むか〜しむかし。
ひとりの若者が山道を歩いていると、近くの藪ががさがさと音たてて揺れました。木々のこすれあうのに混じって、金属のガチガチという音と何か獣がうなっているようなのが聞こえてきます。
若者は恐る恐る藪の中を覗き込みました。
すると、そこでは、猟師の罠にかかったのでしょう、一頭の黒い狐が今にも自分の前足を食いちぎろうとしていました。
若者に気づいた狐が、低く威嚇のうなりをあげます。
けれど、今の若者にはそんなこと気になりません。気になるのは、ただ、黒い狐の前足をぎっちりと噛んでいる鉄の罠と、滲んで毛皮を濡らしている血だけでした。
「痛いよな、それ」
若者が伸ばした手を、黒狐の鋭い牙が襲いました。
「っ!」
激痛が若者の脳天まで駆け抜けましたが、ここで動いたりしたら狐が怯えてしまいますし、下手に手を口から引っこ抜けば傷口が広がってしまうでしょう。若者は、痛いのを我慢して、狐が自分から口を開くのを辛抱強く待ちました。
やがて、若者に害意がないのを悟ったらしく、狐は口から若者の手を放しました。
艶々と光を弾く毛並の中、金色に見紛う一対のまなざしが若者を見上げます。それは、なんとなく若者を観察しているような視線で、若者は居心地の悪さを感じました。それでも、ここで狐を放り出してしまえば、狐は自分で自分の罠にかかったほうの前足を食いちぎるでしょうし、若者自身も寝覚めがよくないでしょう。
「もうちょっと我慢しろよな。今、罠外してやっから」
そっと伸ばした手で、トラバサミのかみ合わせを外します。そうして、動けないでいる狐の傷口に、手近にあった薬草を揉んで当て、手ぬぐいでぐるぐる巻きにしたのです。
「よしっと。さぁ、これでおしまいだ。いいか、もう、こんなのに捕まるんじゃないぞ。今度は助けてやれないだろうしな」
そう言って、若者は、よたつきながら立ち上がった黒狐が山の奥に消えてゆくのを見送ったのです。
狐は最後に、若者を振り返りましたが、その時にはもう若者は藪から山道へと出た後でした。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
若者がこの田舎の村に住み着くようになったのは、一年程前のことでした。
薄汚れたなりをしていましたが、その着物をよく見れば、仕立ての良さや布地が絹であることがわかったでしょう。それに、力仕事には慣れていないようで、畑仕事や水汲みなどの手際はどうもよくありません。村でもお人よしと評判の五平が何くれとなく若者の世話をやきました。そうして、元々物覚えはよいほうであったらしい若者は、まだどこか危なっかしいところがあるものの一人暮らしをはじめたのでした。
ともあれ、最初はうさんくさく思った村人たちでしたが、屈託のない若者の人柄もあり、今では、昔からこの村で育った子供のような、そんな印象を村人たちは覚えていました。
若者は、村外れの空き家を修理して暮らしていました。
ひとりきりですから、土間と奥戸さんを兼ねたところと、囲炉裏のある居間件食卓で寝室という八畳ほどの部屋、あとは縁側という間取りも苦にはなりません。
若者はもう十七才でしたが、畑仕事も一人前にできないのでは、まだまだ嫁取りなど夢のまた夢です。
それでもまだしばらくは、一人暮らしの気楽さを満喫してもいいだろうと、若者は呑気に考えていました。
さて、狐に噛まれた傷も治ったある日、若者が庭にある猫の額ほどの畑の草取りをしていると、誰かが家に向かってくるのが目に入りました。
若者の家は村の外れですから、自分の家に用があるひとか通りすがりのひとくらいしか、道を来るひとはいないのです。
まだちょっと遠かったですが、すらりとようすのいいような旅姿の人物だとわかりましたので、自分に用があるわけじゃないなと、詰めていた息を吐き出しました。
視線を見知らぬ旅人からはずしかけた時です。
旅人はくらりと大きく傾いだように見えました。そうして、瞬く間もあればこそ、道に倒れたのでした。
若者は慌てて旅人に駆け寄りました。
「だいじょーぶか」
陽がかんかんに照っている初夏だというのに、そのひとの顔は白く血の気がありません。
ぴたぴたと頬を数度軽く叩くと、そのひとは目を開けて若者を見上げました。
若者の影になっていてよくわかりませんでしたが、なんとなくその瞳孔が縦長なような気がして、若者の心臓がドキンと一つ跳ねました。
「水をもらえますか」
かすれた声で水を乞う相手に、
「いいよ。さあ、オレんちすぐそこだから」
肩を貸して立ち上がらせます。
すらりと丈高い旅人は、思ったとおりそれほど重くはありません。どちらかといえば非力な部類に入る若者でも充分支えられたのです。
若者が何気なく自分の胸元に回されている旅人の腕を見ると、白い優美な腕に引き攣れたようないまだ薄赤い傷痕がありました。
若者は狐に噛まれた時の痛みを思い出し、痛かったろうなぁと思いました。
家に入って上がりかまちに腰を下ろした旅人に、水を柄杓で掬って渡します。
白い喉を見せて、旅人は、柄杓に三杯の水を立て続けに飲み干しました。そうしてやっと人心地ついたのでしょう、最後の一杯を干した柄杓を床に置き、
「助かりました。ありがとう」
と、頭を下げたのです。
「いや、それくらいべつに………」
丁寧なお礼に、若者のほうが恐縮してしまいます。後頭部を掻いていると、
「私は行くところがないので、しばらくここに置いていただけませんか」
「行くところがないって?」
「家族もありませんし。気ままにあちらこちらと流れてゆく暮らしをしています。お礼というほどのこともできませんが、畑仕事を手伝わせてください」
そう言うのです。
家族がない淋しさは、若者には痛いくらいにわかります。けれど、
「オレは別にいいけどさ、女の人が男の家に突然転がり込んだりして、かまわないのか?」
「おんな? 誰がです」
小首を傾げる仕草さえたおやかな女性のようなのに、そう訊ね返すということは、
「えっ、あんた、男だったんだ」
思わずのけぞる若者でした。
あらためて蓮と名乗った旅人は、そうして若者の家に転がり込んだのです。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
蓮が手伝ってくれるおかげで、若者の暮らしは楽になりました。
ただ水を飲ませただけでそんなに恩を感じなくてもいいのにと、若者が恐縮してしまうくらいに、蓮は働いてくれるのです。
畑仕事も水汲みも、蓮はとても上手にこなします。
やがて十日が過ぎようという頃になって気がつけば、若者は蓮の帰りを待ちながらご飯の準備をすることだけが役割になっていました。
(これじゃ、オレって嫁さんみたいだよな)
この生活に慣れてしまっては、いけない。そう思いました。なぜなら、力仕事は全て蓮の分担になってしまっていて、彼がここを去っていったら、また一から若者は慣れなければいけません。
「え、と……すっかり世話になってしまって、悪いな。明日からオレが畑仕事に出るから」
晩ご飯を食べながら、若者がそう切り出すと、
「それは、私はもう用がないと、そういうことですか?」
軽い音をたてて茶碗と箸を囲炉裏端に置いた蓮の薄い色の瞳が、若者を見つめます。
凝視されることにどぎまぎしながら、
「違うって! 蓮がいてくれんの、オレだって嬉しいよ。けどさ、おまえはいつかはここを去ってくんだろ。だったら、あんまりおまえにばかり甘えて、力仕事押しつけるの悪いなって………」
俯いて自分の膝を眺めていた若者は、蓮のまなざしがどんな感情を宿しているのか知ることはなかったのです。
「そういう思考ですか………これはまいりましたね」
かすかな呟きに弾かれて若者が蓮を見返した時には、彼の薄い色の瞳からはそれまでの複雑怪奇な感情はすっかり拭われていて、ただかすかな笑みをたたえているばかりでした。
気まずい雰囲気のままその日は終わり、庭先に蓮が作ってくれたお風呂を済ませた若者は、床に入ってすぐに眠りに引き込まれました。
どれくらい経ったころでしょう。
若者は、息苦しさに目をさましました。
むかしのこととて灯といえば、外から差し込む月明りばかり。
けれども、それで充分です。
「れん……」
かすれた声で、若者は自分の上に馬乗りになっている相手を呼びました。
「なにして……っ」
若者が大きく震えます。
蓮が変なところを触ったからです。
「ちょ……やめっ…………」
必死になってもがきますが、蓮は若者を放しません。
若者が抵抗している間も、蓮は、若者には信じられないようなことを仕掛けてくるのです。
ひとしきり抵抗を繰り返していた若者が、体力のなさからもうだめだと投げやりになってしまった瞬間、待ち構えていたかのように蓮は若者の耳もとに、
「初めて会ったあのときから、ずっと君のことを愛していますよ」
と、ささやいたのです。
そうして次の瞬間、若者に襲い掛かったのは、信じられないような熱と痛みと、そうして、その果ての認めたくはない、快感でした。
翌日、若者が目覚めると、蓮の姿はありませんでした。
お天道様は既に中天にさしかかっていましたが、若者は起き上がることもできません。
全身がだるくて、特に信じられないような箇所がズキズキと痛むのです。
身動きもままならない若者が、必死の思いで起き上がると、枕元に握り飯と湯飲みに注がれた水とが用意されていました。
呷るように水を飲み、急須に残っていた水も湯飲みに注がずそのまま飲みました。そうして人心地がついた後になって、若者のお腹が空腹を訴えたのです。
結局若者は大きめに結ばれていた握り飯を三つぺろりと平らげてしまったのでした。
しばらく若者が布団の上でぼーっとしていると、
「ああ、目が覚めたのですね」
と、蓮が戻ってきました。
蓮の声に若者は大きく震えました。そうして、
「なんだって、あんなことしたんだよ」
と、やっとのことで声を絞り出すことができました。
「あんなこと?」
土間から上に上がり込んで、蓮は若者の額に手を当てました。
「少し、熱がありますね」
ぱちんと、蓮の手が払いのけられます。
「答えろ」
若者の横に正座して、
「言いましたよ。僕は、君を、はじめてあったあの時から愛しています。だから、君を、抱きました」
平然と言ってのけたのです。
「愛って、お、オレは男だぞ」
「それがどうかしましたか?」
「おまえだって男じゃないか」
「今更ですよ。君は、僕のものですからね」
蓮のことばに、若者は真っ赤になってしまいました。
おまえなんか助けるんじゃなかった〜と思っても、今更です。
後悔は先に立つものじゃないのです。
いつも、してしまってから、後悔してしまうのですから。
それでも、言わずにはおれませんでした。
「恩を仇で返しやがって」
「一生大切にしますからね」
けれど、返ってきたのは、そんな台詞でした。
若者は、その場で布団に懐いてしまいました。
そんな若者を蓮が笑って見つめています。
そうして、なし崩し的に、蓮は若者を『お嫁さん』にしたのでした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
蓮が若者を『お嫁さん』にしてから四月が過ぎました。
今は、秋。
食べ物が美味しい季節です。
蓮が育てた野菜や果物は、町でも美味しいと評判です。
今日も、蓮は愛しい『お嫁さん』に着物の一枚でも買ってあげようと、精を出して野菜や果物を町で売っていました。
蓮の姿を見つけたおかみさんや娘さんたちで、地面に筵を引いた上に商売物をのせただけの店の周囲は黒山の人だかりです。もちろん売っている野菜や果物が美味しいからですが、蓮の美貌も一因でした。
『お嫁さんにして』などと言う大胆な娘さんもいましたが、若者一途の蓮がなびくはずもありません。そういう娘さんには、『奥さんがいますから』と、しっかり律儀にお断りをする蓮でした。
けれど、そういうことばが通じない人がいることも、事実です。
今日も今日とて、共侍を連れた立派な駕籠が通りかかりました。
かすかに、蓮の秀麗な眉間に縦皺が刻まれます。
「これ、蓮、その柿を見せよ」
扇で山と詰まれた柿を指し示したのは、お城のお殿さまです。一年ばかり前にここのお殿さまになった彼は蓮がお気に入りで、しきりと城に来るようにと誘っているのですが、もちろん蓮が首を縦に振るはずもありません。
けれど、相手は、お殿さまです。
蓮のつれない仕打ち(お殿さまにはそう感じられたのです)についに切れたお殿さまは、共侍に蓮を捕まえさせて、お城に拉致していったのでした。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
いつまで経っても帰ってこない蓮に、若者は心配でたまらなくなりました。
いつだって蓮は決まった時間に出かけて、決まった時間になると帰ってきていたからです。
一年近くの一人暮らしで、淋しさは骨身にしみていました。けれど、ここ四ヶ月ほどは、蓮と言う同居人、もしくは自称旦那さまができていました。だから、淋しさを忘れていたようです。
突然襲い掛かってきた淋しさで、その夜をまんじりともせずに明かした若者の元に、蓮がお殿さまに拉致されてしまったという情報が届いたのは、明けたその日の昼過ぎのことでした。
若者は、押入れの中をしばらく探していましたが、
「あった」
と、短く叫ぶと探し出した何かを懐にしのばせ、お隣の家へと急いだのでした。
「五平おっちゃん」
「おう、なんだね」
「ごめん。おっちゃんとこの馬かしてくんないかな」
血相変えて飛び込んできた若者に、お隣の五平は、
「好きに使ってくれてかまわんよ」
と、気前よく馬を貸してくれたのです。
そうして、ひらりと馬にまたがった若者の後姿に、
「殿さま相手で、だいじょーぶなのか? 無理すんなよ」
と、結構暢気な声をかけました。
一村人が殿さま相手に何ができるというのでしょう。黙って無理難題をやり過ごすしか方法はないというのが常なのです。けれど、若者は、立ち向かうみたいです。家族を養っていかなければいけない男にできるのは、若者に馬を貸すことくらいしかありませんでした。
「うん。ありがとおっちゃん」
そう答えると、若者は手を振るなりみごとな手綱さばきで五平の視界を遠ざかっていったのです。
「ありゃあ侍の子だったのかね」
その呟きは、当たらずとも遠からずでした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「よくも僕を拉致しましたね」
怒りの形相も顕わに、蓮は腰をぬかした殿さまを睨みつけています。
殿さまは、お目当ての人物をやっと城に連れ帰ることに成功して、鼻唄まじりで蓮とお人形遊びに興じていたのですが、グルグルと縄で拘束された上に人形にされている蓮は楽しいはずもありません。
殿さまに甘い声でおねだりしてやっと縄をほどいてもらうことに成功した蓮は、殿さまの目の前で巨大な竜に化けたのです。
殿さまが腰をぬかすのも無理はありません。
今殿さまを見下ろしているのは、金色の瞳をした黒い竜なのですから。
「ば、ばけもの〜」
今更です。
やっと迸った殿さまの悲鳴に、襖の外に控えていた小姓たちが部屋に飛び込み、そうして、その場で硬直しました。
「で、であえ〜」
「く、くせものじゃぁ〜」
小姓の声も、恐怖にまみれて力ありません。しかし、腐っても鯛といいますか、城に詰めているのは、まがりなりにも侍です。危機管理能力はそれなりに鍛えているということで、次々と殿の部屋に集まってきます。
しかし、そこまででした。
集まってきたものの、巨大な竜を相手に、なにができるでしょう。
数を頼りに槍や刀で襲い掛かりますが、竜の尾の一振りで、打ち負かされてしまいます。
かといって、竜を逃がすわけにもいきません。
縄や鎖で竜をどうにかこうにか拘束しようとしますが、怒り狂った竜が相手では、ままなりません。
あちらこちらと城を壊され、逃げ惑う殿さまに襲いかかろうとする竜を相手に、侍たちが右往左往してどうにも収拾のつかない城内でした。
若者が城に到着した時は、そんなわけで、門番が城を気にしつつ佇んでいる状況だったのです。
馬で通り抜けようとした若者ですが、門番が行く手を阻みます。
「無礼ものっ」
若者が、らしからぬ態度で門番を叱りつけました。
「私がわからぬのか」
そんなことを言われても、一介の門番にどうしろというのでしょう。
「私は、雨滝の城主東雲隼人」
身なりと態度とがちぐはぐな若者にとりあえずへりくだった門番でしたが、頭の中はフル稼働でした。訊ね返しはしたものの、記憶にある名前だったのです。
「!」
やがて、名前に思い当たった門番が、その場に平伏しました。
「おそいっ」
「も、申し訳ございません」
東雲隼人―――それは、先代の殿の嫡子の名前だったのです。彼は、先代の殿が亡くなるのと前後して、急な病で亡くなったと、そう伝えられていました。けれど、馬上の少年が差し出した脇差は、たしかに先の殿さまの紋がついておりますし、その顔にも、お忍びでよく門を通してくれと言ってきていた先代さまの面影が残っております。
「馬を預かっておいてくれ」
「ははっ」
門番は、慌てて通用口を明け、若者を中に通したのでした。
一年半近く前になるでしょう。
突然の父親の死と、その後に続いた若者への暗殺未遂。
犯人が誰なのかは考えるまでもありません。若者よりも七つ年上の異母兄、お妾の息子の差し金でした。
若者は殿さまの後を継ぐことについて『めんどくさいな〜』くらいにしか考えたことはなかったのです。誰が殿さまになったって、とりあえず領民が平和に幸せに暮らせるのならかまわないくらいにしか思ってませんでした。けれど、そんな態度は周囲の人たちを苛つかせるものでした。
『もっときちんと、しゃきっとしなさい』とか、『しっかりお勉強してくださいね。殿さまが馬鹿では領民は報われませんから』とか、色々色々。うんざりするくらい言われていたのです。
まさか異母兄が自分を殺してまで殿さまの地位をほしがっているだなどと、考えてもいなかったのです。
でも、ふっと気がつけば、口煩いばあやもじいやもお守役も、いつの間にか傍からいなくなっていました。そうして、城の中で孤立無援になっている自分に気づいた時、若者は、毒を盛られて、殺されたのです。
もっとも、盛られた毒は、若者が毎朝嫌々ながらからだを慣らしていたものでしたので、昏倒するだけで済んだのですが。
川原で気がつけば、自分がどこにいるのかも、自分が誰なのかもわからないありさまで、持っている物といえば、一振りの脇差だけでした。
ふらふらとあちこちをさ迷い歩き、やっとたどり着いたのは、あの村だったのです。その頃には自分の名前も何もかも思い出していましたが、『そんなにほしいんなら、別にやってもいいよな』と、呑気に気楽に、過ごすことを決めたのでした。もちろん、農家の生活は楽ではありませんでしたけれど、蓮というわけのわからない旦那さま(自称)もできたことですし、押し付けられたようなものではありましたが、最終的には自分で選んだ生きかたが気に入っていた若者だったのです。
なのに…………。
記憶と変わらない城の中を進みますが、誰も若者を見咎めません。なんだか城の奥が騒がしくて、すっごく厭な予感を覚えた若者でした。
急いで駆けつけると、そこでは、一頭の黒い竜が異母兄を掴んで周りを威嚇していました。
その金色の瞳が、ふっと若者の視線とぶつかりました。
なぜでしょう。
それだけで、若者にはわかったのです。
この黒い竜の正体がです。
だから、
「蓮、帰ろう」
若者は両手を黒い竜に向かって差し伸べました。
その頃になって、ようやく、周囲の侍たちがざわめきはじめました。
「若」
「隼人さま」
「若さまじゃ」
と、ひそひそと、声が聞こえてきます。
若者は、門番に見せた脇差を手にしたままだったのです。
それに、その顔は、それこそ、若いころの先の殿さまの面影を色濃く受け継いでいましたから。
蓮に握られている異母兄も、若者に気づいたみたいです。
「曲者を捕えぬか」
と、場所と場合とを考えない、ある種捨て身の命令を出しますが、誰も殿さまのことなど見てはいませんでした。
殿さまの横暴や我儘は、昔からの家臣たちの眉をしかめさすようなものでした。それに、殿さまの側近たちのむちゃくちゃさも、顰蹙でした。そんなわけでしたので、本当の後継ぎが無事であったことに喜んだ、古くからの家臣たちは若者に向かって平伏をしていったのでした。
「オレは、ただの村人。蓮を迎えにきただけだ」
そう言う若者でしたが、
「城にお戻りください」
と、声を揃えて言われては、元々が人のいい若者の心が揺らがないはずがありません。
それでも、なんのかんのと自分が淋しかった時そばにいてくれた蓮のことが心配です。
今では忘れられたように、その場に彫像めいて佇んでいる蓮です。
「おまえ人間じゃなかったんだな」
若者の伸ばした手に、蓮の鉤爪のある手が伸ばされます。そこに、覚えのある傷痕。
前足の傷。
それは、
「ああ、おまえ、あのときの黒狐」
「そう。あの時から、僕は、君のことを愛しています」
「ああ。わかってる。オレも、おまえが人間じゃなくても………愛してるよ。多分な」
ざわめく一同が、しんと静まり返ります。
「最後の一言がよけいですが、しかたありませんね」
「まあな。で、いつまで竜のままでいるつもりだ」
「人間の姿になったとたん、殺されるのも業腹ですのでね」
「そんなこと、させないよ」
若者の鳶色の瞳と蓮の金色の瞳が見つめあいます。
「わかりました」
蓮の返事とともに、どたりと殿さまが畳に落ちました。けれど、誰一人として殿様を助け起こすものはおりません。
一同が見守る中で、蓮はひとの姿になりました。
そうして、若者を抱きしめたのです。
結局、若者は、しぶしぶ殿さまの座につきました。
そうして、黒狐で自称旦那さまの蓮は、いつまでも若者の側で暮らしたのです。
ふたりの間に子供はもちろんできませんでしたが、親類筋から養子を貰うことで丸く収まりました。
若者の異母兄である殿さまとその一派は捕えられ、罪の報いを受けました。
え? 若者に馬を貸したお隣の五平おじさん? 立派な馬とたくさんのご褒美を貰って、今ではあの村一のお金持ちです。
おしまい
start 21:36:05 2009 01 11
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