黒衣の花嫁



「?」
 首筋が、チクチクする。
 誰かの、強い視線を感じたような気がして、如月は、周囲を確認せずにはおれなかった。
 周りにはやっと見慣れた景色が、広がっているばかりだ。
 ここは、この地方きっての豪商グラーニュ家の中庭である。  ここ、どことも知れない異邦の地に如月が流れ着く前に、元の世界の高校の修学旅行で行った、外国の回遊式庭園を思い出させるつくりの、庭だった。
 見知らぬ人物も、いない。
 ただ、やっと見慣れたといいながら、どうしても、違和感はつきまとう。
 空を見上げれば、満天の星空である。
 紫紺といえばいいのか、紺青といえばいいのか。深く黒味がかった青の空に、銀粉が撒き散らされている。
 太陽のないこの空が、薄暮のようなこの明るさが、この世界の日中なのだ。
 時折、日中だろうと夜と呼ばれる月明りの空だろうと、オーロラが舞うことさえもある。
 それは、過ぎるほどに美しい眺めではあるのだが。
 太陽のある明るい世界で育った如月にとっては、異質な眺めでしかない。
 如月が、溜め息をついたときだった。
「ゆずる」
 名を呼ばれたと同時に、目の前で、手を叩かれた。
 その音に、びっくりして、如月が、目を、丸くする。
 その表情が、面白かったのか、手を叩いた本人が、子供らしい無遠慮さで、大きく笑った。
「あ……と、ごめん」
 頭ひとつ分低いところにある視線が、如月を、無遠慮に見上げている。
「どうかした?」
 八つ年下の少年が、今度は、真剣な表情で、如月を気遣う。
「う……いや、なんでも……」
 なんでもないことは、ない――のかもしれない。けれど、誰かの視線を感じるような気がするだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。それでも、誰のものなのかわからない視線は、気がつけば、毎日のように、如月を見ている。もちろん、視線の主を探しても、見当たらない。不安でないといえば、嘘になる。しかし、確認して見知らぬものがいないということは、誰かはわからないが、視線の主は、自分と同じように、ここに雇われている誰か―――に違いないのではないだろうか。ならば、そんなに、悪いものではないのかもしれない。
(勤務評定とかを、誰かが、つけているのかもしれないしなぁ……オレって、気にしすぎかも)
 如月は、そう、考えていた。
「じゃあ、ほら。訓練のつづき」
 八才にしては丈高い少年が、如月が取り落としたままだった模造刀を拾い、差し出した。
「まだ、やるってか?」
 受け取りながら、ついそう返すと、
「もちろん」
と、少年は、どうやら、誰かのまねをしているらしい、不敵な笑いを、口角に刻んで応えた。
 如月がこの世界に流れてきて、四ヶ月目になろうとする、秋も半ばである。
 ことばも何も、わからないまま腹をすかせて異邦の地を彷徨っていた如月を、豪商だというグラーニュ家の主人たちは、末子の遊び相手として受け入れてくれた。衣食住に困らない生活のありがたさを、身をもって、理解したからこそ、過ぎるやんちゃ者と家族の中で少々もてあまし気味にされていた少年の相手を、根気よくつとめていたのだ。如月が、子供の面倒などという、あちらの世界ですら未体験の煩わしい仕事をどうにかこうにか投げ出さずにやっていけていたのは、最初はおそらくは異邦人という存在の物珍しさからであったろうが、少年が、如月を気に入ったらしかったからでもある。毎日のように少年に振り回されて、如月は、まだたどたどしいものの、日常会話ていどなら、どうにか困らないくらいにはなっていた。
 如月はまだ会ったことのない、少年の真ん中の兄に、少年は、憧れているらしかった。
 自分も、兄みたいな騎士になるんだと、勇ましく木刀を振るうのは、微笑ましい。が、相手をするのは、剣道など、中学の体育で竹刀や胴衣防具に触れたていどの如月にとっては、かなり骨である。第一、その辺に落ちている木の枝を拾って、いい具合に削ってこしらえてあるだけの木刀は、当たれば、かなり痛い。如月は、打たれるのが厭さに、必死で逃げてみたり受けて流したりをしていた。おかげで、少しはましになったらしく、当たるのは、五回に二回ほどに、減ってはいた。
 そんなある日、如月は、少年に引っ張られるようにして、近所の山に登っていた。
 季節は、秋。
 こちらの世界でも、秋は、実りの季節らしい。
 背中に竹で編んだ篭を背負って、如月は、少年に手を引かれるように、山を登った。
 茶色く熟れてイガが爆ぜている栗を、器用にイガから取り出しては、如月の篭に、放り込む。
 マツタケに似たのやらマイタケに似たキノコや、キクラゲ、何かわからない果物や木の実らしきものを、さして苦もなく見つけては、ぽいぽいと、篭に向かって投げる。最初はつい受けようとして動いたために、落としたが、ちゃんと狙ってるからといわれて、如月は、自分から動くのをやめた。なるほど、少年は百発百中、一個として、篭から外しはしなかった。
(しかし、いろいろ違いには慣れたつもりだけどさぁ……これは、まだ、慣れないよな)
 つい、空を仰いでしまう。
 なぜなら、少年の姿は、どこにもないのだ。
 代わりに、如月の背負い篭に向かって、次々と秋の味覚を投げている、コグマが、一頭。
 よくわからないのだが、この世界では、貴族の血を引く一族にはこうして本性が獣だという存在が少なからずいるのだそうだ。獣とひとの姿を自由にとれる存在が、この世界には、珍しくもなく、いる。少年は、そういう存在だった。
 少年が、中の兄に憧れるのは、中の兄もまた、少年と同じ、クマの本性を持つ存在だからなのだ。如月は、ちょっと前に少年と交わした会話を思い出した。
『本性がクマだからって、別に、見境のない野生のクマと同じってことじゃないんだ。この地方の侯爵さまがクマの本性をお持ちなんだ。だから、ここらでこの姿になれるっていうのは、は、侯爵さまの血をひいてるってことなんだ。だから、中兄(ちゅうにぃ)は、商家の出なのに王さまに直接仕える近衛の隊長なんだ』
 実を言えば、近衛の隊長というのが、どれくらい偉いのか、如月にはよくわからなかったが、きらきらと、聞かんきそうな大きな双眸を輝かせる少年に、そう訊ねるのは、水をさすみたいで、
『凄いんだな』
と、感心して見せたのだった。
『だから、オレも、はいれる歳になったら、軍にはいるんだ』
『リュウなら、大丈夫だろ、きっと』
『その時は、譲も一緒に、軍に入るんだぞ』
『へ?』
 思わず、まぬけな反応をしたのは、当然といえば、当然だろう。
『オ、オレは、無理だって』
『怖いんだ?』
 突っ込まれて、
『べ、べつにそういうわけじゃ』
 思わず、そう返していた。
『じゃ、決まりな。オレが、譲のこと、鍛えてやるから』
『はいはい』
 自棄で受け流したことばを、後になって、如月は、後悔する羽目になったのだ。そう、リュウ少年は、木刀を如月の分も作り、毎日、訓練と称して、如月を相手に木刀を振り回したからである。
「譲っ」
 え? と、思ったときには、如月の頭の上から、クリの実が降りそそいでいた。
 ぼんやりしていて、リュウが投げる体勢をとったのを見逃した。おかげでリュウも目測を誤ってしまったのだろう。
「うわっ」
 如月が、その場に、しゃがみこむ。
「ばかっ! 譲はふつーにしてればいいんだよっ」
 ずけずけ言いながら、リュウが、近づいてくる。
 正確には、近づこうとして、足を止めた。
「?」
「ゆずる……動くなよ」
 ひそめた声だった。これまでに聞いたことも見たこともないくらい緊張しているリュウに、如月が、
「なに言って……」
「動くな」
 真剣な表情に、如月の背中に、粟が立つ。
 遅ればせながら、如月は、背後に、自分たち以外の存在を、感じたのだ。
 何かが、自分の後ろにいる。
 それも、ひとつやふたつではないような気がする。
 ハァハァという、複数の呼気を、如月は、感じた。
 何かがいる。
 確認したい。
 キリキリと、肌が、引きつるほどの痛みを、感じる。
 なにが………。
 ひどくゆっくりと、リュウが、しゃがんでゆく。
 手に余りそうな、太い木の枝に、リュウの手が、触れた。と、背後の息遣いが、ハァハァというものから、喉の奥で押し殺したようなものへと、変化した。そうして、リュウが素早く取り上げた木の枝を振りかぶったその時。
 如月は、なにが起きたのか、咄嗟にわからなかった。
 グンッと、服の裾を強い力で引っ張られたと思えば、如月は、空と、何か、黒い、獣を、見上げていた。
 一瞬の思考の空白は、刹那の後に狂ったように鳴り響きはじめた鼓動に、打ち消され、全身から、どっと冷や汗が、ながれた。
 殺される。
 思考が形になったのは、からだがそれを感じたのよりも、ずいぶんと後のことのように感じられた。
 もっとも、それらは、本当に後になって、如月がこの出来事を思い出したときに、そう、認識したことだった。
 この時の如月は、悲鳴をあげることすら忘れて、遠からず訪れるに違いない、獣の牙の感触に、身を竦めているばかりだったのだ。
「ゆずるっ」
 リュウの自分を呼ぶ声が、遠いもののように感じられた。
 事実、リュウは、如月から、遠ざかっていた。否。正確には、如月が、リュウから、遠ざかっていたのだ。リュウと如月との間には、灰色の毛並みの、大きな四足の獣が、数頭立ちふさがり、如月は、残る一頭に、引きずられていたのである。
 引きずられる痛みを、しかし、如月は、そうは感じていなかった。なぜなら、獣――それは、如月よりも大きなからだつきの、狼のような獣だった――の姿を認めて、如月を捕らえた感情が、一気に爆発したからである。
 狂ったようにもがきはじめた如月に、しかし、獣は、牙をたてることはなかった。
 ただ、如月を、引きずりつづけ、やがて、どれくらい経った頃なのか、残る四頭が追いついた時、獣は、如月を咥えていたその剣呑な大きく長い口を、開いて動きを止めた。
 地面で頭を打った衝撃に、視界が、(くら)む。
 逃げなければ。
 本能的に、起き上がろうともがくものの、からだのどこにも、力が入らなかった。
 焦れば焦るだけ、指の一本も動かせない。そうこうするうちに、如月は、自分を咥えていた獣が、人身へと一瞬にして変貌するさまを見た。
 丈の高い、痩せた男が、如月を見下ろして、にやりと嗤う。
 その、いやな感じのする笑いに、如月は、自分の心臓が、動きを止めた――そんな、感覚に襲われた。
 男は、無造作に、動くことすらままならないでいる如月を肩に担ぎ上げると、四頭の獣を一瞥して、背を向けた。そうして―――――信じられないくらいのスピードで、走り出したのである。
 いつしか、如月は、気を失っていたらしい。
 突然、全身を硬い床のような場所に打ちつけられたような衝撃に、息が詰まった。咳きこみながら、如月が意識を取り戻したのは、見知らぬ場所だった。
「手荒なまねをする」
 記憶にない声は、低く、太い。
「もうしわけありません」
 謝りながらも喉の奥で、噛み殺しそこねたような笑い声をもらした男が、如月をここまで担いできた獣であるらしいと、如月は、推測した。
 とにかく、起きなければ。
 状況を把握しなければ。
 不安と恐怖ばかりが、胸の底を、ノックする。
 今度こそ――と、必死になって、全身に力を込めた如月が、どうにか蹲るような体勢をとることができた時、
「ようこそ。我が花嫁」
 低く太い声が紡ぐ、まるで似つかわしくないことばが、意味を成さず如月の耳に届くと同時に、顎の下に手が差し入れられ、如月は無理矢理顔を上げさせられた。
 如月の、まだ成長途上にある少年らしい、細い首が、立ち襟の狭い襟刳りから、あらわになる。
 とらされた無理な体勢よりも、闇のように深い一対のまなざしにさらされたことで、如月は、今度こそ、自分の心臓が止まったと、そう、思った。ただ、それだけを、願った。が、如月の心臓が止まることはなかった。
 塑像ででもあるかのように、その場に固まってしまった如月の首を、男はなおもあらわにさせ、如月の首の骨が、ぎりぎりと音をたてて(たわ)んでゆく。
「そなたが我が花嫁たる証を」
 男のことばは、いまだ、如月にとって意味のあるものとは響かない。ただ、なにかが頭の上を通っていった。そんな、一方的な、ただの音に過ぎなかった。
 それでも、それは、如月にとってのことだけだった。
 すべては、意味のあるものとして、男は、確たる意志を持って、行動している。
 如月の首の痛みが、限界に達する。
(……………)
 声にならない叫びが、如月自身の脳裏にだけ、悲痛に響く。
 その時、如月は、自分の首に、ツクリ――とした、痛みを感じた。
 首の痛みよりも、かすかな、問題になどならないような、そんな痛みであったのに、しかし、それは、如月の意識を現実に縫いとめ、現実を認識させることになった。
 血が小波立ち、逆流してゆく。男のくちびるが、先の尖った歯が当てられる感触に、恐怖する。
 血流が逆巻く。
 不快な熱が、そこだけに、溜まってゆく。
 男が――自分の血を啜っている。
 ぞっと、如月の全身が、そそけだつ。
 耳鳴りが、如月に、襲い掛かる。
「い、いやだっ」
 天敵を退けようとするウサギの後足の一蹴にも似た、瞬発力で、如月は、男を押し退けようとした。
 しかし、既に、如月の気力も体力も、疾うに限界を超えていた。
 男から、逃れることもできぬまま、如月は、闇の底に、呑み込まれていったのである。


 あれから、どれくらいの時が流れたのか。
 数ヶ月なのか、数年、もしくは、数十年、もしかして、それ以上なのかもしれない。
 けれど、それらを指折り数えてしまえば、最後、考えないようにしている事実に、目を向けざるを得なくなるような気がしてならない。
 逃避といわれようと、なんと謗られようと、考えたくなかった。向き合いたくなど、なかった。
 気力も体力も、あの夜、すべて、失ってしまっていた。
 花嫁――と、あの男は、自分を、呼んだ。
 そうして、その後、男は、女にするようにして、自分を、抱いた。
 あの恐怖、あの苦痛、怒り、そうして、絶望。
 虚無が、如月を浸してゆく。
 しかし、すべてを奪われつくした抜け殻だと、自分をそう思うことすら、男は、許してはくれなかった。
 花嫁と、そう、呼びながら、男は、如月のことを、憎んでいるに違いない。
 如月は、そう、思う。
 でなければ、あんなこと。
 如月は、窓から、満ちてゆく月をただ見上げながら、窓枠を、きつく握りしめた。
 窓の飾りめいた、幾何学模様の格子が金属製の頑丈なものに換えられて、ずいぶん経つ。
 それは、如月に、飼われる家畜の恐怖を、考えさせずにはいられなかった。
 毎夜、あの男の足音が近づいてくるたび、如月は、どこかに逃げ場はないかと、惑わずにはいられない。それは、自分で自分のさまに、震えをもよおすほどの、無様さだ。
「いいかげん、慣れろ…………」
 それが、如月の、口癖となって、久しい。慣れてしまえば、いい。そうすれば、こんな怖さを感じずに済む。きっと、楽しむことだとて、できるにちがいない。そう。からだを合わせることは、気持ちが好いことのはずなのに。しかし、だ。夜毎に、自分を貪りに来るものに、慣れるものなど、いるのだろうか。貪り喰らわれて、気持ちが好いと、感じられるのだろうか。
「月が、満ちる……………」
 満ちゆく月は、あの男の情欲を掻き立てる。そうして、また、逆に、欠けゆく月は、あの男の飢えと渇きとを、駆り立てるのだ。―――どちらに転んでも、如月に、救いはないとしか、思われなかった。
   明日には、真円に満ちてしまうだろう、黄色味がかった月が、その半ばまで雲間に顔を隠した。
 何気なく澄ました耳が、風の音を、そうして、近づいてくる足音を、捉える。
 足音が、近づいてくる。
 間違いなく、それは、あの男の、ものだ。
 ゆったりと、それでいて力強い足音は、差し迫った飢えではなく、今は肉欲があの男を捕らえているという証だった。
 血の気が引く感触に、如月の全身が、冷えてゆく。小刻みな震えを止めるすべを、如月は、いまだ、知らなかった。
 逃げ場は、ない。
 窓は、金属製の格子を嵌め殺しにされている。何度も窓から逃げ出した自分に、あの男の忍耐が切れた挙げ句の、ものだった。
 扉に、鍵はかかっていない。屋敷の中を歩くのは自由だと男は言った。しかし、男は、知っているのにちがいない。誰もが、自分が男に抱かれていることを知っている屋敷の中を、誰が、歩き回りたいなどと思うだろう。逃げようと、何度か、出たことはある。しかし、そこここで何かをしている家人たちとすれ違うたびに、自分に向けられる視線が不快でたまらなかったことが、如月には忘れられない。それに、屋敷の出口に近づけば、自分をここまで連れてきた男が、どこからともなく現われ、そうして、『それまでだ』と、嘲笑うかのように嘯いて、如月を部屋へと連れ戻すのだ。
 隠れたところで、意味はない。如月ひとりの部屋とするなら充分すぎるほどに広い室内に、隠れ場所を求めるなど、もとより、愚にもつかない。すぐに引きずり出されてしまうに決まっているのだ。そうして、そんなときのあの男が、自分にどんなことをするのか――――思い返して、如月の全身が、ひときわ大きく震え、
「今宵の月は、いつにもまして、みごとだな」
 低く、よく響く声に、如月の時だけが止まったかのごとくに、ぴたりと、止んだ。


 月が、欠けてゆく。
 あの男は、月が満ちたその翌日、どこかへ出かけていった。
 男のいない日々は、如月のつかれきったからだと精神とを癒すかのようだった。
 それでも。
 いつも、心を占めているのは、男が帰ってからのことだった。
 飢え渇いて、帰ってくるのかもしれない。
 だとすれば、いつも以上に、辛い目に合うのかも知れないのだ。
 首筋から血を啜られる感触を思い出し、ぞくり――と、如月の全身が、恐怖に慄いた。
「慣れろ………頼むから」
 震える声が、如月の青ざめたくちびるからこぼれ落ちる。
 なぜ、こんなにも、慣れないのか。
 逃げられないのなら、慣れてしまうほかないというのに。こんなことまで不器用な自分に、情けなくてたまらなくなる。
 目の前が、霞む。
「ばか……だな………」
 螺鈿細工の天井を、仰いだ。
 その時、
「っ!」
「静かに」
 背後から突然絡め取るように抱きかかえられ、口を大きな手に塞がれた。
 全身が痛いくらいに痺れ、鼓動が荒くなる。
 こらえていた涙が、衝撃に、頬を伝った。誰であろうと涙を見られたくなくて、持ち上げた手は、突然の侵入者が、遮るように、捕らえた。
 放せ――と、身悶える如月に、
「叫ぶな」
 侵入者のことばに、如月は、数度うなづいた。
 足の力が抜けていた。侵入者が手を放した途端、如月は堪えきれず床に頽おれた。
 肩で息をしながら、敷物の模様を見ていると、クマのように室内をうろついていた侵入者の足が、如月の目の前で、突然、止まった。
 如月が見上げるよりも速く、侵入者の手が、如月の顎を持ち上げる。
「まさか………」
 侵入者の口からこぼれ落ちたことばに、如月が口を開こうとした時、
「如月。よそ者が入り込んだ気配がある」
 扉の外から、声がかけられた。
「誰か、来なかったか」
「……別に」
「怪しいやつを見つけたり、襲われそうになったら、叫べよ」
 ご主人さまに叱られるのは、こっちだからな――――からかうような口調で付け足して、如月をここに連れてきた男の気配が、遠ざかってゆく。
 緊張していたらしい。如月が、詰めていた息を吐く。
 へたりこみ、顔を上げた如月の視線と、濃紺の双眸とが、ぶつかった。
「迷ったのか?」
「………」
「こんなところに迷い込むなんて……殺されにきたようなもんだ」
「………」
「おい、聞いているのか?」
「きさ……ら…………?」
「あ? ああ」
 すらりと様子のいい男が、首を傾げて自分を見下ろしてくるのに、如月は、眉間に皺を寄せた。
「……きさらぎ……ゆず、る?」
 恐る恐るといったような、男のつぶやきに、如月の褐色の双眸が、弾かれたように、大きくなる。
「おまっ、おまえ、誰だっ」
 立ち上がった如月が一歩後退するたび、男が一歩進む。壁際に追い詰められた如月を、男の濃紺の双眸が、凝視する。
「オレだよ。譲。オレ、リュウだ。グラーニュ家の末っ子のリュウだよ」
「リュウ?!」
「そうだ。会いたかった。ずっと、探した」
 如月が、横に首を振る。振りながら、後退さろうとして、自分が既に壁に張り付いていることを、如月は、知った。
「う……そだ」
「嘘じゃない」
 すらりとした男の姿が、如月に、目を逸らしていた事実を、思いしらせる。
「く、来るな」
 リュウを追いやろうと、如月が、手を突っ張る。
 しかし、痩せぎすとはいえ、男の体格は如月には勝っている。
 簡単に手を取られ、如月は、全身の力を抜いた。
 気を失えたほうが、いくらかましだったかもしれない。
 これまで目を逸らし続けていた時の流れを、如月は、まざまざと、感じていた。
 そうして、自分が、とっくに、ひとではなくなっているのだと、痛いくらいに。
 考えないようにしていた。
 認めたくなど、なかった。
 どんなに長い間、あの男――に、抱かれつづけているかを。
 化け物になってしまった、自分――を。
 自分もまた、あの男と同じく、血を啜るものに成り果てているのだということなど。
 そうして――――――
 やがて、あの男が、帰ってくる。
 その手に、如月のために捕らえた贄を携えて。
 新月の夜に、飢えた自分は、贄の血を、嬉々として、啜るだろう。
 あまりのおぞましさに、記憶の底に、注意深く隠していた記憶が、姿を現す。
 満ちたりた自分は、あの男に、抱かれながら、血を啜られる。
 目を逸らせつづけた、真実が、如月に、これでもかと、襲い掛かった。
 花嫁――それは、あの男に、永劫、血を与えつづけることができる者。しかし、自ら贄を狩る力のない花嫁のために、あの男は、獲物を狩らなければならないのだ。
 結局、同じことだというのに。
 それでも、あの男は、自分を、花嫁だと囲う。
 花嫁を選ぶ基準が何なのか、如月は、知らない。
 ただ、花嫁――の血は、なによりも、甘美なのだと。一度味わってしまえば、それ以外の血を口にすることはできなくなる。
 だからこそ、憎まれているのかもしれないと、思うのだ。しかし、そこに、なにか別のものがあるのかもしれないとは、如月は、考えたくなかった。
 けれど、考えないようにしていた感情が、もしも、そこにあるとしたなら。
 それを認めたとしたなら。
 自分は、いったいどうなってしまうのだろう。
 如月は、全身を、震わせた。
「譲、泣いてるのか」
 如月は、リュウを見上げて、首を横に振った。
「リュウ。逃げろ。二度と、ここに迷い込むな」
 ここは、化け物の巣なのだから―――。
 言いかけたことばを、飲み込む。
 それは、自分もまた化け物だと認めたくないからなのか、それとも、なにかを庇いたいからなのだろうか。
「ばかな………」
(ちょっと混乱してるだけだ)
「なら、譲も」
「オレは、いいんだ」
 どうせ、オレは、もう、ここでしか暮らせない。
「いい子だから。な。リュウ」
 伸び上がって、リュウの黒い髪を、撫でる。
 その手が、リュウに、掴まれた。
「なっ」
 振り払おうとした手をそのまま引き寄せられ、気がついたとき、如月は、リュウにくちづけられていた。
「ゆずる………」
 情欲に歪んだ声が、譲の耳を射る。
「好きだ。好きだった。ずっと。十年前に、譲がオレの世話をするために連れてこられたときからずっと」
「ダメだっ」
「どうして」
「オレは、ダメだ。リュウ」
「オレのこと、嫌いなの?」
「違う……けど、ダメだ」
 握られたままだった手が、引き寄せられる。如月が、リュウの胸元に手を突っ張り、見上げる。
 二対の視線が、合わさる。
 時が止まったような錯覚が、どれほど続いたろう。
 突然の風が、ふたりの間の緊張を、砕いた。
「なにを、している」
 数人の供を従えて、低い声とともに、男が入ってきた。
「アレイス……」
 黒い瞳が、そのつぶやきに、ちらりと如月を見た。しかし、次の瞬間には、アレイスの腕が、素早くリュウの喉首を、捕らえて絞め上げていた。
「やめろっ」
 アレイスの腕に、如月が、取りすがる。
「やめてくれ」
「リュウは、逃がしてやって……くれ」
 かすれそうになる声を、如月が必死で紡ぐ。
「たのむ……頼むからっ」
 後二日もすれば、新月の夜が来る。血への渇望が、アレイスを尚のこと不機嫌にしているに違いない。
 わかっていて、止めずにいられるわけがない。
「リュウの、血を、啜るのは、やめてくれっ。……お願いだから、殺さないでくれっ」
 ふと、気がつけば、足元で、リュウが、荒い息に肩を上下させていた。リュウの左右には、アレイスの供がふたり、見張りに立っている。
 とりあえず、今は、殺されずに済んだのだ――と、如月のアレイスの腕に縋っていた腕から、力が抜けた。
「譲」
 硬い声とともに、如月の顎を、アレイスの手が、下から掬うようにして捕らえた。
「あ……」
 アレイスの、容赦ない黒い瞳が、如月を、見下ろしている。
「グラーニュ家のリュウか………以前、おまえが、世話をしていた子供、だな」
 どうして、知っているのだ。
 呆然と見上げる如月の双眸を覗き込み、アレイスは、ふっと笑った。
「おまえを、私は、ずっと見ていたのだ」
 思いもよらぬ、やわらいだ、笑みに、如月は、ただ、立ち尽くしていた。
 まさか、それでは………まだここにつれてこられる前によく感じていた視線の主は。
「思いつきで、おまえを、ここに招いたと、そう、思っているのか」
 招かれてなんかない。
 あれを、招いたとは、決して言わない。
 喉の奥で噛み殺したような笑い声が、アレイスから聞こえる。
「おまえは、私の、花嫁だ」
 リュウが、顔を上げたのが、如月の視界の隅に映った。
「私は、おまえに、一目で魅せられたのだ」
 だからこそ、花嫁として、ここに置いている。
「どこで………」
 ここに来る以前にアレイスと会った記憶など、如月には、ない。
 ゆるゆると首を横に振りながら、如月が、後退さる。
 にやりと、口角を引き上げた太い笑いに、如月は、追い詰められる。
「たかが人間が、この私を惹きつけたのだ。私を虜にした責任は、とってもらわねばな」
「っ!」
 憎々しいといったねつい視線にさらされて、如月の鼓動が、跳ね上がる。
「おまえは、私のものだ。おまえに、私以外を見る自由は、この先永劫、ないと思え」
 痛いほど顎を持ち上げられて、気がつけば如月は、くちづけられていた。
   そのまま、アレイスのくちびるが、首筋を伝いおりてゆく。そうして、やわらかい肉を鋭く尖ったもので噛み破られる痛みが、如月に襲い掛かる。
 如月の視界にあるすべてのものが、歪み、流れ、交じり合う。
 色彩の乱舞に、如月の意識は焼き切れかける。
 意識が切れようとする刹那に、如月は、

 リュウは、生かしておいてやろう。

 そんな、アレイスの声を、聞いたような気がした。

おわり



end 22:15:10 2009 04 25
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