break out




「ほれ、遠矢。お前だぜ」
田上は舌打ちした後に、遠矢を振り返った。
明るい照明の下、程よい距離をとって並ぶビリヤードテーブルのひとつの周囲に、二十代ほどの若者が十名ほど集まっていた。ここは、プールバーである。他のテーブルの周囲にもビリヤードを楽しむ若者が集まっているが、このテーブルほどの緊張はなかった。
「オッケー」
飲み終えたグラスを残る台の縁に音をたてて置き、遠矢が立ち上がった。
上背のある、それでいてすらりとしなやかな、どこか猫科の肉食獣を思わせるスタイルの若者が、少し長目の黒髪をかきあげる。
目元がほんのりと桜色に染まっているのは、さきほど飲み終えたカクテルのせいだろうか。
「おっと」
少しばかり酔いが深いらしい。腿をソファの背にぶちつける。
ジャケットを脱ぎ黒いシャツ姿になる。黒いシャツは遠矢の均整のとれたからだのラインを際立たせて見せる。幾対かの視線がそんな彼を食い入るように見ていることなど、遠矢は知らなかった。
しばらく台上の玉の配置を睨んでいた遠矢が、
「これはまた、ポケットインしにくい配置に散らばらせてくれたな……」
田上を振り向いた。
「ふふん。まかせろ。今日こそ、賭け金は俺の総取りだ!」
「ぬかせ」
にやりと笑い、遠矢は軽く肩を叩いていたキューを白い手玉に向けて、おもむろに狙い構えた。
テーブルの縁に腰掛けるようにしてからだをひねったその体勢と、無造作にも思えるキューの構えかたに、
「あっ」
誰かが、短く感嘆をもらした。
長身の遠矢がそういう姿勢をとると、格好よさが三割り増しに見える。
キューは、水平ではなく、台にほぼ直角の構えだ。
ゴッ!
台の周囲に、白い手玉をキューが打ち据える音が、小気味よく響く。
「げっ」
余裕で見ていた田上が、喉の奥で悲鳴を押し殺す。それと同時に、九のナンバーがふられたボールを、台上で最小のナンバーをふられているボールが、捕らえた。無番の手玉はころころとゆるやかな動きで、遠矢へと戻ってくる。
ガコンガコンと、ポケットに九番目のボールと、最小番号のボールが、続けて落ちる音がする。
田上がテーブルに懐き、賭けに参加していた者たちが、勝敗に一喜一憂する。
にやりと田上を振り返り親指を立てて踵を返しかけた遠矢が、瞬時にしてその場に凍りついた。
ビリヤードテーブルに向かって、人が左右に分かたれて、道を空けている。
ゆったりとした靴音をたてながら、静まり返った中を、ほかには目もくれず進んでくる背広姿の黒い影。
影に見えるのはダーク系のスーツを一分の隙もなく身に纏っているからだろう。オールバックに整えられた黒い髪さえ一部の乱れもかいま見せない、厳然とした雰囲気の四十絡みの男の名を、西園寺公彦と言う。
遠矢と西園寺との距離が縮んでゆくにつれて、磁石の同極同士が反発するかのように、遠矢が後退してゆく。
黒いまなざしが、肉食獣めいた光を宿して、遠矢に据えられている。
白い照明の中、ゼリーのごとくぬめる濃密な視線が、まとわりついてくる。
まとわりついてくる視線の、その意味するものを、遠矢は知っている。
意味するもの、それは、欲望だ。
欲するものをよく知って微塵も揺らがない。そんな捕食者のまなざしが、遠矢を恐怖へと陥れる。
先日の、もちろんのこと夢に見たこともなかった、教授からの告白とその後に起きたことは、いまだ記憶に生々しい。

「愛している」
さらりとまるで戯れごとのように、肘すらデスクについたままの西園寺に言われたことばを、まさか自分に向けたものだとは思いもしなかった。だから、遠矢は周囲を確認したのだが。
「練習ですか?」
頭をかきながら返したのは、厭味ではなかった。言ってみるなら、純粋な疑問だ。なのに、窓を背中に、密かに女性の人気を集める独身の教授は、喉の奥で笑ったのだ。
馬鹿にされたようなと感じたのだが、実際問題どうだったのかなぞのままである。
そのまま無言で教授はデスクを回り、立ち尽くしていた遠矢のすぐ目の前にやってきた。
百八十近い上背のある遠矢よりも、ほんのわずか高い位置にある黒い双眸が、遠矢を見下ろす。
それに、なぜか、怖じ気を覚えたが、同時に、動くことさえできなかった。
西園寺はそんな遠矢の足を払い、床に押し倒した。
研究室には誰もいないとはいえ、学棟にはまだたくさんの学生や教授がいる。壁一枚隔てた資料室には西園寺をゼミの教授に選んだ学生もいるのだ。焦ってはいたがなにがなんだか判らないこともあり、遠矢は、そんなことを考えながら、ぼんやりと、西園寺の口付けを受けていたのだ。
無理矢理のくちづけに全身が痺れるようになってやっと、遠矢は我に返った。
西園寺を引き剥がそうと、暴れはじめる。が、時は既に遅く、ジャケットははだけられ、その下の彼のトレードマークといってもあながち間違いではない黒シャツはたくし上げられていた。
それ以上のことをもう思い出したくなくて、遠矢は記憶を無理やり締め出した。
ともかく、あれから一週間が過ぎている。最終的に未遂だったこともあって、何食わぬ顔で教授に接してきた遠矢であった。しかし、ともすれば脳裏をよぎるのは、あの時の西園寺のまなざしに誘発された、怖気(おぞけ)だった。他人にとっての欲望の対象として自分が見られることの、屈辱的なまでの恐怖であった。
しばらく女性を口説けないなと、負け惜しみのごとく嘯く(うそぶく)よりなかったのだ。
腰に当たったビリヤードテーブルの縁の硬い感触に、遠矢は我に返った。
もとより、逃げ場は、ないのだろう。観念した遠矢は、
「教授。俺に用ですか?」
キューで首の付け根を軽く叩きながら、口角を歪めてみせた。
「ああ。そろそろ、この前の返事を聞きたいのだがね」
頬が引きつる。それでも、最後の意地で、
「……お断りしても、いいですよね」
軽く聞こえるように、答えたのだった。
まさかこんなところでは行動には出ないだろう。一縷の望みは現実味がありそうで、遠矢は、ほんの少しだけ気を抜いていたのだ。高を括っていたと言ってもいい。
「ふむ……。まぁ、君がそう答えるだろうことは、予測の範疇ではあるのだがね」
なら、退(ひ)いちゃって下さいよ…………とは、遠矢の本心である。
履修科目の教授とはいえ、いや、だからこそだろうか。
教授の望んでいる関係を結ぶなど、態度のわりには常識人の遠矢には考えることもできなかった。
それなりにギャラリーのいる場所でよからぬことをするのは無理だろうが、言いだしはしないかと、ひやひやしている彼の内心を、もとより西園寺が鑑みることはなく、
「なら、勝負をしようじゃないか」
そんなことを言い出した。
「勝負ですか?」
「そう。場所もおあつらえ向きなことに、プールバーだ」
西園寺が上着を脱ぎながら、言う。
「ビリヤードでっつーことですよね」
「そう。君が勝てば、私は退こう。が、私が勝った場合は……わかっているな」
カフスを外し、ワイシャツの袖を折り上げてゆく。
男らしく筋張った西園寺の二の腕に、遠矢の背中が引き攣れた。
遠矢の眉間が珍しい縦皺を刻む。
ビリヤードの腕前は、まぁ、そこそこだろう。客観的に見てプロはだしだと思うのだ。はっきりと負ける気はしないと、言い切ってもいいかもしれない。しかし、あくまでも、勝負は時の運である。
(教授から言いだしたことだし…………)
そこが不気味だといえば、不気味である。西園寺の底知れなさがそこここに潜んでいるかのようで、楽観視はできない。それでも、これがチャンスであることには変わりがない。
しかたないなと、溜息をついて、遠矢は肩を竦めた。
「男に二言はないですよね」
「無論」
その奥に熱をたたえた真摯な一対の黒瞳が、遠矢を見上げている。それに、ぞわりと寒気を感じながら、
「わかりました。じゃ、バンキングから」
「よかろう」
ふたりのやり取りにただならぬものを感じながら固唾を呑んでいた周囲のひとりが、西園寺にキューを差し出した。
受け取った西園寺は、遠矢と台の一辺に並び、手玉に向かう。
遠矢と西園寺とがそれぞれの白い手玉を衝く音が、緊張したその場に響いた。
台上のより遠くに手玉を衝いたものが、ゲームの先攻を握る。
ふたりが行っているナインボールを簡単に説明すれば、一から九まで番号を振られた九つのボールを白く無番の手玉で、台の脇六ヶ所に設けられたポケットに落としてゆくゲームである。こまごまとしたルールがあるが、まぁ、それは、おいておくことにして。ともかく、先行が上手い場合や、ツキまくっている場合は、後攻は一度もキューを握ることなくゲームオーバーになったりするのだ。だから、このバンキングが、ゲームの中で最も重要な鍵を握っているともいえるのだった。



キューを台に置き、静まりかえったギャラリーたちの前で、
「私の勝ちだ」
と、太い笑みを貼りつけた西園寺は、遠矢に近寄った。
地獄に突き落とされたような気分で、その場に立ち尽くしていた遠矢は、西園寺の表情に青褪め後退さった。
貼りつけられた笑みのその裏に滾り立っているものを、遠矢はまざまざと感じ取っていた。
それは、紛れもなく、遠矢へと向けられている劣情である。
背中を、脂汗がしとど流れる。
黒々とした切れ長の双眸が、遠矢の明るい色の瞳を覗き込む。そのまま脳幹さえも灼きつくされてしまうのではないかと、怯えずにはおられないほどの、それは、激情だった。
そうして、気がつけば、遠矢は噛み付くようなくちづけを受けていたのである。
凝りついたギャラリーたちの面前で、遠矢のくちびるを堪能した西園寺は、
「それでは、彼は貰ってゆく」
そう彼らに告げて、遠矢の背中を押したのだ。

ふたりの姿が店を出るまで、店内に、しわぶきひとつたつことはなかった。


翌日、遠矢が講義に出ることはなかった。




おわり

up 11:24 2011/03/21
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