1.ラルフ
くっきりと青白い、真円の月。
初夏の夜とはいえ、高原は冷え込む。
ジャケットを着ていたのは、御の字だ。
「お〜つきさーん、こんばんわっ」
でたらめな(多分)歌を歌いながらほとんど自棄気味に道を歩いていた俺は、咥えていたタバコを、思わず投げ捨てていた。
マナーがなっていないって、怒らないで欲しい。目の前の緊急事態にダッシュしながらだったんだ。
少し離れた場所に停めてあるオープンカーの周囲で、ひとりの女性が、数名――ひのふの……五人の人品卑しい男たちに絡まれていたんだ。
街灯の明かりに、女性の長い黒髪が乱れるのが見える。
もう少しで、赤いスポーツカーのボンネットに押し倒されそうになっている。
華奢なヒールが、アダになっているようだ。
「なにをしてるっ」
そう言った時には、すでに、男――女性に覆いかぶさっているヤツだ――を、投げ飛ばしていた。
「っ!」
脇腹の傷が痛んだが、このさいかまっちゃいられない。縫ったとこが開いてはいないことを願おう。うん! 俺は、とにかく残りの四人もことごとくやっつけて、やつらのベルトで一塊に手近の街灯に縛りつけたのだ。
「だいじょーぶですかぁ?」
さてととばかりに振り返った俺は、思わず、その女性に見惚れた。
女性にしては背が高かったが、百八十ある俺よりは低い。長い黒髪に白い顔、伏せ目がちの黒い瞳に、くっきりとリップを指した赤いくちびる。とにかく、美人だったんだ。
こくんと頷くさまもいじらしくて、思わず、
「あーその、よければ、送ってきますけど」
などと口走っていた。
突然エンストしちまって、だらだらながら高低差のある道を歩かせる羽目に陥らせてくれたバイクは、また後で取りに来ればいいことだ。
うろたえたように首を振る女性に、
「………えと、安心してください。俺、一応これでも、警官なんですよね」
休暇中の――を飲み込み、身分証明書を差し出した。
「………ラルフ・マッカラン?」
低めの声が、俺の耳に届いた。
「はい。えーあなたは? っと、名前がないと呼びにくいんで」
「……ア、アイリーン」
「アイリーン? 綺麗な名前ですねぇ」
その時だった、近づいて来る複数の足音が聞こえたのは。たちまちビクンと震えたアイリーンに、俺は、彼女を背後に庇っていた。
「早くっ」
「へ?」
庇ったと思っていたのは俺だけだったらしい。彼女は、俺のジャケットの裾を引っ張って、スポーツカーに飛び乗ったのだ。
「早く、逃げるんだ」
逆らいがたいような、ぴんと張り詰めたトーンの低い声に、彼女に遅れること数瞬、俺は弾かれたように、運転席に飛び乗っていた。
エンジンをかけ、ギアをロウに。サイドブレーキを外し、俺はアクセルを踏み込むと同時にクラッチから逆の足を離した。
たちまち加速した車は、追っ手を引き離し、夜のドライブとしゃれ込んだ。
「で、アイリーン、何をしたんです?」
ちらりと視線を流すと、さっきの鋭い雰囲気が嘘のように、彼女はうつむいている。
射撃できたえた動体視力で俺が見たのは、おそらくはプロのガード、もしくは、その筋のやからだろう。
この辺は別荘地ということもあって、小金持ちたちの別荘が点在している。中には、本当にしゃれにならない大富豪や、マフィアのボスが、酔狂で建てたらしい別荘もあると、聞いていた。
「ま、言いたくないんなら、いいんですけどね」
そう。俺は、今は、休暇中、より正確に言うなら、怪我療養中の刑事なのだ。
「吸っても、いいですか?」
一応礼儀だよなぁ。
訊ねると、うなづいてくれる。
安心した俺は、ジャケットの胸ポケットから取り出したパッケージから、一本だけ、タバコを口に咥えて抜き取った。―――実家が金持ちだっつう相棒が貸してくれた別荘を、バイクで抜け出した理由が、これだ。怪我人だからということで、酒タバコついでに女――も、禁止令が出されていた。せっかくの休暇だっつーのに、それはないでしょ……と、やさぐれた俺の気持ちもわかって欲しかったりして。
ポッと、俺がライターを取り出すよりも早く、アイリーンが、火を差し出していた。
「サンクス」
俺は、ウインクして、アイリーンの持っているライターに顔を近づけた。
この夜は、つくづく吉凶織り交ぜた、波乱含みの夜なのだろう。
俺の今夜の星回りは、どうやら、不安定らしい。
どれくらい走ったのか、真っ赤な高級車が、突然鈍いエンジン音を間抜けな喘鳴へと変えたのだ。
ぷすんぷすん――と、腹具合の悪い年寄りのような空気音(失礼)を最後に、車はうんともすんとも言わなくなった。
「あらら……」
ガス欠だった。
俺は、天を仰いだ。
星が、ケラケラと、笑っているようだった。
別荘地である。しかも、高原ということもあって、公衆電話の影も形もない。オレは――といえば、職業柄そうはいっていられないが、どっちかっつうと携帯は苦手だったりする。そんなわけで、怪我の療養をいいことに携帯は別荘に置きっぱなしだった。
アイリーンも、もっていないらしい。
お手上げである。
仕方ないかと、肩を竦めるしかなかった。
行き当たりばったりで奥に進みすぎたらしく、家も見当たらない。
俺は、背中を掻きながら、
「その、野宿は、だいじょーぶですか?」
そうアイリーンに訊ねるよりなかったのだ。
ジャケットをアイリーンに着せ掛け、俺は薪を拾い集めた。
幸い、野営地に最適な場所がすぐに見つかったのだ。
火の番を女性にさせるのもなとは思ったが、思っていたより俺は疲れていたらしい。裂けはしなかったが、傷口が熱を持っているのがわかった。
俺はいつの間にか、舟を漕いでいたらしい。
寝苦しさに目覚めて、俺は、俺の今の状況がわからなかった。
ぱちぱちと気持ちの好い音をたてていた薪は、静まり返っている。
代わりに、俺は、俺の鼓動を、耳の奥で聞いていた。
くちびるに、舌に、ねっとりと絡みついてくるのが、他人の舌だとわからないほど初心じゃない。だからこそ一層、俺は、混乱した。
眠る前の記憶で、俺は、アイリーンという女性を助けたはずだ。何故か追われていた彼女との逃避行――まぁ、そこまで派手ではないが。そうして、車のガス欠。
だとすると、俺のからだの上にいるのは、あの、上品そうな女性――アイリーンだということになる。
「うっ!」
女性に押し倒されているという状況のあまりさに、咄嗟に撥ね退けようとした俺は、アイリーンの思いもよらない拘束のたくみさに驚いた。
俺だって、刑事だ。体術の心得くらいある。それをいともたやすくなだめやるこの手さばきは………。
もがけばもがくほど地面に押しつけられ、アイリーンのくちびるの感触を生々しく感じた。
アイリーンのくちびるが、俺の首筋に移るころには、俺の息はとっくに上がってしまい、どうでもしてくれって気分だった。
まぁ、正直なところ、好みの女性が相手だからラッキーと思わないでもなかったし。据え膳どころか、至れり尽くせりのこの状況に、『ま、いっか』って、俺は流されてしまったのだった。それを後に厭になるくらい後悔することになるなどと、この時の俺が知るはずもない。
くちびると共に長い黒髪が、俺の胸をくすぐる。
それが、熱を持った俺の傷口に触れたとき、俺は、弾かれたように、アイリーンを押しのけようとした。
アイリーンの頭を、押したというか、下から持ち上げたのだ。
と、なにか、甲斐のない感触が手に残り、場合も忘れて俺はそれを目の前に翳した。
皓々と地上を照らす月の光に、その正体を俺は、知った。
「うわっ」
弾かれたように放り投げたそれは、俺のすぐ脇にばさりと音をたてて落ちた。
―――それ、は、長い黒髪の、ウィッグ。かつらだったのだ。
まさか………
厭な予感というか、なんというか。
女性にしては高い身長。さっきの鋭い命令口調は、やけにトーンが低くなかったか? それに、この、ウィッグ…………。
もしかして?
疑惑を疑惑のまま放ってはおきたくなくて、恐る恐るアイリーンを見ようとした俺は、自分のありさまに、思わずフリーズしてしまった。
俺は、いつの間にか、ほぼ全裸だったのだ。
フリーズした俺の脳が動き出したのは、アイリーンが俺の脚を抱え込んだのとほぼ同時だった。
「や、ち、ちょっと、めろっ」
真っ青になって下半身をひねろうとするが、がっしりと抱え込まれていては、どうにもならない。
そうして、俺が、声がかれるほど叫んだというのに、アイリーンはそのからだを、無情にも、俺の中に打ち込んだのだ。
2.リチャード
パーティーの会場は、さんざめいていた。
紳士淑女たちはあちこちで小さな群れをつくり、微笑み交わしている。
それらを私は柱の影に背もたれて、眺めるでなく眺めていた。
と、肩に、軽い衝撃を感じた。
「よっ、リック! どうした、パーティーの主賓がこんな壁の花じゃ、ホストが困っているぞ」
「退屈なんだよ、ニコル」
片目をつぶって見せる親友にカクテルグラスを押し付け、私は会場を横切った。
ニコルがついてくる気配を感じながら庭に出た私に、
「これだって、仕事だぞ」
と、ニコルが宥めようとする。
くるりと背中を返して、ニコルの顔を見、
「今日は、本当なら、休暇のはずだったんだ」
と、肩をすくめて見せた。
「これで何度休暇がバーになったと思う? いいかげん私だって休みたいんだ」
まとまった休暇のはずだったのに、このパーティーのホストのせいで、おじゃんである。まだ若い成金は、ごり押しを通して、この私、リチャード・エルムスウッドを、くだらない見栄の場に引きずり出してくれたのだ。パーティーだから楽しんでいればというが、本来なら休暇のはずのこの十日間のほぼ三分の一を拘束されて、愛想を振りまいていなければならないと思うだけで、うんざりしてしまう。
まぁ、わからないでもないがな――と独り語ちるようにつぶやいた親友に、
「だったら、協力してくれないか?」
私は、詰め寄ったのだ。
手ごわい秘書殿のおかげで、逃げ出すにも逃げ出せないのだった。
オーケー! わかりました――そういったニコルは、パーティーがひけてから、黒髪のウィッグとワンピース、それにヒールを準備してくれた。
同行していた、彼の愛妻、ニコル夫人アイリーンが、私のために彼女のワンピースを手直ししてくれ、メイクまで施してくれたのだ。
最初こそ女装までしなければならないのかと――うんざりしたが、これも秘書の目を掠めるためだと思えば楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
鏡の中には、少々大柄だが結構な美女がいた。
黒い髪は艶やかに長く背の中ほどまで流れ、長いまつげに囲まれた黒い瞳はエキゾチックだ。リップを塗った赤いくちびるは、嫣然と笑みをかたちづくる。
これなら、誰も私だとは気づくまい。
女装した私は、当初の目論見どおりまんまと秘書の目を掠め、自由を奪い取ることに成功したのだ。
真っ赤なスポーツカーは、ニコルのものだ。あいつは案外、あれで派手好きなのだ。
傷つけると嫌味を言われそうだなと思いながら、俺は、ニコルに借りておいたキィを差し込んだ。
そうして、深夜の別荘を後にしたのだった。
なんとなく、秘書殿の叫びを聞いたような気がするが、この際、無視である。
私は、アクセルを、力いっぱい踏み込んだ。
車を停めたのは、かなり別荘から離れてからだ。
間抜けといえば間抜けだが、この辺の地理には詳しくない。いや、大雑把な地理はわかるのだが。
来るのすら、運転手任せで、隣の秘書とたまっていた書類を片付けていたのだ。外を見る余裕などなかった。
(なんにしても、言い訳だな………)
要は、道に迷ってしまったのだ。
空を仰ぐと、私を笑っているかのように、ちかちかと星が瞬いている。
高原ということもあって、少々肌寒い。
ぶるりと、震えたときだった。五人の男たちに囲まれたのは。
近くに来るまで、気づかなかったとは、
(不覚……)
臍(ほぞ)を噛んでも、遅い。
やけにガタイの良い男たちは、所謂チンピラの類だった。
いつもの私なら、軽く畳んでしまうだろう。しかしヒールが邪魔をして、男たちのわらわらと絡みついてくる手を、振りほどけない。
このまま押し倒されてしまうのもイヤだが、男とばれるのも、厭だった。
そんな私を窮状から救ってくれたのが、今目の前で薪に真剣なまなざしで火をつけようとしている、ラルフ・マッカランという青年だった。
かなり、背が高い。
金髪で緑の目をした、なかなかの好青年に見える。
一見すれば、大学生くらいに見えるが、刑事ということだ。では、今は、非番か休暇なのだろう。
寒いでしょうと彼が着せ掛けてくれたジャケットをきつく掻き寄せると、ふわり――と、煙草と彼のものらしい体臭が香った。
ドクンと、ひとつ、鼓動が大きく刻まれた。
男の体臭を、嫌悪しない自分が、それどころか、せわしなくなった心臓の働きが、不思議だった。
女装をしているからだろうか? にしても、この心の動きは、奇妙だった。
炎が燃え、マッカランがにっこりと笑った。
言葉遣いのわりにはどこか生真面目そうだった表情が、とたん、印象をがらりと変える。
可愛らしい。
大の男の笑顔に感じるにはいささか不適当な感想だった。
心臓が、先ほどよりも早くなる。
そう―――――私は、ラルフ・マッカランにときめいてしまったのだ。
ご婦人方には不自由したことがない、この、リチャード・エルムスウッドが――である。
私は、心臓の主張を、認めることに決めたのだ。
ぱちぱちと、炎が気持ち好いほど乾いた音をたてて燃えている。
彼の顔を見たくて、顔を上げた。
ラルフ・マッカランは疲れたのだろう、舟を漕いでいる。
その、稚けないほどの寝顔が愛らしく思えて、私は衝動的に彼の側に移動してしゃがみこんでいた。
思っていたよりも、睫が長い。
頬のラインも、なめらかだ。
どれくらい、そうやって、眺めていただろう。
いつまで見ていても、飽きることはなさそうだった。
不意に、幾分か下がり気味の口角が、くっと上に持ち上がる。
心持ち開かれた飾り気のない素のままのくちびるが、まるで私を誘っているかのように見えた。
どれほどの時間も保ちはしなかった。私の自制心は、音をたてて爆ぜ飛んだのだ。
朝日を浴びて、金の髪がきらめく。
青白い頬が少しずつ赤みを取り戻してゆくさまを、私は心ゆくまで眺めていた。
昨夜は少し、箍が外れてしまったらしい。
ラルフが私の性別に混乱しているらしいのに乗じて、私は滾る欲望のままに身を進めてしまったのだ。
手順も何もかもをすっ飛ばした身勝手な行為に罪悪感こそ存在したが、そこに、後悔だけはなかった。
目覚めた君に、まず私の本名を、そうして、愛していると伝えよう。
たとえ、君が、少し目じりの下がり気味の緑の瞳を大きく見開いて拒絶しても、糾弾したとしても、私は君を逃がすつもりはない。
既に、君は、私のものになっているのだから。
強姦?
しかし、君は、自分が強姦されたなどと誰にも言えないに違いないのだ。
だから、そこに、私の付け入る隙ができる。
どんなに陳腐な脅しでもかまいはしない。
君は、この私を、虜にしてしまったのだから。
リチャード・エルムスウッド――を。
君も刑事なら耳にしたことがあるだろう、この国の裏側を仕切る強大なファミリーの噂くらい―――私は、そう、その、ナンバーワンなのだ。
どんな手を使っても、君を私に縛りつけよう。
泣き喚こうと、逃げようと、この私を魅了した報いは受けてもらうよ。
私は、薄く開いているラルフ・マッカランのくちびるに、そっと、自分のくちびるを落とした。
やがて目覚めるだろう彼が、その緑の瞳に一番最初に私を映すように。
3.ラルフ
息苦しさに身じろいで、俺は痛みに呻いた。
厭な箇所に感じる痛みだった。
そうやって目覚めた俺は、至近距離過ぎてかえってぼやけている黒いまなざしを見出すことになった。
恐いほどに黒い一対の瞳が、俺を凝視している。
俺は、魅せられたように、底知れぬ闇のような視線を受け止めるよりなかったのだ。
永劫と思える時間、俺はただなすすべもなく、アイリーンと名乗った男に組み伏せられ続けていたのである。
おわり
up 21:53:28 2009 01 25
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