HUNTER




「よいお月さまですねぇ」
 響きの好い声だった。
 くすりと喉を振るわせる笑いをこぼして、男が振り返る。
 赤みの強い大きな真円の月が、振り向いた男の顔を暗く沈める。
 革手袋に包まれた手が、喉元をまさぐり、手繰りだしたのは、鈍く光を放つロザリオだった。
 十字に交差した中央に紅玉の薔薇が埋め込まれたそれに、紅玉に劣らぬ色を宿した男のくちびるが軽く触れた。
「聖母の御加護を」
 一陣の風が吹き、たっぷりとしたコートをはためかせた。
「それでは、お仕事とゆきましょうか」
 言うなり、男は、そこからダイブした。
 二十階建てのビルの屋上から、わずかの逡巡すらみせずに飛び降り、何事もなかったかのように、端然と立つ。
 その姿は、まるで、サーバルキャットのような優美さである。
 獰猛な力をその細身の体躯の奥に潜めた、野生のハンター。
 見るものを惹きつけずにはおかない、そんな天性のオーラが、しかし、すっと、消えた。
 明るい月夜の、少なく深い闇の底に、男が溶け込んだかの錯覚があった。

 甲高い犬の鳴き声が聞こえる。
 何かに怯えたような、威嚇するかのような、声である。
 赤い月の下、不吉に伸び縮みする影があった。
 何かを捜し求めるかのように、蠕動を繰り返しながら、進んでいる。
 それには、手も足もなく、見ようによっては、鎌首をもたげた巨大なアナコンダに見えないこともない。
 日本の住宅地に、直径五十センチはあろうかという大蛇がいるという違和感を除けばである。
 それが動くたびに、犬の鳴き声が、大きく小さく、グラデーションをおびる。
「うわっ」
 思わずといった風情で、学生服を着た少年が、その場に立ち尽くした。
 ぶるんと、蛇もどきの影が、少年に顔を向けた。
 どんよりと濁った両眼が、少年を捉える。
 震える少年に先までとは違い一気に距離を詰めたそれが、口だろう部位を上下に大きく割り裂いた。
 どろり。唾液が滴りおちるのを、少年は、ただ、見ているだけだった。
 逃げられなかったのだ。
 あまりにも、非現実的な光景に、自分の身に突然迫る、死という現象の具現化したものに対して、頭が思考を拒否したのに違いない。
 唾液が少年の制服を容易く溶かす。
 強い酸性なのだろう、唾液が落ちた部分の布地が溶けてゆく。
 ちりっとした熱が、肌を焼いた。
 喰われる。
 しかし、足は、アスファルトに張り付いたようになっている。
 生臭い息が、少年の鼻腔いっぱいになる。
 嘔吐きあげそうな、異臭に、少年の顔が、歪んだ。
「見つけましたよ。召喚獣2098」
 静かな、深みのある声が、その場の緊張した空気を震わせた。
「手間をかけさせずに、さっさと召喚者の元に戻りなさい」
 濁った目が、美声の主に向けられた。
 今にも少年を喰らおうと大きく開いていた口がそのままに、動きが止まる。
 その身体が、ぶるぶると細かく痙攣し始めた。
 ずるりと、それが大きくなったかの錯覚に、少年はその場に腰を落とした。
 気が遠くなりそうだった。
 このまま気絶して食べられたほうが、いっそのこと楽なのではないか。
 そんな気がするほどの不快感に捕らわれながら、呆けたようになって見ていた。
 こんなこと、現実じゃないんだ。
 大きく割り広げられた口が、今にも自分を飲み込みそうな近さで動きを止めている。
 滴る唾液が地面を溶かし、湯気となって異臭が鼻を突く。その少し手前に、銀のナイフが三本突き刺さっていた。
「なにをしているんです」
 降ってきた声に隣に立つ人影を見上げれば、

「召喚獣は、君など二口あれば、食べてしまいますよ」
と。
 食べられたくなければ、逃げなさい。
 そう言われても。
 足にも腰にも、力が入らないのだ。
「君、もしかして、腰が抜けたんですか」
 どこか呆れたような声のトーンに、首から上が熱を帯びた。
「しかたありませんねぇ」
 緊迫した状況を楽しんでいるかのような軽い口調だった。
「うわっ」
「終わるまでここにいてくださいね」
 月を斜交いに、彫の深い顔が影を宿す。
 その少し垂れた目が、ウィンクを投げかけたかと思えば、少年は、先ほどの場所からさほど離れてはいない家の屋根に移動していた。
 ごつごつとした瓦屋根の感触が、やはりこれが夢ではないのだと、少年に痛いほど教えていた。


 たっぷりとしたコートの裾が優美に翻える。
 月光を弾いて光る銀のナイフがその周囲に円を描いた。
 どこから取り出したのか細長い剣を、無造作な跳躍で召喚獣よりも高くに飛び上がり、頭頂部に突き立てる。
 それだけで、身震いするほどに不気味だったものは、のたうちながら、その姿を少しずつ小さくしてゆき、最後には、跡形もなく消えたのだ。
 後には、そんな闘いがあった気配すら残ってはいない道に、細身の男が、すらりと立ち尽くしている。
 ただ異質なものは、その手に握られた細長い剣ばかり。それを男が一振りするや、剣すらもどこかに消えうせた。
 少年は、ただ、魅せられたように、その光景を一部始終見ていたのだ。
 男は、少年を屋根から下ろすと、
「内緒ですよ」
と、片方の口角をもたげて笑うと、どこかへ去っていった。
 礼を言うのを忘れたと、少年が気づいたのは、ずいぶんと後になってからのこと。
 不気味な姿をした召喚獣に、再び襲われた時だった。
「また君ですか」
と、おかしげに小さく笑った男が、その獣を消してのけた後のことだった。



おわり



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