花菖蒲




 空がまだ明るい。
 探してくるように言われた資料を手に書庫から出た高見は、奉行所の中庭を囲む廊下を歩いていた。
 めっきり夏めいてきた空気は、これから先の暑さを予感させるかのようで、高見は、懐から取り出した手ぬぐいで額を拭った。と、
「高見殿」
「はい」
 不意に呼びかけられて、足を止めた。
 振り返った先では、三十くらいか、着物に羽織姿の侍が懐手に高見を見ていた。
「これは、飯塚さま」
 腰を折り、礼を取る。
「勤めには慣れられたかな?」
 亡き父に目をかけてもらったと、飯塚は、まだ奉行所に入って一月経っていない高見清之進に何くれと声をかけてくれる。
「は、はい。どうにか」
 黒い羽織姿の姿勢のよい男の帯に十手の赤い房が垂れている。
「これから、町まわりですか?」
 できれば自分も同心になりたかったなと思いながら、そう訊ねると、
「おお。お役目だからな」
 面倒だがしかたがない。
 呵々と笑いながらすれ違いかけ、
「忘れるところだった。お奉行が用だとか」
 そう言われて、高見の顔が少しばかり引き攣った。
「どうかしたのか?」
 顔を覗きこまれて、
「いえ………」
 煮え切らない返事を返して、高見は奉行が待っているだろう部屋へと鈍る足を向けたのだった。

 高見清之進は、まだ十六の少年だったが、父親の急死のため急遽家督相続を許されたのだった。父親の後を継いで奉行所詰めになったのだったが。
「私をお探しとか」
 奉行の執務室の障子を開け、高見は、頭を床につけた。
「入れ」
 父親がらみで何度か顔を合わせたことのある五十ほどに見える男が、顔をほころばせて、高見を手招いた。脇息に片手をあずけて座るふくよかな男は、そうしていれば、ひとのよい印象をただよわせている。
 しかし。
 高見が廊下で正座したままいっかな動こうとしないのに、焦れて、眉間に皺を寄せる。
「入れと申しておるのだぞ」
 たちまち固くなる奉行の声に、高見の全身が、大きく震えた。と、
「なにをやっている。別段怒っているわけではない」
 微妙にやわらかな調子を取ってつけたような、猫なで声に変わる。
 高見の背中に、つぷつぷと脂汗がにじみ出る。
 小刻みな震えは、なにも怒られたからではない。
 ぎしり――と、脇息が、音をたてた。
 奉行が、座布団から下りて高見を見下ろす。
 ふくよかな外見とは裏腹に、高見が立ち上がろうと必死になって自分を叱咤している間に、奉行は素早く彼の目の前に立っていた。
「そう嫌がるものではない」
 高見の顔が、ひきつれる。
「奉行が目をかけておるのだぞ」
 伸びてきた白い手に顎をとられて、高見は、咄嗟に、
「お許しをっ」
 震えながら、平伏した。
 高見が事務方よりも同心がよかったと思う理由はここにある。

 高見の父親がまだ健在のうちから、奉行は何かと高見家に訪ねてきてはいたのだが。それが、まさか自分を念弟にとの意図があってのこととは考えたこともありはしなかった。

『私がおまえを念弟に欲しいと言うと、いつもやんわりと断られてな』
 そう言われたのは、高見がどうにか奉行所の間取りや規則を理解しはじめたばかりのことだった。
『そなたは、まさか、断るまい?』
 ちろりと細い目で流し見られて、高見の全身が、ゾッと震えた。
『私にまかせておけば、きっちりと、後見してやろうからな』
 手を取られて、手の甲にふにゃりとしたくちびるの感触を感じて、高見は、念弟が何なのか、ようやく、理解したのだった。
 思わず手を振り払い、まろぶように部屋を逃げ出した。
 とんでもない。
 とんでもないことになった。
 とんでもないことをしてしまった。
 ぐるぐると、同じようなことばが、はらむ意味を変えて頭の中をめぐる。
 念弟―――男色の相手など、とんでもない。他のひとがどうかは知らないが、自分には、無理だ。
 奉行に言い寄られるなど―――――とんでもないことになった。どうやって逃げ切ればいいのだろう。
 奉行を振り払ってしまった――――とんでもないことをしてしまった。これから先ずっと奉行とは顔を合わせなければいけないのに、いったい自分はどうすればいいのだろう。
 翌日、恐々と出勤した高見を待っていたのは、前日のことなどなかったといった風情の奉行の態度だった。
 ほっと安堵した高見は、しかし、それが間違いであったことをしばらくして知らされることになる。
 毎日のように、奉行に言い寄られるようになった高見は、身の細る思いで毎日奉行所に通うようになったのだった。
 唯一の救いは、奉行のあからさまな行為がいまだ誰にも知られていないらしいことだけだった。

 肩に白くやわらかい手が乗せられ、顎をとられる。そのまま顔をあげられて、呆然としていた高見は、もう少しでくちびるを吸われるところだった。
「御奉行」
 奉行の近習が慌しく駆けてこなければ、おそらくそのままなし崩しにされていたことだろう。
 助かった――と、高見は、息を吐いた。
 言い訳など、奉行に任せておけばいい。しかし、近習の視線が背中に痛いような気がしてならなかった。

 奉行所に行きたくなかった。
 行けば、また、同じことの繰り返しだろう。
 昨日のように逃げられればいいが。それがいつまでつづけられるだろう。高見の足は、日増しに重くなっていた。

 そうして―――――――――

 なんでこんなことに。
「高見殿こっちだ」
 飯塚に手を引かれながら、高見は、夜の町を必死で走っていた。
 追いかけてくる大勢の気配に、背中がゾッと粟立った。
 事務方勤めの毎日で、運動不足が祟っている。息が苦しい。足が、痛い。
「い、いいづかさま」

 誰かが――いや、おそらくは奉行本人が、自分を陥れたのだ。
 奉行秘蔵の翡翠の香炉が盗まれ、それが、高見の文箱から、発見された。それをなかったことにしてやろうから、と、奉行の手が伸びてきた。あの時の怖気を思い出す。
 高見の手を握るやわらかい白い手が、汗ばんでいた。
 舐めるような視線に、荒い息使いに、鳥肌が立った。
 奉行から顔を背けた瞬間、首筋に奉行のくちびるを感じ、咄嗟に突き飛ばしていた。
 ガツンと鈍い音がして、奉行はそのまま動かなくなった。
 ―――死んで、いる?
 乱れた襟の合わせををおさえてにじり寄り伸ばした震える手に、生温かな体温が伝わってくる。
 ――生きて、いるのか?
 ホッと息を吐いたのもつかの間。
 意識がないとばかり思っていた奉行に手首を握られ、本能のまま振り払っていた。
 ふたたびの鈍い音。
 白目を剥き口の端から血を流す奉行の姿に、後退り柱を頼りに立ち上がろうと藻掻く。
 生死を確かめる気力すら、高見からは、失われていた。
 萎えた花のように項垂れ、ただ、どうすればいいのか必死になって考える。
 香炉盗人の汚名を着せられて、その上、奉行を害したとなれば――――
 もはや、自分は罪人なのだろうか。
 だとすれば………。
 高見の手が、自然、脇差へと、伸ばされた。
 父も母も既に不帰の人であることが唯一の幸いだろうか。
 古くから仕えてくれている爺にのことを思えば気が咎めるが、血の繋がりはないのだから累が及ぶことはあるまい。
 自分が自害して果てたとして、迷惑のかかる相手はいない。
 震える手で脇差を引き抜き大きく振りかぶった。
 その時だった。
 障子が開かれ、誰かの悲鳴が、すべての堰を切ったのだ。
 なにがどうなったのか。
 気がつけば、飯塚に手を引かれて走っていた。


 ざわめきが、聞こえていた。
 おぼろな月が、川面に映っている。
 悪所と呼ばれ恐れられている、はぐれ者達の吹き溜まりに高見はいた。
 湿った風が、吹いていた。
 澱んだような空気は、しかし、払われることはない。
 川に面した、古びた一軒家は、玄関の土間と三畳ほどの部屋、後は襖の奥に部屋が二つあるきりだ。それでも、ここではまだひとがましい住処だった。悪所だけあってなのか、貧富の差は外よりも、一層厳しい。雨露をしのぐ軒さえなく、朝になれば死んでいるものさえ日常茶飯事なのだと聞く。
 ともあれ高見がこの場所に息を殺すように潜んで、早、十日。季節は、梅雨めいてきていた。
 明日も、また、雨なのだろう。
 湿気を吸って、着物すら重いような気がする。
 癇症に袖を捲り上げた高見の手首には、首と同じく包帯が巻かれ、かすかに朱をにじませている。
 町人に身をやつすために、髷を結い変え、刀も脇差さえも、飯塚に取り上げられた。
 助けられたことを、自分は、感謝しているのだろうか。
 奉行は、死んだと、飯塚は言う。
 人殺しの自分など、あの時、自害して果てていたほうがよかったのではないか。
 そう。
 飯塚に、迷惑をかけることもなく。
 こんな、怖ろしげなところに入り込むこともなく。
 そう思えば、自然、目が部屋の中を探る。
 しかし、この部屋には、自害して果てるための刃物はなかった。
 すべて、飯塚が、処分したか、片付けている。
 帯を解いて、鴨居にかけようか。
 舌を噛もうか。
 しかし、それらは、高見の中の、侍としての矜持がよしとはしない。
 喉を突くのは、武家の子女の作法である。本来なら、元服を済ませた高見が取る手立てではない。
 手首を剃刀で切ったのだとて、高見にしてみれば、思い余っての苦肉の策だった。
 侍なら侍らしく腹を切らなければ。
 その思いが強く、刃物を奪われた今宙ぶらりんの状態で、高見はただ畳の上に足を投げ出していたのだ。
 もくもくと重そうな黒い雲が、おぼろな月を飲み込んでゆく。
 闇に、ざわめきがひときわ大きくなったような錯覚があった。
 女と男が戯れる嬌声が、聾がわしく響く。
 耳を塞ぎ、高見は立て膝の上に顔を伏せた。
 イヤだ。
 いやらしい。
 ゾッとする。
 あんなことの、なにが楽しいというのだ。
 今にも、自分が殺した相手の白い手が伸びてきそうで、高見の全身が大きく震える。
 この部屋にいることすら疎ましかった。
 助けてくれた飯塚もまた、自分をそんな目で見ていたのだと知ったからだろうか。
 何くれとことばをかけてくれたのは、下心があったからなのか。
 懇願するように、すりよられて、
『高見殿のために身を落としたのだ』
 そう言われて、怖気が立った。
『だから………な』
 だから、飯塚のものになれと? そう言うのだろうか。
 自分のせいで飯塚が身を落とすなどと、そんなこと望みすらしなかったのに。
 そんなこと、飯塚が勝手にしたことなのに。
 賭場の用心棒となった飯塚が帰ってくるのは、夜が明けてからである。
 夜が明ければ戻ってきて、また――――
 粘りつくようなことばで掻き口説かれるのか。
 イヤだ。
 顔をあげ、ぼんやりと手首を見る。
 なぜ、ことばが通じないのか。
 ぎりぎりと、高見は傷口に爪を立てていた。
 縫われた傷が、じわり裂ける。
 痛いのに、止められなかった。
 このまま、自分で自分を裂いてしまいたい。
 そうすれば、もう、悩まなくて済む。
 できれば、刀で裂きたいが、自分は贅沢など言えない身なのだ。
「くっ」
 くちびるを噛みしめ、指に力を込める。
 傷口が広がる。
 赤黒い血が、焼けるような熱をともなって糸を引いた。
「在宅かな」
 がらりと玄関が開いたのは、清之進が痛みに畳みに突っ伏した時だった。
 男がひとり、襖を開けて奥に入ってきた。
 手には、なにやら箱のようなものを下げている。
「なにをやっている」
 かちかちと固いものがぶつかる音がして、ぼうっと、部屋が橙に染まる。
 行灯に火が入り、畳に倒れた高見を照らし出した。
 抱き起こされて、
「ほうっておいてくれ」
 高見が、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「放っておけば、死ぬぞ」
「いいんだ」
 オレなんか死んだほうがいいんだから。
 苦痛に脂汗がにじみ、顔が歪む。
 顔にはりつく乱れ髪に、眇めたような目に、男の背中を、ぞくりと戦慄が走り抜けた。
「私は、自分の患者をむざむざ死なせる気はない」
 喉に絡むものを嚥下しながら、男は、箱の中から薬を取り出した。
「いらないっ」
 暴れる高見の手を、男は強く掴んで離さない。
 それに、忘れたい記憶が思いだされ、高見はこみあげるものを必死で噛み殺した。
「まったく。自分で傷口を広げるだなど、猫のようだな」
 どこか面白がっているような声音に、高見は顔を背けた。
「染みるだろう。が、まだ序の口だ」
 縫うぞ。
 言われて、高見は全身を強張らせた。

「痛み止めと化膿止めだ。飲んだら横になるといい。梅雨時に傷を悪化させたら、すぐ、悪い風が入って、のた打ち回って狂い死にする羽目になるぞ。わかっているのか」
 まったく。おまえの念者も、おまえの我儘をよく我慢しているな。
「念者じゃないっ」
 どいつもこいつも。
 はねつけるように叫んで、高見は、男を見上げた。
 どこか猛禽を思わせる、厳しそうな顔の男が、高見を見ている。
「オレにはっ、そんな趣味なんかないっ」
 高ぶりすぎて、涙がこみあげてくる。
「なら、なぜ、ここにいる?」
 不思議そうに訊ねられて、
「それは………」
 返答に詰まる。
 自分は、ひとを殺した。
   追われている。
 隠れている。
 どれも、他人に打ち明けたい事柄ではなかった。
 しかし。
 男が聞きたいのは、それではなかったらしい。
「相手を惑わせて、楽しんでいるのか?」
「?」
 思いもよらない事柄に、高見の思考が止まる。
「思いを寄せてくる相手を焦らせるのは、そんなに楽しいか?」
「誰が………」
 そんな悪趣味なこと。
 しかし、高見は言い切ることができなかった。
 すぐ目の前に、男の顔があった。
 お硬い医師にふさわしい厳しい顔が、口角を吊り上げただけで印象を百八十度変えた。
 男の突然の変貌に、高見の背中が大きく震える。
 しかし――――
 目の前の男の顔が、ぶれる。
 痛み止めが効いてきたのだろう。からだが、揺れる。
 思考ばかりが忙しなく、からだから、力が抜けてゆく。
 駄目だ。
 この男は、危険だ。
 逃げなければ。
 そう感じるのに、動くことができない。
 指の一本、瞼すらもが、とてつもなく重い。
 焦る高見の耳もとで、男が、ささやいた。
「私が、おまえを躾けてやろう」
 男を誑かそうなどと思わないようにな。
 ―――――違う。誑かしてなんか、いない。
 誑かしてなんかいないんだ。
 しかし、高見のことばは、ついに、男には届かなかった。
 意識を手放した高見を掬い上げるように抱き上げると、男は行灯の灯を吹き消し、なにごともなかったかのように家を後にした。
 翌朝、仕事から戻った飯塚が見たのは、畳の上の高見が流した血の跡だけだった。

おわり

up 18:27 2009 09 01
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