鼻煙壺





 どうしよう。
 辛い。
 切ない。
 胸が苦しい。
 鼻がツンとして、目頭が痛んだ。
 なぜだろう。
 掌ですっぽり包んであまる小さな壷を見た瞬間、オレの涙腺はぶっ壊れたんだ。


 鼻煙壷びえんこという、携帯用の嗅ぎ煙草入れだと思う。
 内側から、金彩やエナメルなどで、色んな細工をしてある、アンティークモノの収拾アイテムのひとつだ。
「どうした?」
 男の言葉に、オレは、首を振る。
 リビングの飾り棚にずらりと並べられたアンティークコレクションは色鮮やかで、オレは、なんとなく眺めるのが好きだった。
 それらを見ている間は、何のためにここに連れて来られたのか忘れることができたからだ。
 というか、男を玄関に出迎えた後は間が持たなくて、自然と派手な色のそれを見てしまうというのが正直なところだった。
 だからだろうか。
 男は、オレが鼻煙壷を気に入っていると勘違いしたのかもしれない。
「みやげだ」
と、それを投げて寄越したのだった。
 タバコのパッケージよりは少し大きいくらいだろうか。それをオレは、落とさずに受け取って、男を見返していた。
「開けないのか?」
 背広をソファの背に投げネクタイを解きながらそう言う。だから、
「ありがとう―――――」
 言って包装を解いたオレは、中から出てきたものを手の上で転がした。
 すべすべとした手触りの、象牙色の骨のようなものが薄く削がれて、レースのような菊の透かし彫りになっている。そのたくさんある切り口は、金で縁取られて、琥珀らしい素材と繋ぎ合わされていた。
 ぼんやりと、オレは、掌のそれを眺めていた。
 そうして、オレは、自分が泣いているのも、
「これは、オレだ」
 そうつぶやいたのも、知らなかった。
 なぜって、オレは、そのまま気絶してしまったんだ。


 金魚の鰭めいて、ひらひらと揺れる長い袖。
 しゅるしゅると音たてる、着物の裾。
 オレは、侍女に手を引かれて、ヨチヨチと歩いている。
 広い庭の中、梅の匂いが、心地好い。
 けれど、夢の中のオレの心が、晴れることはない。
 夢の中、オレは、男であって、男ではなかった。
 ―――人工的に作られた、女のようなものだ。
 美女の条件の一つ――纏足と呼ばれる小さな足のために足先を折られた恐怖を、女にされたときの苦しみを、オレは、心とからだの両方に刻み込まれていた。
 一歩進むごとに、足が痛む。けれど、じっとしていられなかったのだ。
 庭を歩いているオレは、向こうからくる人影に、全身を強張らせた。
 目尻のかすかに攣り上がった黒い双眸が、オレに向けられている。
 逃げたい。
 背中から頭に怖気が、駆け抜ける。
 殺される、死ぬ――と、怖ろしくて気が狂いそうだった、女にされたあの時に、助からなければよかったのだ。
 いっそあの戦塵の只中で、死んでいれば。
 近づいて来る男に、脂汗が滴る。
 オレの目の前で足を止め、男がオレの顎を持ち上げる。
 そのまま顔を見下ろされた。
 化粧まで施されたオレの顔は、滑稽でたまらないだろう。
 なのに、そのまま、キスを奪われた。
 ひとがいようと、お構いなしだ。
 オレがどんなに嫌がろうと、恥ずかしがろうと、関係ない。
 この男にとってオレは、欲望を満たすために金で買った人形に過ぎないのだ。オレに心があるなどと、考えてもいないのだろう。
 男は、暇さえあればオレを抱く。
 無理に女に形を変えられた部分が、男を受け入れる。
 抱かれるたび、オレは、オレのからだが慣れてゆくのを感じて、絶望を覚えた。
 けれど、どんなにイヤだと思おうと、男に飽きて捨てられれば、オレは、多分生きてゆけない。こんな姿にされて、一人で満足に歩くことすらできないのだ。
 ああ。死んでしまいたい。
 日々強くなる渇望に蓋をする必要などどこにあるだろう。オレを留めつづけていたのは、ただ、本能的な死への恐怖だけだった。
 オレは、疲れ果てて、小刀を、首に当てた。
 首に走る刃の感触。
 痛み。
 流れ伝う、血の熱さ。
 少しずつ、意識が失せてゆく。
 白く霞んでゆく視界に、オレは、人影を見たような気がした。

 助かってしまったのか。
 なにをされるか―――と、思えば、怖気が立つ。
 黒々とした男の目が、ぎらリと光を宿してオレを見下ろしていた。
 その光を見た途端オレを捕らえたのは、まぎれもない恐怖だった。
 これ以上酷い境遇に落ちるかもしれない――そんな恐怖だった。
 男は無言のまま部屋を出て行った。何もされなかったことで、オレは、詰めていた息を吐いた。
 首の痛みが、オレを苛む。
 毎日やってきて手当てをしてくれる医師が、塞ぐオレにひとことふたことことばをかけてくれる。
 その気遣わしげでやわらかなトーンに、オレの目から、いつか忘れてしまった涙がこぼれる。
 頬を伝う涙を拭ってくれた手のやさしさに、オレは、いつしか、医師の来訪を待ちわびるようになっていた。
 からだを変えられたことで、心が軋んでいた。
 泣き叫ぶことすら忘れた心は、誰でもいい、救いを求めていたのだろう。
 だから、本当の恋ではなかったのかもしれない。
 オレと医師は、はっきり言って、プラトニックでしかなかった。同情だろうとなんだろうと、医師がオレに好意を寄せているのは、感じられた。それが、オレには嬉しかったんだ。
 医師が来てオレの傷を診る。治療をして帰るまでの間に、ただ少しやさしいことばをもらうだけ。視線がふと合って、オレはかすかに笑んで応える。それだけでオレは、これまでの、そうしてこれから先への不安を少しの間忘れることができた。
 それは、タイムリミットのあるものだった。
 もちろん、心の中で思うのは自由だ。けれど、オレの傷が治ったら、オレは、医師と会うことができなくなる。
 それを思えば、寂しくて、辛くて、オレは、情けないくらいに泣けてくるのを止められなかった。
 医師と出会ってから、オレは、信じられないくらい、涙腺が脆くなっていた。
 そうして、オレの傷がもう心配ないのだと、そう、診断されたその日――――
 これが最後だと、はじめて、手を合わせた。
 ただ、触れるだけのくちづけを、交わしたんだ。
 そっと、さらと乾いたくちびるのあたたかさ、やわらかさすら、かすかなものとしか感じられなかった。
 ほんの数瞬の間に過ぎなかったくちづけは、不意に、終わりを告げた。
 目を開いたオレは、ぶざまな悲鳴をあげて、医師の後ろに佇む男から逃れようとした。
 男が、見たことがないほど怖ろしい表情で、オレを、見下ろしていたんだ。
 医師が、部屋から、連れ出されてゆく。
 怖さを圧して、駆け寄ろうとしたけど、オレは、足のせいで、立ち上がるのに時間がかかる。
 オレに向けられる医師のまなざしが、オレの視界から消えてゆく。
 奪わないで欲しかった。
 せめて、最後の思い出くらい、穏やかなものであってほしかったのに。
 男が、何かを言っている。
 なにを言われているのか、わからなかった。
 わかりたくなかった。
 オレは、全身で、男のことばを拒んでいたのだ。
 男が、オレにくちづける。
 イヤだ。
 オレは、もがいた。
 それは、医師とのふれあいを嘲笑うかのように、濃厚なものだった。
 嫌なのに。
 男の両手が、抗いつづけるオレの首を包んだ。
 男が、オレの耳もとに、なにかをささやく。
 思いもよらない告白に、オレの脳が、真っ白になった。
 それが、オレの聞いた、最後の言葉だった。
 オレは、男に、くびり殺されたのだ。
 けれど、オレの魂、そうでなければ意識――は、その後も、オレの骸についたままだったらしい。

 オレは、オレのからだだったものが、煮溶かされてゆくのを、見ていた。
 やがて、白い骨になったオレが、琥珀や金と同じただの素材となって、鼻煙壷という器物に成り果てるまでを、ぼんやりと、眺めていた。
 成り果てた後も、オレは、なぜだか鼻煙壷から離れることができなかった。
 多分、最後に聞かされた男のことばに、捕らえられてしまっていたのだろう。

 今日もまた、オレであったものを掌に包んで、男は椅子にかけている。
 ―――これで、おまえは私だけのものだ。
 オレの欠片を撫で擦りながら、男の目は、どろりと濁っている。
 男の生命が、残り少ないのを、オレは、感じていた。
 ぞろり――と、男が、オレの欠片を舐め湿らせた。
 ―――愛している。
 男が、つぶやく。
 愛しているのならなぜ、オレをあんなにしたのだろう。
 男の歪んだ思いに捕らえられて、オレはただ、男の傍らに、立っていた。


「しゅう、柊一」
 男の声に、オレは現実に立ち返った。
 男の心配そうな表情も、声も、はじめてだった。
 男の手が、オレの前髪を掻き上げる。そのまま、頬を撫でられた。
 男が、夢の男と重なって見えた。


おしまい



UP 10:59 2009 08 12
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