ぼんやりと天井を見上げた。
「?」
白く無機質な天井に、違和感を覚えた。
身じろごうとして、湊は呻く。
全身がばらばらになるような痛みが、頭まで突き抜けたのだ。
「なんだ、これ」
おそろしくしわがれた声だった。
そっと首だけを動かし、視線をめぐらせる。
腕から伸びたチューブが、ビニールの袋に繋がっている。そのほかにもよくわからないケーブルが自分の体からなにかの機械に繋がっていた。
「びょういん?」
消毒薬のに匂いが一気に意識に流れ込んでくる。
黒い画面の中、点滅を繰り返す光が忙しなく横一線に流れてゆく。
「なんで?」
「なにがあったんだ?」
靄るような頭の中、迫ってくる車の影に、
「うわっ」
悲鳴を上げていた。
途端、鼓動が激しく乱打しはじめ、全身を冷や汗がしとどに濡らした。
ああそうだった。
ドライバーには悪いことをしてしまった。
伸ばされた腕から逃げようとして車に轢かれたのだと思い至る。
火をつけた部屋から追い出されて、誰もいないようなあの家を抜け出した。
裏口からなら敷地を抜け出すのにそれほどの距離はなかったのだ。
しかし。
抜け出して、そうして、途方にくれた。
パジャマに裸足。髪はばさばさのままだ。
こんな格好でどこに行けばいいのだろう。
アパートがどうなってるか、わからない。それに、そこは既に知られている。そんなところに逃げてもどうせ、以前と同じことになるに違いない。行き着ける自信もなかった。
パスポートも取り上げられている。
コインの一枚も持ってはいない。
まごついている暇などないというのに、考えながら歩けばいいものを、自分の格好が気になってしまった。
馬鹿だと思う。
多分、頭がおかしかったんだ。
今も。
ずっと。
一台の黒い車が、速度を落とした。
その窓から彼を見ている黒い瞳に気づいて、湊は全身の血液が足元へと下がってゆくのを感じていた。
全身が震えた。
あの男。
あの男だ。
もう戻ってきたのか。
逃げないと。
視線が外せない。
あの男の目が、間違いなく自分を見ているというのに、外すことができない。
せっかくここまで逃げてこられたというのに。
湊のくちもとが、イヤな痙攣をきざんだ。
悲鳴をあげそうになる。
少し進んで黒い車が止まった。
後部座席のドアが開いた。
綺麗に磨かれた革靴が道につく。
その時になってやっと、湊は動きを取り戻したのだ。
男と反対の方向へと走り出す。
思うとおりに足が動かない。
自分のからだなのに自由にならない。その苛立たしさに涙がこみあげた。
悔しかったのだ。
相手は自分のすべてを絡め取ってそうして自由にするというのに、自分はその男から逃げることすら自由にできない。
自分の意思さえも奪われたかのようで、屈辱でたまらなかった。
「湊っ」
鋭い叫びが湊の耳を打つ。
手が伸びてきた。
避けたいと、その手に捕まりたくないと、ただそれだけの思いで湊は車道に飛び出したのだ。
「危ないっ」
男の声にかぶさって、鋭いブレーキの音が響いたと思った。
そうして、全身に痛みを感じた。
刹那にこみあげてきた感情は、ここ暫く感じたことすらなかった満足だった。
逃げることができる。
ああ、これで、あいつから逃げることができるんだ。
湊のくちびるが、満足そうな笑みをかたちづくった。
湊の両目から、痛みのためではない涙がながれた。
結局、自分はまたあの男から逃げそびれたのだ。
逃げられない。
囲いこまれて身じろぐことすらできないのか。
少しの自由もなく。
ただ、あの男が自分を抱きに来るのを待つだけの日々に、戻らなければならないのだ。
嫌だ。
嫌でたまらない。
あの男の舌が指が手がからだが、自分のからだを好きに操るのだ。
操られた自分は、まるであいつの人形のようで。
ひととしての尊厳も、独立した個人としての意思すらもないものとして扱われる。
悔しい。
あの男が怖くてならない。
不甲斐ない自分に嫌気がさす。
情けない。
辛い。
―――死にたい。
死にたかった。
どうして助かったんだろう。
パジャマの袖で涙を拭い去る。
ドアが静かに開いて、看護師が入ってきたのはそのときだった。
すぐに医師が呼ばれた。
「脚の骨折で済んだのが不幸中の幸いだよ」
「二日ばかり意識が戻らなかったが、脳波にも異常はなかった」
「骨以外にも全身を軽く捻挫している。しばらくは全身の関節が炎症で痛むだろうから、痛み止めと炎症止めを処方しておこう。このチューブは抜かないように」
コードは外されたものの、逆にチューブの数が増える。チューブの先の細い針が腕に突き刺さった。
診察をされる苦痛な時間がどれくらいつづいたのだろう。
やっと彼らが部屋から出て行ったことで、湊の全身から力が抜けた。
全身の疼く痛みが灼熱を発する。
目覚めたことが最悪だったとしか考えられない。
からだの向きを入れ替えて、湊は自分に絡んでいる幾つものチューブを見るともなく眺めていた。
いつの間にか眠ったのだろう。
蜘蛛のようだった。
むき出しのからだの上を、大きな手が撫でるようにして這う。
手が這った後から、見た目細い糸が意外な強靭さで、全身を縛めてゆく。
手首を縛め、からだを開かせるようにして固定してゆくのだ。
手と糸がたゆむことなく這いつづける。
やがて全身が糸で真っ白になった。
食べられてしまうのだ。
そう恐怖で震えた瞬間、湊は眠りから覚めた。
絡みつく糸の不快さで目覚め、夢のつづきのようなチューブに湊は眉をひそめた。
咄嗟に引き抜こうとして、
「やめないか」
止められる。
その声に、湊の全身が動きを止めた。
動きとは逆に、たちまち血圧が上がる。
いつの間に。
顔を上げる勇気はなかった。
声の主が誰かなど、確かめるまでもない。
もしかして―――――
全身が熱くなる。
先ほどの夢は、まさか。
飛び起きて、全身に走った痛みに湊は呻いた。
パジャマの前は開いていない。
ホッと息をつきかけて、黒い瞳に気づいた。
ザカリアスはベッドサイドの椅子に悠然と腰を下ろしている。
それを見て、不意にここが個室だということに思い至った。
他には誰もいない。
ザカリアスと二人だけという状況が、湊を怯えさせる。
ザカリアスが膝の上の手を組み替えただけで、湊の全身が大きく震える。
自分がなにをしたのかが、雪崩のように襲い掛かってきた。
部屋に火をつけた。そういえば、あれは、どうなったのだろう。
「まったく」
ザカリアスが脚を組み替える。
「おまえがあんなことをしでかすとは、思いもしなかった」
大胆なところもあるのか。
「ひっ」
伸びてきた手が湊の顎を捕らえた。
顔を覗き込んでくる。
「部屋から出ることができて満足か」
ん?
「それとも、燃えたのがベッドだけでは、満足できないか」
強張った湊のくちびるを味わうかのように、ザカリアスがくちづけてくる。
不意を襲われて湊がもがく。
ぬめった舌が口腔を蹂躙する感触に、全身が鳥肌立った。
これを気持ちいいだなんて、到底思えない。
こんなことが好きなヤツは、みんなどこかがおかしいんだ。
そうに違いない。
おかしいのは、みんななんだ。
コイツなんだ。
コイツが一番おかしいんだ。
だって、そうだろう?
どう考えたって、オレは被害者でしかないんだから。
オレは別に、こいつに何かをしたってわけじゃない。
何もしていないじゃないか。
なのに。
つづく
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