in the soup.   17




 湊の薄くなったからだを、ザカリアスは、抱き抱えた。


 クリスといるとばかり思っていた湊の姿が見えなくなったことに、ザカリアスが気づいたのは、湊が庭に出てずいぶんと時間が経った後のことだった。
 逃げたか。
 という考えをすぐに打ち消す。
 あの湊が逃げるとは思えなかったのだ。
 ふむ。
 あれが役に立つか。
 懐から取り出したのは、携帯電話だった。
 湊につけたピアスから発せられる電波を、携帯電話が捉えている。
 液晶画面上で点滅している光が、湊なのだ。
 ザカリアスは背後に控える男たちを一瞥すると、画面上の光が点滅する方へと歩き出したのだ。

 薄暗いアクアリウムの照明に、湊の表情がアクリル板に反射して見えている。それが、ザカリアスには、湊が本来の湊に戻っているのだと、感じられた。
 そうして、目の前で繰り広げられている光景に、ザカリアスの全身が固くこわばりつく。
 嫌悪もなくエンリケのくちびるを髪に受け入れている事実を、目の当たりにさせられているのだ。
 いつもは噛み締めるように食いしばっている、湊のいくぶんか下がり気味の口角が、ほころんでいるように見受けられた。
 それは錯覚であったのかもしれないが、そう見えたことで充分だった。
 自分が同じことをしても、湊はああはならない。
 ただ髪に触れるだけであれ、全身を固くこわばらせるに違いない。
 確信に他ならない。
 湊は。
 エンリケのことが。
 好きなのか。
 エンリケが、湊のことを想っていることは、わかっていた。
 アクリル板に映るエンリケの表情の切なさを見れば、疑いようはない。
 想うのは勝手だ。
 己の身の程をわきまえているかぎりは。
 しかし、湊もだとは。
 それだけは許せなかった。
 自分を見ることすらない湊が、他人を見るというだけでも業腹なのに、その相手に想いを寄せるなどと、どうして許すことができるだろう。
 できるはずもない。
 湊が見るべきなのは、他の誰でもない、自分だ。
 そう。
 自分だけをあの褐色の瞳に映さなければならない。
 彼の瞳が映すのは、自分だけでいいのだ。
 あんな穏やかな安心し切った表情などは、端から望まない。
 どうせ、見せることはないのだ。
 自分にこんな思いをさせる湊に、腹が立った。
 そうだろう?
 ジリと、腹の深いところが、灼けつくかのように痛んだ。
   不意の痛みに、ザカリアスは、足を踏み出した。
 やさしくなどできようはずもない。
 衝動のままに、ザカリアスは湊の襟首を掴んだのだ。

「なんてことをっ」
 エンリケの叫びが、耳を射る。
 部下ふたりに取り押さえられて、エンリケは、なおも、湊の身を案じている。
 湊はといえば、気を失っている。そんな少年を抱きかかえ、ザカリアスは、エンリケを見返した。
 黒いまなざしの向かう先は、他ならぬ湊だった。
 恋する男のまなざしが、湊に据えられている。
 自分のことなど顧みず。
「私のものに手を出すなど、どういう結末がお前を待っているか、わかっているのだろうな」
 いつもよりも声が低くなる。
 ぐつぐつと滾るような怒りだった。
 それが嫉妬に他ならないと、ザカリアス自身、痛いほどに感じていた。
「ええ」
 命乞いをするでなく、ただ、そうとだけ答えたエンリケに、ザカリアスの目つきが鋭さを増す。
 無様ささえ見せようとはしないエンリケを、ふてぶてしいと感じた。
 そのふてぶてしさが、湊の心を得ているからに他ならないと思えたのだ。
 ぐらぐらと、足下が揺れるかのような、激しい怒りだった。
 たとえ誰であろうと、この怒りにまかせて、殺してしまいたい。
 それほどまでに、激しい感情だった。
 利き手が、銃を求めてさまよう。
 我に返ったときには,エンリケの頭に銃口を押しあてていた。
 力を入れると、人間の皮膚とその下の骨の感触が銃口越しに手に伝わってくる。
 このまま銃爪を引けば,この男は他愛無く死ぬ。
 これまで,この手を直に汚したことはなかった。が、間接的にであれば、それこそ数限りなく。
 この手を汚す最初の血が,エンリケのものだとしても、悪くはない。
 悪くないだろう。
「言い残すことは」
 自分に向けられている黒いまなざしが、覚悟を決めたように収斂した。
「湊さんを。湊さんに、やさしくしてあげてください」
 ザカリアスの肩が、震える。
「最後の際までとは、見上げた根性だ」
 銃爪を引き絞ろうと力を込める。
 その時、耳の傍で小さく湊がうめき声を上げたのを、ザカリアスは聞いた。
 腕の中で,身じろぐ。
 気がついたのか。
 湊に気を取られて、銃爪にかけていた指から力が抜ける。
 再び,湊の意識が闇に落ちたのを見届けて,三度、ザカリアスの指に力が入った。
「父さん、よしたほうがいい」
 低い,しかしよく通る声が,緊張を破った。
「邪魔をするな」
「ダメだ。エンリケを殺して後悔するのは,父さんだ」
「後悔? 何の話だ,クリス」
 振り返ったザカリアスの前に、クリスがいる。いつものどこか人を食ったような表情ではなく、真面目な顔をして,立っていた。
「エンリケは、父さんと、マリアの息子だ」
「なに……を」
 バカなことを………と続けるはずだったことばが尻窄みになる。
 あまりにも真剣な表情のクリスに、冗談とは思えなかったのだ。
 それに。
「なぜ知っている…………」
 エンリケの独り後散るような声が,ザカリアスの耳に届いていた。



 私はあなたの息子だ……と。
 仮にエンリケ自身が言ったのであれば,ザカリアスは信じはしなかっただろう。
 信じ切ってるとは言わない。それでも,あのときのエンリケの様子を見れば,疑惑は芽生える。
 だからこそ、DNA鑑定を依頼した。
 結果が出るまでは,エンリケの処遇を決めることは延期だ。
 マリアと自分の子。
 そうであるのなら、あの惨劇の後、どこかでマリアは生き延びていたことになる。
 どれだけ探したと思っている。
 思いつく限り、あの国中を、帰ってからも、国中を、探させた。
 何年もの間,マリアの死を信じられずに、探しつづけた。
 結果,何一つ手がかりもなく、逆に、クレアの罪の証が見つかった。
 クレアの腹に自分のこどもがいなければ、自分はクレアを殺していただろう。それが出来なかったあのとき、自分の中で,マリアは死んだ。そうして,自分の中のやわらかく温かい部分も,死んでしまったのだ。
 そう。
 死んでしまったのだ。
 長い、闇の底を這いずるような日々。
 自分を死とも等しい状況からよみがえらせたのは,他ならない、湊だ。
 妻を名乗りつづける厚顔無恥な女の無神経なひとことが,狂わせた。
 すべてを。
 愛さないのではない。
 私の愛した存在を、お前が奪い去ったのだ。
 罪人であるお前がのうのうと享楽を貪っているというのに、何の罪もなかったマリアは冷たい死の床に、その死の場所すらもわからぬまま眠っているのだ。
 怒りは,ザカリアスの心を軋ませた。
 軋んだ心の隙に、湊がするりと入り込んだのだ。
 嫌がる湊を押し伏せて,快楽を貪った。
 湊とのセックスは,まるで薬物のようだ。
 抜け出せない。
 抜け出す気もなかった。
 湊を苛んでいる間は,すべてを忘れることが出来る。
 まるで心の弱い若者ででもあるかのように、肉欲に溺れた。
 そうして、いつしか想いは変質した。
 愛しいと思う。
 マリアのように。
 いや、それ以上に、今は湊を愛している。
 満たされることなどない愛だとしても。
 自分から湊を奪おうとするものは,たとえ、実の息子であれ,許しはしない。
 いや、実の息子であればこそ,一層許せない。
「あぁっ」
 耳を打つのは,湊の悲鳴だ。
「おまえは私のものだ」
 腕を振るう。
 細い乗馬用の鞭が空気を震わせ,湊の背中を鋭く切り裂いた。
 頼りなげな薄いからだが,大きくのけぞり、力なくうなだれる。
「他を見るな」
 天井から垂らしたロープが湊の手首を縛めている。
 あの後すぐに、ホテルを引き上げた。
 ヴェルジニの屋敷のいつもの部屋で,ザカリアスは、眠りから覚めきらず朦朧としている湊を縛めた。
 どれだけの間、こうして鞭を鳴らしているだろう。
 最初は,こんなにしつこく打ちつづけるつもりなどなかったのだ。
 許しを請うくちびるが、エンリケに救いを求めた瞬間、ザカリアスから箍が外れた。
 無意識だろうからこそ、許せなかった。
 湊のからだには、以前につけた鞭跡の上に、新たな鞭の傷が幾条も上書きされている。流れる血が、ミミズ腫れが,湊を赤く染めている。
「この目を、他の人間に向けるな」
 湊の顔を手で挟み込む。
 痛みに流れる涙が赤く染めた双の瞳が、ザカリアスを、捉える。
 おぼつかなげなまなざしに、愛しさが募る。しかし、愛しさは同時に、嫉妬をはらんでいた。
「どうして」
 掠れた声が,ザカリアスの鼓膜を震わせる。
「お前は私のものだろう。エンリケになど、やらない」
 湊の瞳が,刹那,大きく見開かれた。
 首を左右に振る。
「ちがう」
「何が違う」
「エンリケはあんたとはちがう」
 新たな涙が,湊の頬を濡らし落ちる。
「オレと、セックスなんかしない」
 肩を,胸を、大きく喘がせながら,湊が言う。
「何を言うかと思えば,馬鹿が」
 とんだ勘違いに、笑いがこみ上げる。
「あれも若い男だ。好いた相手を抱かないほど枯れてはおらん」
「ちがう」
「違わない。あれも,お前を抱きたいと、そう思っている」
 こうやって、自分の所有物としての刻印を刻みたいと,そう思っている。
 首筋に歯を立て,肌を吸う。
「ひっ」
 湊の喉が,鳴った。
「それが、オスの本能だろう」
 違うと、嫌だと、混乱したようにわめく湊を、ザカリアスは、抱きしめる。
 シャツに、湊の血が染みてくる。
 弱々しくもがく湊を、不意に突き飛ばすようにして、解放した。
 ぎしりとロープが、湊の手首に深く食い込む。
「もう少しオスの本能を教えこむ必要があるのか」
 その声に、湊が弱々しく首を左右に振る。
「もう、いやだ」
 ささやきほどの小さな声が,ザカリアスの耳に届いた。
「駄目だ」
 滾りたつ激情を、今更いなすことなど出来はしない。
 髪を掴み、顔を上げさせる。
「物覚えの悪い、このからだにも、この頭にも、二度と忘れないように教え込んでやる」
 食いしばったくちびるに、ザカリアスは、噛み付くようなくちづけを落とした。



つづく




up 16:19 2010/02/14
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