それ――は、山の中に、ひっそりと建っていた。
むっとこもるほどの草いきれ。
緑の滴る吐息の中に、崩れ落ちることもなく、ただ、人目に触れずに、建っていた。
色あせた、かつては赤レンガだったろう壁は、びっしりと蔦が絡み、朽ちることを抑し留めていた。
一陣の風が吹きぬけ、しだれた緑の葉を揺らす。
タペストリーめいた葉の連なりが、風に煽られ、現れたのは、木製のくぐり戸である。
錆びた蝶番(ちょうつがい)は、誰かがほんのわずかだけ、力を込めれば塵に還るかのように見えた。
風に煽られただけの蔦はすぐにくぐり戸をその葉裏に隠し、名残にかすかに揺れるばかり。
不意に、壁の奥から、音が、聞こえてきた。
崩れ落ちんばかりのレンガの壁と、それは、あまりに不釣合いな、深いピアノの旋律だった。
ひたり――と、蔦の震えが一斉に止まる。
しんと、鳥のさえずりさえ果てた静寂の中、妙なる音色が、流れ、やがて、耳をかたむけるものとてない音楽は、鳴り出したと同様に、突然、こぼれ落ちるように、やまった。
「なんで、こんな山で迷うかな」
標高数十メートルほどの、ぽってりとお椀を伏せたような、なだらかな山だ。
大学生になって最初の夏休み、悪友たちとキャンプに出かけたまではよかったのだが、はしゃぎすぎたのだろう、簡易ガスボンベを忘れていることに気づいたのだ。
じゃんけんで負けて、青年は、車の屋根に括りつけておいたマウンテンバイクで山を降りた。はずだった。
途中、どこで道を間違えたのか、気がつけば、ぐるぐると山道をのぼり、気がつけば、見知らぬ場所に出ていたのだ。
「あいつら怒ってっだろうなァ」
携帯の電源を入れて、ダイヤルする。
「うわ、圏外? マジか」
青年が、自転車を降り、涼しげな木陰に腰を下ろした。途端、
「うわっ」
音もなく、背もたれたものが崩れ、青年はもんどりうって、数段の階段を転がり落ちた。
枯れた蔦の葉に覆われた石畳の上を、緑に染まったトカゲが、慌てて逃げ惑う。
幾重にも絡んだ、蔦や木々のこずえ。その隙間越しに、心地好く冷えた陽射しが、降り注ぐ。
「いってぇ………」
強か(したたか)に打った頭や背中の痛みに呻き、青年ははたと、その緑に照り染まった空間に気づいた。
ちろちろとかすかな音をたてているのは、空間の中ほどにある、泉水だった。
首だけをよじって音の元を探った青年が、ぎしぎしいうからだをいなしながら、立ち上がる。
「どうやら怪我はないみたいだな」
一息ついて、湧き出る水を掬い取り頭からかぶった。
白いTシャツが、水を吸い、青年のからだにまとわりつく。
首を、肩を、順繰りに回して、青年がなんの未練もなく、空間を後にしようとしたときだった。
音がした。
青年の頭頂部から両の上腕部にかけて、鳥肌が立つような、異質な気配に覆われた。
閉て付けの悪い引き戸を開けるような、音にぎくしゃくと振り返った青年は、その場に、立ち尽くした。
そんなはずがない。
ここに、生きた人間がいるはずが、ない。
それは、本能だったろう。
古びた木枠の引き戸に上半身を持たせかけるようにして、男がひとり、立っていた。
「亨」
よく通る声が、青年の耳を射抜いた途端、ぞわりと、背筋がそそけだち、くらりと、視界が眩んだ。
目に見えるものが、現実味を失い、小さく、小さく収縮してゆくかの感覚があった。
そうして、そのまま、青年は、意識を失ったのである。
雨だれのような、ピアノの音が、空気を震わす。
どこかで聞いた記憶のある、けれど、タイトルを思い出すには至らない、比較的メジャーな、ピアノ曲だ。
ぼんやりと、瞼を開けると、そこは、夜。
傷ついたCDのように、いつも、同じ音と、同じ光景が、広がっている。
意識ははっきりしていた。
青年は、自分の名前を覚えている。
どうしてここにいるのか。
ここから出られない理由も。
深い溜息を、青年は、肺から押し出す。
力まかせに呼吸をしなければ、まるで、ダイビング用のレギュレーターを使って呼吸をしているかのように、一呼吸一呼吸が重く苦しかった。
イライラするのは、いつも同じ光景と、シチュエイションだからだ。
やがて、ピアノは、やむ。
青年がそう思ったとき、ピアノの音が、ぴたりと途切れた。
青年は、近づいてくる足音に、顔を背ける。
この空間に閉じ込められる前の記憶では、どこにも怪我はしていなかったというのに、なぜなのか、今、足を捻挫している自分がいた。
かなり酷い捻挫で、少し急に動けば、響くほどだ。
悪態をつきたくなる。
イヤだ。
ああ、厭でたまらない。
くそっ。
なんだって、オレがこんな目に。
きりきりと奥歯を噛みしめて、青年は、きつく目を閉じた。
やがて、自分に触れてくる、腕を拒むように。
しなやかで、しっかりと筋肉のついた、男の腕が、青年の顎を捉えた。
クック……と、しのびやかな笑い声が、耳元で響く。
「なにを拗ねている?」
と、男が、面白そうに囁いた。
「っ!」
青年が、赤く染まる。
首筋におとされたくちびるの感触に、
「やめろ」
低く、恫喝する。
「オレは、女じゃない。亨なんて名前、知らない! っ」
押しのけようとして、
「うわっ」
痛む足首を、きつく掴まれた。
からだを返され、のしかかってくる重みに、青年の思考が、混乱する。
こいつは、生きていない。
人間じゃない。
なのに、なんで、こんなに重いんだ。
なんでこんなに、痛い。
なんで、こんなに………。
青年の混乱した思考は、焼ききれるように、ブラック・アウトする。
気絶した青年が気づくことはない。
ピアノの上の、深紅のバラの花束に。
頬におとされる、やわらかなくちづけに。
男がささやく、
「おまえは、なぜ、応えてくれない」
狂おしい、絶望の吐息に。
そうして、気がつけば、果てのない、夜が始まる。
雨だれめいた、ピアノの音色が、明けない夜が、同じことの繰り返しが、少しずつ、青年の、意識を狂わせてゆく。
白々とした室内に、機械音だけが、空気をかきむしるかのように、響いている。
カーテンに囲まれた、パイプベッドの上には、青年がひとり、横たわっている。
からだのあちこちを包帯でぐるぐるに巻かれ、顔色は、土気色をしている。
たくさんのチューブに繋がれている青年は、事故に巻き込まれて、運び込まれたのだ。
夏休みの大惨事。
一ト月が過ぎようというのに、青年の意識が戻ることはなかった。
おわり
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