春の卵



 人で埋まったレトロでエキゾチックな町並みを、少年はものめずらしげに歩いていた。
 メインストリートから一本路地をはいったところに、市が立っているとは思いも寄らないことだった。
 毎日立つ屋台の並びではなく、市――だ。昨日覗いた屋台村とは、少し、雰囲気が違っているような気がする。
 都会的な高層ビル群をわずかに逸れただけなのに、オリエンタルな下町があった。日本なら寺社仏閣の参道といった風情の石畳の道の両側に、色とりどりのパラソルが花開いている。それらが、空の青とあいまって、とても美しかった。
 香や食べ物の匂いが、ひといきれに混じって、少年の鼻をくすぐる。
 道の先にあるのだろう、寺院にささげるための花銭のあざといばかりの原色。お供えのためのさまざまな菓子類。てらりと光る布。焼き物や紙粘土で作ったような、小さな人形を売る店。かと思えば、思いも寄らない不思議な方法で客を見る、占いの店。
 そんなさまざまな店を、色鮮やかな民族衣装やふつうのTシャツにジーンズといった格好など、思い思いの格好をしたひとたちが、楽しげにひやかしながら、そぞろ歩いている。
 ことばはまったくわからなかったが、少年は、この場の雰囲気を楽しんでいた。
 熱帯の国の陽射しに混じった甘い香のかおりが、少年を惑乱する。
 開放的な気分に捕らわれたのは、見知らぬ異国の地にいるせいだろうか。

 両親は、オプションの川下りに出かけている。
 古来文明発祥の地には必ずあるらしい大河を、屋根付きのボートでゆったりと下るのだ。
 そんなの興味ないし。
 茶色く濁った川には、心惹かれない。それが日本では見られないほどに広く大きなものであっても。落ちたら、怖そうだ。川の中、見知らぬ魚や両生類がいるのではないか。絶対にいないとは、言い切れない。この国ではなかったろう、人食いの魚の話が脳裏を過ぎったのも、仕方がないと思うのだ。
 この国に到着したのは、一昨日の夜遅く。
 絶対行かない――両親に言い張ったのは、日本にいるときからだった。
 結局少年は我を通して、独りホテルに残ったのだ。
 かといって、少年は十六歳。まだまだ好奇心旺盛な年頃である。ホテルの中で一日を潰すのはもったいなかった。しかも、どんなに珍しいものがあっても、一応高級ランクにはいるらしいこのホテルの金銭感覚は、結構割り高で。一高校生が気軽に買い物出来る雰囲気ではない。
 ま、いっか。
 自身意識していない口癖が、こぼれだす。
 財布は持ち歩かないほうがいい。かといって、貴重品をホテルの部屋に置いておくのも危険だ。
 ――――んなん、どうせーちゅーんじゃー!
 しばし悩んだ少年は、札と小銭をジーンズのポケットに突っ込んで、部屋を出た。
 カードキーも反対側のポケットにねじ込む。
 カチャン。
 鍵がかかる音を耳にして、少年は、人気のない廊下をエレベーターホールに向かったのだった。

「腹減ったな」
 一箇所だけではなかった寺院を数箇所めぐり、花銭を捧げた後、少年は、小腹が減ったのに気づいた。
 ビュッフェ形式の朝食から、結構時間が経っていた。
 太陽は、やがて、中天にさしかかろうとしている。
 暑い。
 突然感じた強烈な熱気に、肩が、だれる。
 キャップを目深に引き下ろし、屋台を見た。
 人波の隙間から、冷たそうなフルーツジュースを売っている店が見えた。透明な容器越しの鮮やかな色が、少年の渇きを助長する。
 飲みたい。
 その時、くらり――と、足元がの地面がやわらかな低反発素材になったような気がして、足を止めた。
 ゆらゆらと、かなり大きな揺れにもかかわらず、誰一人、足を止めも、慌てもしない。
 地震に慣れてんのか?
 そう思いながら立ち尽くす少年に、誰にもぶつからない。
 少年は、ただ、その場で揺れつづける。
 危ない。
 目の前に迫った大柄な男がぶつかりそうに思えて目を閉じるも、ぶつからない。まるで反発する磁力のように、男が、不自然な動きで、逸れたのだ。
 ?
 ゆらり。
 からだが、勝手に、動いた。
 心臓が、ドキドキ脈打つ。
 脂汗が、全身を冷やした。
 少しの間ぼんやりしていたのに違いない。我に返った少年は、しばらく前に目にした屋台で、ジュースを買い、一口飲んだ。
 ほどよい酸味の果汁が、口いっぱいに広がり、少年のまだぼやけたままの意識を明瞭なものにした。
 ?
 キョロリと何気に周囲を見渡して、奇妙な違和感に捕らわれる。
 なんか、変だ………。
 しかし、その正体が、わからない。
 パラソルは相変わらず色鮮やかだし、人も多い。そういえば、Tシャツとジーンズといった服装の人間はいなくなっている。
 チラチラと珍しげな視線が自分に向けられているような気がしてならなかったが、
「ま、いっか」
 肩を竦めた。
「なんだ、これ?」
 竹筒に入ったジュースをストローで飲みながら、少年は、ふと、足を止めた。
 青いメレンゲ状の物体の下に、薄青く染まった卵のようなものがずらりと並んでいる。
「鶏の卵みてーだけど?」
 買うではないものの、興味だけを惹かれて、サリーのような民族衣装を頭からかぶった老婆と卵とを交互に見比べた。
 そうしていると、
「いてっ」
「っ」
 竹筒に残っていた液体が、ぶつかった衝撃で、相手にかかった。
「ソーリー」
 ぶつかってきたのは、相手だが。つい、条件反射のようなものだった。
 言ってから、外国ではあまり謝るものではないと注意されていたのを思い出したが、時すでに遅しだ。
「ノープロブレム」
 どこか訛りが感じられる英語で反応されて、相手を見返せば、そこには、意志の強そうな顔立ちに鋭い目つきの青年が立っていた。
 この国の人間じゃないな。
 アジア系ではある。しかし、褐色がデフォルトのこの国の人間の肌色をしてはいない。
 麻のジャケットから取り出した、白いチーフで、青年は、ジュースの雫を拭い去る。
 パナマ帽にクリーム色の麻の上下に、革靴というなりは、まるで、昔の映画の世界そのままのいでたちのようだった。
 商売の邪魔になりそうなものだが、老婆は居眠りでもしているのか、ただ座っている。
 青年が水分を拭い終わったのを見て、
「ほんと、わるかった」
 じゃ、そういうことで――――と、きびすを返そうとした少年の腕を、青年が掴んだ。
「え?」
 びっくりした。
 二の腕をいきなりきつく掴まれるなど、経験したこともない。
 しばらく、動きの止まった少年の顔を覗き込むようにして凝視する。と、ニヤリ――くちびるの片方を持ち上げた笑い顔に、少年の背中が痛いほどに粟立った。
 青年が、手を離した。
 バタ臭く両手を挙げ、
「ソーリー」
 今度は片頬を歪めた。
 何とも知れない戦慄に動くことを忘れた少年が、ギクシャクと、屋台に視線を逸らした。
 やはり、薄青い卵が並んでいる。
 老婆が、ふと、薄目を開けた。
 老婆の耳からぶら下がった大きな金の輪が光を弾いた。
『お買いなさるかね』
 しわがれた声だった。
 うっすらと白く濁った黒い目が、少年を、そうして、少年の横に立つ青年を見上げていた。
「これは、なんだ」
 腰が引けそうな少年とは反対に、青年は、泰然と尋ね返した。
『―――卵ですよ』
「なんの、だ」
『―――卵ですよ』
 どうしても、少年には前半が聞き取れない。
「これが、か?」
 しかし、青年は違うのだろう。興味深げに顎に手をやり、見下ろしている。
『美味しいですよ』
 お買いなさい。
 お食べなさい。
 耳の奥で響く声。
 まるで、導かれるように、ふたりは、卵をそれぞれひとつずつ手に取っていた。
 なんとなくそれが自然な気がして、互いを見交わしながら、老婆の声に操られるようにして、卵を口に運ぶ。
 一口。
 まるで、卵ではないかのような甘みが口の中に広がった。
 一口。
 ほろりと崩れて、融けてゆく。
 一口。
 ほんの少しだけ、苦味と酸味が口の中に残ったと、そう感じたのは気のせいなのか。
 何も口にはしなかったかのように、卵の名残は、消え去った。
 そうして―――――
 あったはずの、いたはずの、老婆も屋台も卵までもが、綺麗に消え去っていたのである。
「なにを、食べた………」
 真っ青になった少年の耳に、噛み殺し損ねた笑い声が聞こえてきた。
「こういうことか」
 笑っていた青年が、ふと笑いを止めたと思えば、周囲を見渡した。
「付き合え」
 言うなり、少年の手を無造作に引っ張った。
「えっ?」
「私は今、逃亡中だ。付き合え」
「えええー?」
 青年が走り出すのと、
「――――――!」
 複数の叫び声が聞こえ始めるのとが同時だった。



 青年に引き回されて、午後はあっという間に暮れた。
 レトロな内装のフレンチレストランでデザートにたどり着いた時、青年の前に三人の黒服が姿を現した。
 なにをしたんだこいつ。
 怖じける少年の目の前で、
「降参だ」
 肩を竦めて、少年を振り返った青年は、
「タイムアップだ」
 そう言って、席を立ったのだ。
「いつか迎えに行こう」
 去り際に、そんなことばと一緒にさりげないキスをくちもとに残して。
 取り残された少年が、しばらく動けなくなったのは、仕方がないだろう。
「………なんてー一日だよ」
 我を取り戻して、つぶやいた少年は、手首に巻かれたウン百万はするだろう腕時計を見た。
 今日の記念にと、謝雅都(しゃ かれと)と名乗った青年は、日置和佐(ひおき かずさ)としぶしぶ返した少年がしていたスウォッチを取り替えたのだ。
 下品にならない程度のダイヤの間で、針が指している時刻は午後七時。
「ま、いっか」
 和佐は、融けたシャーベットの代わりに、グラスのミネラルウォーターを飲み干した。



 あの後しこたま叱られたんだっけなぁ。
 和佐は、ぼんやりと、思い返していた。
 ほんの一月前の旅行の記憶である。
 しかし、この目の前の事実は、いったい何なんだ?
 場所は、日置家の応接間である。
 父親の趣味で集めた重厚そうな家具が、ちゃちに見える。
 ソファの中央に座る、何の前触れもなく現われた男に、両親も戸惑い気味である。
 謝雅都と名乗ったのは、五十がらみの壮年の男だった。
 リンカーンだかリムジンだか、一般家庭の前の道路にでんと停められた車体の長い高級車を見て、学校から帰ってきた和佐が首をかしげたのも無理はない。
 なにがどうなっているのか、仕事人間の父親が血相を変えて帰ってきたのも初めてだった。
 父親の勤める会社と取引があるところの偉い人だとかなんだとか。聞いてもよくわからなかったが、恐縮した父親は、和佐の隣で固まっている。
 同姓同名っているんだなと、同席を強いられた和佐がコーヒーに手を伸ばしたときだった。
「してはいないのだな」
「は?」
 手をとられて、思わず、腰が引けた。
「腕時計だ」
「腕時計?」
 してる――よな?
 緑色のお気に入りが時を刻んでいる。
「取り替えただろう、私の腕時計と、スウォッチというのとを」
 私は持っているがね。
 そう言って、男が背広の内ポケットから取り出したのを見て、
「うそっ!」
 和佐の目が、大きくなった。
 今にも壊れそうなくらい古ぼけたそれは、確かに、あの時謝という青年に取り替えさせられたものだ。
 限定生産で、シリアルナンバーがついていたのだ。その番号を和佐は覚えている。
「あん時の?」
 同姓同名の親子なのか? 外国では意外にあるらしいし――と、考えはしたが、その黒い目に宿る光に、記憶があった。
「謝雅都?」
 父親が驚いたような顔をして自分を男とのやり取りを見ているのが、目の端に映っていた。
「じゃあ、なに? オレが、三十年ばかしタイムスリップしてたっていうのか?」
 気づかないうちにタイムスリップをして、気づかないうちに戻っていたのだから、しなかったのも同然なのだが。
 貴重な体験を理解していなかったのは、もったいないというか、なんというか。
 それにしても、
「わざわざそれを確かめに来た――とか?」
 暇なヤツ。
「ああ! 腕時計を返せだな。取って来る」
 立ち上がりかけた和佐の腕を、雅都が掴んだ。
「返す必要はない」
 そのまま、座っていたまえ。
 命令に慣れた口調はあまりに自然で、和佐は、反抗もせずに従っていた。
 雅都の視線は、和佐に注がれたままだ。あまり瞬きもせずに、食い入るように見つめてくるまなざしに、喉が渇いてならなかった。
 コーヒーに手を伸ばす。
 冷えたコーヒーを一口飲もうとしたタイミングで、雅都が、口を開いた。
「いや。プロポーズだ」
 真顔で言うものだから、
「ぐえっ」
 もう少しで、コーヒーを吹き出すところだった。
 胸元を叩きながら、
「じょ、お、だん」
「本気だ」
 しれっと返されて、両親を見た。
 そこには、和佐以上にあっけに取られた二人の姿があった。
「一緒に、春の卵を食べただろう」
 よみがえるのは、奇妙な老婆と不思議な卵のことだった。
「あれは、な。別名、恋卵とも言うのだ」
 共に食べたものは、恋に落ちる―――。
 もしくは、共に食べたものが一緒にならなければ、呪が降りかかる――――とも言われている。
「は?」
 目が点である。
 一緒にならなければ呪が降りかかるから恋に落ちるんなら、卵自体が呪の卵だろうが。
 思っても、声にならない。
「私はすでに恋に落ちて久しいからな。義務とやらで結婚して後継ぎも出来た。が、上手くゆかない。当然だ。呪がかかっているのだからな。だから、息子の成人を待って、私は、離婚した。あとは、和佐、おまえだけだ」
 どうする?
 黒い瞳が、見つめてくる。
 承知しなければ、呪が降りかかる前に、私がおまえの父親を解雇させてもかまわないぞ―――と。
 声なき声が、和佐の脳裏にこだましていた。


おわり

up   23:55 2008 03 22
◇ いいわけ その他 ◇

花銭――“はなぜに”とでも“かせん”とでもお好きにどうぞvv 造語のはずです。お金をお賽銭として捧げる代わりに、お金で造花もしくは生花を買ってそれを捧げる――という風習があるかどうかは、あいにく、知りません。

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