない蝶ネクタイを弄くりながら、ウェイターが持つトレイからグラスを失敬する。
酔ったのは、ひといきれとアルコール両方だった。
まだ十七才だが、今日は、誰も気にはしない。
だいたい、今日の主役が十七になった祝いのパーティーなのだ。主役は人の中心で、堂々とグラスを掲げて笑っている。
ふらつきながら、智志は、テラスに出た。
火照った頬を、冬の夜気が、撫でるのが、心地よく感じられた。
「金持ちだよなぁ」
肩を竦めて、智志は、グラスを呷る。
軽く音をたてて、飲み残したグラスをテラスを囲む手すりに置いた。
金持ちだとは知っていたが、友人がこんなに金持ちの家のぼんぼんだとは、知らなかった。興味もなかった。
気が合って、学校で、適当に馬鹿をやれる友人だったのだ。
都心の一等地にでんと建つマンションに独り暮らしで家政婦さんが住み込みでいるくらいは知っていたが、たいてい、友人は智志の家に来たがったから、あまり実感もなかった。
それが――――――
誕生日に実家に招待するよとか言われて来てみれば、映画の中でしか見たことがないみたいな大豪邸で、門番までいるわ、執事さんにメイドさんに男の使用人に、赤い絨毯、シャンデリアの明り。
気後れして帰るといった智志に、
「頼む。いてくれ。誕生パーティーったって、呼ばれてるのは親父やお袋の知り合いばかりなんだ。後は、親戚連中だから、主役のオレは少しも楽しくないんだよ」
そう懇願されれば、断れなかった。
「タキシード貸すから、オレの部屋に行こう」
「た、タキシードぉ?」
のけぞる智志の手を握って、
「ごめん。着てくれ」
友人は智志を引っ張ったのだ。
――――――――――それが、数時間前のやり取りだった。
「別世界だよな」
オーケストラの生演奏が、聞こえてくる。
でかいシャンデリアの下で、上品そうに笑っている顔は、どれもが、有名人らしい。
自分が場違いなのはわかりきっているので、どうにも智志はいたたまれなかった。それは、誕生日に友人として呼ばれたのは智志だけらしいので、本来なら、一番、場にふさわしいのだろうが。友人の両親というのは、よほどの金持ちらしく、政財界からの押し出し満点の招待客やら、芸術文化系の独特の雰囲気をまとった客やらが、会場を埋め尽くしていて、なんか、友人と離れて、寂しいやらなんやらで、智志は、なんとなくウェイターが運んでるグラスに手を伸ばしてばかりいたのだ。
「ああ、お月さまがふたーつ」
手すりに背もたれたまま仰け反って見上げた空に、細い月が二つある――ように見えた。
「酔ってんなぁ」
けらけらと、智志は笑った。
今更だが、酔いのせいで、寒さは感じない。
むしろ、冷たさが、心地よいくらいだった。
「ん〜?」
手すりに預けていた背中が痛くなって体勢を立て直したとき、智志はふと、自分以外に酔狂な人間がいることに気づいた。
視界の隅、闇にまぎれるようにして歩く影が、木立の向こうに消えてゆく。
と、ほどなくして、また一つ。まるで、影を追うかのようにひそやかに木立に消えていった姿があった。
「なんだぁ?」
手すりの上のグラスを取り上げて、口をつけた。
溶けたアイスに薄まったアルコールが、喉を潤す。
酔っていなければ、そんな気など起こらなかっただろう。もともとがあまり他人事に興味を抱く性質ではなかったからだ。
ふんわりとした頭のままで、影を追った。
夢?
ふわふわと、からだが揺れている。
まるで、海の上に浮かんでいるみたいだ。
熱い。
焼ける。
夏――みたいだ。
夏。
夏の海―――
そういや、あいつと行ったっけ。
プライベートビーチだって、静かな浜辺だった。
砂浜に寝そべって、あいつがジュースを持ってくるのを待ってた。
そう。
近づいてくる気配に、寝たふりをして、そうして。
ああ、そうだ。
こんな風に、なにかが、くちびるに触れたんだ。
同時に、見ちゃいけないって、そんな気分に襲われて。
目を開けなかった。
そのまま、いつの間にか本当に寝たのだろう。
目が覚めたとき、あいつは、ぼんやり海を見ていた。
――――しつこい。
口から頬に、何かが、するりと移動する。
耳の付け根に触れて、濡れた感触が、ぞくりとした震えを起こさせた。
何が触っているんだろう。
また、あいつなのか。
心臓が、ドキドキと喚きたてる。
見なけりゃ、大丈夫だ。
見てしまったら、あいつと普通にしていられなくなる。
確信がなければ、知らないままでいられるから。
だから。
起きちゃダメだ。
目をきつく閉じた瞬間、ぽんと何かに蹴飛ばされるような衝撃で、智志は、目を覚ました。
明るい部屋だった。
天井を見上げている。
心臓が、うるさいくらいに、脈打っている。
からだが、重い。
手を持ち上げようとして、
「っ!」
智志の全身が強張りついた。
「な、なんっ」
ことばが、震える。
黒髪が、喉を顎を、くすぐる。
その感触に、鳥肌が立った。
「いっ」
カリリと胸の飾りを噛まれて、からだが、跳ねた。
ジンジンとした痛みに、確かに、快感が宿っている。
「やだっ! やめろっ」
一気に現実を思い出す。
思い出した。
酔っ払ったまま影を追って見た光景が、今の状況へと自分を追い込んだのだ。
自分を組み敷いて苦痛と屈辱の果ての快感へと追い落とす男が、何者なのか。
すべてがクリアになった。
薄暗い木立の奥で、智志が見たもの。
それは、男が殺されるまさに、その場面だった。
かすかな月明かりを受けて浮かび上がるのは、タキシードを着こなした、壮年の男だった。
その厳しげな目元が、手にしたグラスを落とした智志を見た。
逃げられない。
本能が白旗を揚げていた。
足腰の力が抜け、その場に、へたりこむ。
見上げた視線のその先から、男が、智志を見下ろしていた。
酔いの促した、まさに酔狂が、智志を捕らえて、どれほどになるのか。
男の隠れ家に連れ込まれ、無言のうちに、蹂躙された。
閉じ込められ、繋がれ、ただ、男の快楽の道具のように、抱かれつづけた。
日にちを数えていたのも、最初のうちだけだった。
何を考えているのか、男は智志を殺しはしなかった。
しかし。
その、ひとを殺すことを生業とする手に翻弄される苦痛と屈辱とに逃げ出した智志を待っていたのは、想像を絶する仕打ちだった。
足の腱を断たれ、手当てはされたものの、腱自体は繋がれなかった。
悪夢だとしか思えない現実がこれから先もつづくのだと思えば、誰だって逃げ出そうとあがくだろう。
その術さえも奪われて、悪夢に捕らわれた自分を哀れむことほど、情けないこともない。
機能を奪われた足を持ち上げられて、何をされるのかを思えば、全身が強張りついた。硬く目を閉じて、ベッドヘッドに縛りつけられた手をきつく握り締める。
襲い来る痛みとその果ての快感に智志が意識を手放しかけたとき、
「愛している」
まるで、呪いのように淡々とささやく声を、智志は聞いた。
おわり
start 8:57 2008 02 11
up 13:23 2008 02 11
HOME
MENU