in the soup.   21




 リアシートにからだを預ける。
 頭にあるのは、いなくなったという湊のことだった。
 知った時は、血が引く思いだった。

 会議の最中は、外との連絡は絶っている。ホテル側の人間にも、その旨伝えてある。相手が誰であれ、用件がどれほど緊急のものであれ、知らせなくていいと。当然、携帯の電源も切っている。それは、当然のことだった。
 会議が終わった頃には、疾うに日付は変わっていた。
 雑用に招集されたキャリアの浅い構成員が、テーブルを片付けてゆく。会議場のドアを開け放ってゆくのは残りの雑用係である。ドアが開かれた途端入ってきたのは、きらびやかに着飾ったグラマラスな女性たちだった。
 幹部たちの口元がゆるむのを目の端でとらえ、ザカリアスは携帯を取り出した。元々あまり好んで持っているわけではない携帯だった。
 電源を入れた。
 途端、液晶画面に、着信履歴がずらりと表示された。
 すべて、執事の携帯からだった。
 何があった。
 短縮ナンバーを押し、ザカリアスは携帯を耳に当てた。
「私だ」
『旦那さま大変です』
 いつも淡々と平常心の執事の取り乱した声がザカリアスの耳を打つ。
『湊さんの姿が……』
 すべてを聞く必要などなかった。
 スッと血が下がってゆく。
 全身が冷たくなった。
『旦那さま』
 執事の声に、我に返った。
「すぐに帰る。屋敷にいる部下を全員集めておけ」
 切ろうとして、ふとイヤな予感が胸をよぎった。
「待て。地下室のエンリケのようすを見てこい」
 まさかとは思う。しかし、あの湊が独りで逃げ出せるはずがない。精も根も尽き果てたようすの湊を思い出す。ザカリアスに翻弄されるだけ翻弄され尽くして、意識を失ったのだ。医師の話では、しばらくは動けないということだった。そんなさまの湊が、逃げようとなど考えるだろうか。
『おられません』
「わかった」

 今は、腹の底から怒りが込み上げてくる。
 どうしてくれようか。
 どうやって地下を抜け出したかなどはどうでも良い。
 エンリケは、屋敷の警備の死角をよく知っているだろうから、地下室から出さえすれば、抜け出すことは容易だろう。
 その後は。
 どこへ逃げるにしても、必要なものは、金だろう。
 カードは足がつく。
 逃亡資金は、多いほどいい。
 国外に逃れるつもりならば、偽造パスポートを作るだろう。
 出来上がるのを待つ間、潜伏する場所が必要になる。
 もしも仮に、エンリケが湊に抱いているのが同情だけなのだとすれば、真に湊のことを思っているのだとするならば、湊を大使館に連れてゆくだろう。
 湊自身思いついてもいないようだが、そうなれば、危ないのはザカリアスのほうなのだ。
 未成年略取。
 監禁罪。
 淫行罪。
 死体遺棄。
 このときとばかりに、官憲が自分を捕まえにくるだろう。
 マフィアのボスとしては、情けない罪状ばかりだが。
 エンリケは、どう動くだろうか。
 DNA鑑定結果は今日届くだろう。最早、結果はどうでもいい。
 血の繋がりがあろうとなかろうと、あの男は、あれでいて、十年近くマフィアの構成員をしているのに違いないのだ。
 間違いなく。
 自分の欲には忠実だろう。
 だとすれば、大使館という選択肢は選ぶまい。
 エンリケが湊を連れて逃げた理由はただひとつ。
 湊を自分のものにしたいためだろう。
 許さない。
 それだけは許さない。
 ザカリアスは静かに窓の外を睨みつけた。



 イングロリアのふと向けた視線の先で、ザカリアスが突っ立っている。
 青ざめた表情で、携帯を握りしめる手が微かに震えているように見えた。
 入ってきたグラマラスな商売女がしなだれかかってきたが、煩わしいと手を振って追い払う。
 会議用のテーブルを片付けた室内は、ソファがあちこちに散らばる程度だ。それらに女と腰を下ろして、酒を飲む幹部たちは、気に入った女を連れて部屋へと戻るつもりなのだろうが。
 イングロリアは、ザカリアスのようすに気をとられていた。
 さりげなくザカリアスの近くのソファに移動する。そこで、耳をそばだてた。
「すぐに帰る。屋敷にいる部下を全員集めておけ」
「待て。地下室のエンリケのようすを見てこい」
 聞き取れたのはそれだけだった。
 しかし、それだけが聞き取れれば充分だ。
 ザカリアスの屋敷で何かが起こったのだ。
 それには、エンリケが絡んでいるらしい。
 これはチャンスだ。
 通りかかった女の手を取って引き寄せ、イングロリアは少し戯れた後女を連れて会場を後にした。
 ホテルの部屋に戻ったイングロリアは、女を部屋にいれると、懐の財布を投出した。
「好きなだけ抜いて帰れ。ただし、もう会場には戻るな」
 女が財布から札を抜き出し愛想笑いをして部屋を出てゆく。
 取り上げた財布の中を確認して、
「遠慮もなく抜いたな」
 肩を竦めた。
 財布の中は、空だったのだ。
 イングロリアはチェックアウトの準備をした。
 


『あの男に救いを求めるというのなら、お前の目の前であの男を殺してやろう』
 いつか聞いたザカリアスの言葉が、逃げても逃げても追いかけてくる。
 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だっ!
「湊さん」
 目の前に、黒い影が迫っていた。
 避けようとして、全身に痛みが走った。
「まだ起きてはいけませんよ」
「エンリケ?」
「はい」
 よく見れば、珍しく前髪を下ろしたエンリケが、いつもとは違うラフな格好で湊を見下ろしていた。
 なんで?
「ここは?」
 剥き出しの木の壁に、幾何学模様の壁掛けがかかっている。
 家具は湊が寝ているベッドだけという簡素な部屋だった。
 開いた窓からは、網戸越しの風が入ってきていた。
「クリスさん所有の山の別荘です」
「クリスの?」
「覚えていないのですか?」
 何から何までクリスさんのお世話になってしまいました。我ながら不甲斐ないですね。
 湊はそんなエンリケを見て首を傾げた。
 最後に覚えているのは、クリスと喋っていたことだった。
 何があったんだ。
 なんで、クリスの別荘にエンリケとふたりだけで………。
「偽造パスポートができるまでの辛抱です」
 どこかボスの目の届かないところに行きましょう。
「え?」
 エンリケの掌が、湊の額に触れた。
「その頃にはあなたの体調も少しは楽になっているでしょうから」
 ひんやりとした掌の感触に、湊は目をつむった。
 からだが揺れる。
 目をつむっているのに目が回る。そんな錯覚に捕らえられた。
 ―――このタイミングを逃がしちゃあ馬鹿だよね。
 不意に、聞いたことのある声が聞こえてきた。
 この声は誰だった?
 疼く痛みに、揺らぐからだに、考えることが辛かった。
 ―――考えなくていいよ。
 ―――みんなボクがいいようにしておくからさ。
 ―――全部まかせて君は寝てるといいよ。
 ―――ボクは痛みを感じないからね。その分、考えて動いておいてあげるって。
 駄目だ。
 そう。ダメなんだ。
 ―――なんでよ。あんなに逃げたがってたじゃないか。
 ダメだ。
 ―――なんで。
 ダメだ。逃げたりしたら……。
 思い出すのは、いつだったろうか。あの男に言われたことだ。
 逃げたりしたら、親父が殺されるんだ。オレを助けてくれる誰かは殺されるんだっ。
 だから逃げないって、そう決意したんだ。
 ―――何度も逃げようと思ったくせに。
 でも、逃げなかった。
 ―――逃げられなかっただけさ。怖かっただけだろ。
 そうだよ。怖いさ。あの男にされることが怖い。親父が、誰かが、殺されるかもしれないことも怖い。だから、動けない。動かないんだ。
 ―――もう遅い。逃げちゃったよ。
 嫌だ。逃げるなんて、ダメなんだ。戻ろう。
 ―――大丈夫だって。
「だいじょうぶじゃない」
 悲鳴を上げて、湊は飛び起きた。
 瞬間、背中が灼けつくように痛んだが、かまってなどいられなかった。
「戻らないとっ」
 ベッドから降りようともがく湊を支えていたエンリケが、その一言に大きく震えた。
「エンリケ?」
 エンリケの支え手が、押しとどめる手へと、変わったのだ。
 影になったエンリケの表情はよく見えなかった。
「帰る」
「どこへです」
 湊はただ恐怖に急かされるままにもがきつづけていたため、エンリケの声が固くなったことにも気づけなかった。
「どこって……」
「まさか、ボスのところにですか」
「離してくれ………………」
 力を込めてくる手からようやくのことで抜け出せた。そう思った湊が息をついた時、
「ボスのところに戻りたいと、そう、言うつもりなのですかっ」
 今度は肩を押さえつけられ、ベッドに縫い止められた。そうなってはじめて、エンリケの雰囲気が変わったことに気がついた。
「なにっ」
「どうしてです。どうして」
 湊は首を振った。
 背中に粟が立っていた。
 この体勢は嫌だ。
 怖い。
 自然と震えがこみあげてきた。
「はなせっ」
 しかし、もがけばもがくだけ、エンリケの力はますます強くなってくる。
 鋭い眼光が、真上から見下ろしてくる。
 そのまなざしの強さが、ザカリアスを思い起こさせて、湊の全身の震えはおさまることすらなかった。それでも、
「何日っ。何日経ったん……だっ」
 怯んだ声で、訊かずにはいられなかった。
「湊さん…………」
「教えてっ」
 湊のあまりの必死のさまに、
「四日です」
 エンリケは折れずにいられなかった。
「四日も………………」
 湊は目の前が真っ暗になるような気がした。
「あなたは、屋敷を抜け出してからずっと眠っていましたよ」
 ああ。
 すすり泣くような声が、湊の口からこぼれ落ちる。
 涙が湊の頬を濡らした。
 それが、エンリケの感情を逆撫でしたことに、湊が気づくはずもない。
「その涙は誰のためのものなのですか」
 湊の額に落ちかかる前髪を、エンリケが掻きあげる。
 見下ろしてくる一対の黒い瞳が、ザカリアスに重なった。
 いつもザカリアスが自分を見る瞳が、そこにはあった。
 その目で見られるたびに、湊は全身を震わせずにはいられない。その目が自分に対する欲望を告げているのだと、さんざんに思い知らされてきたからだ。
 そんなことはないと、湊は首を左右に振った。
 涙が散る。
 エンリケが自分に欲を持ってるはずはない。
 あれは、ザカリアスのただの戯言に過ぎないのだ。
 だから、今自分を見ているエンリケの目は、ザカリアスのものと重なるはずがない。
 なのに、どんなに打ち消しても、震えは止まない。
 違う。
 絶対に。
「なぜ、そんなに震えているのですか」
 頬に、エンリケの掌がすべる。
「私を否定しないでください」
 否定なんかしていない。
 そう言おうと、湊が口を開こうとしたその時、
「こんなにもあなたを欲しいと思っている私を、拒絶しないでください」
 そう言うなり、湊の両頬を挟んだ。
「愛しているんです」
 湊の背中を、冷たいものが走り抜けた。
 それは、恐怖だったのか。それとも、絶望だったのか。
「い……や、だ」
 震えは止まない。
 それどころか一層激しくなった。
「愛しています」
 怯える湊の瞳を覗き込んでくるのは、欲を隠そうとはしない黒い瞳だ。
 愛しているとそう言っているものの、自分からすべてを奪い取ろうとするのだ。
 そんなまなざしだ。
 怖い。
 それしか知らないもののように、湊はただ、怖いと、震えつづける。
 嫌だと、首を振ろうとした。
 しかし。
 湊の顔を挟み込むエンリケの手の力は、拒絶を許さないとばかりに、強い力を込めていた。
 エンリケの額が湊の額にあてられた。
「いや……なんだ。ご、ごめん、なさい。おねがい。おねがいだから」
 しゃくりあげる湊に、額を離して、
「男ならわかってください」
 エンリケが言った。
 けれど。
 わからない。
 わかりたくない。
 怯える湊のくちびるに、エンリケのくちびるが触れた。
 激しく深く、湊のくちびるを蹂躙する。
 湊は固く目をつむって、エンリケの激情が過ぎ去るのを待った。



つづく




up 14:32 10/04/04
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