in the soup.   19




 エンリケのDNA鑑定の結果は、明日には出るだろう。
 意識を失った湊の髪の毛を撫でながら、ザカリアスはふと思い出した。
 マリアの面影を思い描き、エンリケに似たところはないかと探る。脳裏によみがえるマリアは、あの、有名な彫刻を彷彿とさせた、表情をたたえている。悲哀と慈愛を心に宿した物悲しくも美しい女の顔は、黒髪に黒瞳の怜悧なエンリケと重なるものではない。
 それでも。
 エンリケが自分の子だと確証を得たとして、自分はどうするだろう。
 ザカリアスは考えた。
 愛しいと、父親の情はわいてこない。
 こみ上げてくるのは、ただ、嫉妬ばかりだった。
 憎いと、そればかりだ。
 ザカリアスの思考は、小さなうめき声に、ふいに散らされた。
 ほの暗いベッドの中で、くちびるを噛み締めて、湊は目をつむっている。
 青ざめた顔に乾いた涙をこびりつかせて、眉間に寄せられた皺が、その身を苛む苦痛のほどを知らしめているかのようだった。
 ザカリアスの口角が、吊り上がる。
 情交と暴虐の痕も生々しい、少年のからだを見下ろす。
 どれくらいの間、責め苛んでいただろうか。窓から見える、空は、既に銅色を過ぎて、鉛の色に暮れている。
 責め殺す気など微塵もありはしなかったとは言い切れない自分を、ザカリアスは知っていた。
 首筋に刻まれていた他人の情動の証に、どうしようもないほどの怒りが沸き上がった。
 エンリケなのかと。
 エンリケの肩に頭を預けて眠っていた湊を思い出した。
 エンリケにならば、安心しきった顔を見せるのか。気を許し、からだを預けることさえできるのか。
 自分には見せもしない。預けもしないというのに。
 そんな少年など、このまま死んでしまえばいい。
 からだの奥深くで爆ぜ割れた憤怒に、抗うすべなどありはしなかった。
 だから、思いやりの一欠けもない仕打ちを繰り出した。
 悲鳴すらもが心地好く感じられた。
 心をよこす気がないのなら、涙も血も、悲鳴も、痛みににじむ汗さえも、すべてを自分に捧げてしまえ。
 息絶えるまで、奪い尽くしてやる。
 心のままに振る舞って、しかし、少しも満たされない自分が、ここにいる。
 この馴染みすぎた現実に、からだの芯が冷えてゆく。
 自分の思いを少しも認めようとしない者など、いっそのこと死んでしまえばいいのだ。
 自分は、死んだ湊を剥製にするだろうか。
 それとも、蝋や樹脂などの中に閉じ込めるか。
 いっそ骨だけにして飾っておくか。
「まるで狂人のようだな」
 喉が震える。
 まるで陳腐きわまりないB級ホラーの登場人物のような自分に、嗤いがこみ上げてくる。
「それでもおまえを」
 愛しているのに変わりはないのだ。
 そうつづけようとして、首を横に振る。
 今更だ。
 どう告げようと、湊が自分の思いを認めることなどありはしないのだ。
 報われない思いをことばにするなど、虚しいだけだ。
 それならば。
「今、現実に、お前がここにいる。お前を抱いているのが私だけだと、それが真実であるならば、それだけでいい」
 お前の心など、いまさらだ。
「今更なのだ」
 心に刻み付けるかのように、ザカリアスはゆっくりとつぶやいた。
 その時。
 ノックの音がして、執事が部屋に入ってきた。
 時計を確認する。
 執事が何かをいう前に、
「わかっている。医師を呼んでこれの手当をさせておけ。後で行く。それと、クリスを書斎のほうに待たせておけ」
 これから会議に出なければならないのだ。
   本当ならホテルに滞在中に計画されていた会議のため、昨日の今日では今更会場の変更もかなわない。
 ガウンをまとうと、ザカリアスは部屋を後にした。
 
 湊の治療を見届けて、ザカリアスは書斎に入った。
「親父さま、なんです」
 ソファに座ったままのクリスに、ザカリアスは、
「もう家に戻るといいだろう」
 とだけ言った。
「決定ですか」
「そうだ」
「わかりました。今から準備をして今日中に帰ります」
「私が出かけるまでに、家を出ろ」
「湊にお別れを言ってきても?」
「好きにするといい。眠っているとは思うがな」
「じゃあ、親父さまも気をつけて」
 書斎を出てゆくクリスの背中を見送って、ザカリアスは肩を竦めた。



 片膝を引き寄せて、パイプネッドに座ったエンリケは、膝の上に顎を乗せた。腕で片膝を抱くようにして、エンリケは物思いにふけった。
 オレンジの灯りが、薄ぼんやりと狭い室内を照らしている。
 湊と引き離されて、屋敷に戻るやここに押し込められたのだ。
 地下のワインセラーの奥の、監禁部屋である。もっとも、エンリケの知る限りこの部屋が使われたことはない。だから、知る者は、ザカリアスと執事くらいかもしれない。エンリケ自身、知らなかった部屋である。もちろん、外からしか鍵の操作はできないようになっている。
「まさか知られていたとはな」
 首を振った。
 そのおかげで今のところ命は助かっているとはいえ、言うつもりなどないことだった。
 乱れた前髪を掻き上げて、エンリケは、深い溜め息をついた。
 湊は無事だろうか。
 殺されることはないだろうと思えても、今まさにザカリアスにされているかもしれない仕打ちを考えるだけで、臓腑が煮えたぎる心地になった。
 一度聞かされた、湊の悲鳴が耳によみがえる。
「湊さんっ」
 エンリケは爪が掌を傷つけるほどに、手をきつく握りしめた。
 思い出すのは、肩にかかった湊の髪の感触と頭の重み、それに立ちのぼったほのかな体臭だった。
 あれほど彼が肉欲を忌避していなければ、おそらくは抱きしめ、そうしてくちびるを奪っていただろう。それを思えば、ザカリアスの怒りを否むことなどできはしない。
 まさしく、自分は、湊に対して欲情していたのだから。
 愛しているのだから。
 欲しいのだ。
 彼が、湊が、欲しい。
 それだけでいいというのに、叶うことはないだろう。
 もしも、ザカリアスから彼を奪うことができたとしても、彼を抱くことができるだろうか。
 自分は彼を心から欲している。それでも、彼は自分を欲してはいない。彼が望んでいるのは、誰にも抱かれたくないという、ただそれだけだ。そんな彼を、抱けるのだろうか。
 エンリケの口角が皮肉げに、切なげに、持ち上がった。
 その時だった。
 鍵を外から操る音が聞こえてきたと思うと、ドアが軋む音をたてて開いた。
「湊さんっ」
 ドアを開けたのは、他ならない湊だった。
「こんな奥だったんだ。かなり探したよ。エンリケは思ってたより元気そうだね。よかった」
 へらりと笑う少年は、血の気のない顔がオレンジの灯りに照らされて、暗く淀んで見えた。元気そうな声とは反対に、熱に浮かされているような、病んだような雰囲気がまつわりついて見える。
「湊さん、大丈夫ですか?」
 自分が想う湊ではないことは判ったが、からだは湊に他ならない。
「むさくるしいですが、こちらで一休みなさったらいかがですか」
 状況も忘れてそう言ったエンリケに、
「あんた、けっこう天然はいってるって言われない?」
 湊が肩を竦めてみせた。
「これは失礼」
「とりあえず、逃がしにきたんだけど」
「それは、ありがとうございます」
「逃げる気あるよね」
「はい」
「なら、出よう」
 差し出された手を握って、エンリケはその熱さに驚いた。
「大丈夫ですか?」
 そう言わずにはいられなかった。
「ボクは平気だよ。けど、後は、あんたに任せるから」
 さあ、逃げよう。
 つばを飲み込んで、エンリケは、ドアから一歩を踏み出したのだ。



つづく




up up 17:09 10/03/21
HOME  MENU
FC2 仕事 無料レンタルサーバー ブログ blog