小さな恋の物語




 ぼくの名前は菅生ルイ。七才、小学校二年生です。ぼくは帰国子女です。
 お母さまは天雲百合子といい、世界でもトップクラスのマジシャンです。
 いつも忙しく世界を飛び回って、たくさんのひとたちにすばらしいマジックを披露しています。
 ぼくは、そんなお母さまが大好きです。
 だから、ほんとうはお母さまと一緒にいたかったのですけど。
「世界には治安の悪い国もあるから、ルイはまだ小さいし、危ない」
という理由で、お母さまのふるさとである日本にいきなさいと言われました。
 ぼくとお母さまの名字が違うのは、お母さまがぼくを心配なさったからです。菅生というのは、お母さまのお母さまが結婚する前の名字だそうです。
 どうしてお母さまがそこまで気を使ってくださるかというと。
 少し前に、ぼくが、お母さまのマジックの秘密を盗もうとする悪い人たちに捕まってしまったからです。
 警察のひとたちが捜してくれて、犯人は捕まり、ぼくも、怪我ひとつせずにお母さまのところに帰ることができました。けれど、お母さまは、それ以来、何か考えるようになりました。そうして、そう、言ったのです。
 ぼくのことをとても心配してくれているのだと思えば、あまりしつこく厭だなんていえません。だから、ぼくは、日本に来たのです。


 セキュリティ完備のマンションの最上階に、ぼくの住んでいる部屋はあります。何ヶ月かに一度、お母さまがやってきますが、他には通いの家政婦さんがいるだけです。あと、下の階には、ぼくのボディーガードだっていう男のひとたちが詰めています。彼らに下の階でボディーチェックをされて上がってくる通いの家政婦さんと、お母さまの代理だと言う弁護士さんが、ぼくの保護者代理ということになっているようです。
 別に、不便じゃありません。ぼくはもう赤ん坊じゃないので、ひとりで寝ることも起きることだって、できるのです。それに、ぼくがベッドにはいる時間には、ナイトコールをしてくださいますし、ぼくの起きる時間を見計らって、モーニングコールをくださいます。とっても忙しいお母さまがです。淋しいなんて言ったら、罰があたります。
 それでも、最初は、とても不安でした。
 お母さまとは日本語で喋るようにしているので言葉はわからないことはないのですが、帰国子女は苛められるみたいだよと、友達が耳打ちしてくれたからです。
 でも、それは、杞憂でした。

 それに、素敵な出会いを経験したのです。

 あれは、最初の登校日のことでした。
 日本で一番いい季節だってお母さまがおっしゃってらした五月の風は、ほんのりと緑の香を運んでくるみたいです。ほとんどは、車の排気ガスの匂いですけど。
 ぼくは、ひとりで、学校に向かっていました。
 離れて、ボディーガードがついてきているのがわかっています。
 家政婦さんが一緒に行きましょうと言ってくれましたけど、ぼくはもう小さな子供ではありません。お母さまはそう言いますけど、お母さまは特別です。ぼくのことを「小さい子供」と言って頭を撫でてもいいのはお母さまだけです。
 ああ、忘れていました。ぼくには、お父さまはいません。小さいころに、お母さまと別れて出て行ったそうです。以来、ぼくにはお母さまだけでした。もちろん、お母さまのマジックの手伝いをしてくれるスタッフや弟子のひとたちもやさしくしてくれますけど、それでも、ぼくが一番好きなのは、やっぱり、お母さまです。

 その時までは、ぼくの一番は、お母さまだったんです。

 ぼくが通うことになった小学校は、幼稚園から大学まで一貫教育で、とっても広い敷地に、中央の公園に区切られた形で全部の学舎が点在しています。
 ぼくの家から一番遠いのが大学、その手前に高校中学、そうして、一番近いのが、小学校幼稚園です。
 一貫教育ということもあって、幼稚園から大学まで、交流が盛んなのだそうです。
 その日は、高校生のお兄さんやお姉さんが、小学二年のぼくたちと一緒に過ごす交流の日でした。
 先生に連れられた二年A組の教室で、自己紹介をした後、ぼくはそれを知らされたのです。
 広い体育館で、お姉さんやお兄さんが、ぼくたちを待っていました。
 くじ引きのあとで、番号合わせがおこなわれ、ぼくが組むことが決まったのは、姫宮倫太郎というお兄さんでした。
「よっ」
と、少し照れて挨拶をしてくれたお兄さんを見たとたん、ぼくの心臓がキュウと締まりました。
 そうして、次の瞬間、ドキンドキンとはやくなったのです。

 その日一日、お兄さんと何をしたのか、ぼくは、おぼえていません。

 家に帰った後も、ぼくは、宿題をする気にもなりませんでした。
 にぱっと笑った、お兄さんの顔が、網膜に焼きついたみたいになって、どうすればいいのかわかりませんでした。
 晩ご飯を残したぼくのようすを心配して、家政婦さんが熱を計りました。
 三十六度二分。
 平熱でした。
 家政婦さんが帰ったあと、ぼくはお母さまのコールが待ち遠しくてたまりませんでした。
 やがてかかってきたお母さまからの電話を飛びつくようにして取ると、ぼくは、お母さまに、その日一日の経験を語って聞かせたのです。
「病気なのかな」
 それが、心配でした。
 あんなに心臓がドキドキしたことなんて、お母さまのマジックを観てるとき以外にはありませんでした。
 クスクスと、軽やかなお母さまの笑い声に、ぼくの心配は、雲が風で追いやられるみたいに晴れました。
「おませさんね」
 面白がっているみたいな、お母さまの声でした。
「それはね、ルイ。その高校生に、あなたが一目惚れしちゃったのよ」
「ひとめぼれ?」
 呆然とぼくがその単語を反復していると、
「そうかぁ、ルイの初恋は、十才くらい上のお姉さんなわけね」
 お母さまが独り語ちます。
 それに焦ったのは、ぼくです。
「違います。お姉さんじゃなくて、お兄さんでした」
 しっかりと、ぼくはお母さまの間違いを訂正しました。
「………」
「お母さま?」
 やけに長く感じた沈黙の後、お母さまは、
「そ、そう。初恋は、お兄さんなのね」
 どこか狼狽えたような口調に、ぼくは不安になりました。
「ぼく、変ですか?」
「いいえ。ルイ。ひとを好きになることは、すばらしいことよ。たとえあなたが好きになったのが、男のひとだったとしても、ね。ただ……」
「ただ?」
「………まあ、そこは、ルイの精進しだいかな」
「?」
 お母さまの言葉の意味がわからなかったのははじめてでした。
「好きになったのなら、頑張りなさい」
 何かを吹っ切ったように、お母さまは、きっぱりとそう宣言してくださいました。
「お母さまはルイの初恋を応援してあげる。だから、しっかりと、そのひとを捕まえなさい。次にお母さまがルイのところに行く時に、紹介してもらえると、嬉しいな」
 お母さまの応援があれば、鬼に金棒です。
「はい。頑張ります!」
「じゃあ、おやすみなさい。ルイ、よい夢を」
「お母さまも、おやすみなさい」
 そうして、ぼくは、電話を切ったのです。

 その夜見た夢は、もちろん、姫宮倫太郎お兄さんの夢でした。



   同性愛というのが、まだまだマイナーな恋愛形態だということをぼくが知るのは、もう少し先のことでした。


おしまい
start 12:55 2010/07/18

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