物狂い



 その館を見たとき、大江真澄はその大時代的大仰さに目を見張った。
 世紀を経巡った(へめぐった)かのようなその洋館は、一種独特な雰囲気をかもしている。
 石造りの壁に罅割れのように走るのは、次の生に備える、蔦科の植物の茎であった。しかし、うねうねと絡みつくそれは、次の世の生など信じておらぬものの姿のように萎び、枯れはて、寒々しい印象を見るものに与えていた。

 大学時代の友人からの、一年ぶりの手紙が、真澄をここまでいざなった。

 高階矢寿馬(たかしな やすま)は、地方の素封家(そほうか)の跡継ぎである。いや、あった。
 父方の血なのかか母方の血なのか、かつてのロシアの貴族の血を引くという彼の美貌とその尽きぬ財力には目を見張るものがあり、幾多の男女が彼の周囲には常に群がっていた。
 しかし、矢寿馬には妙に冷めた部分があり、彼自身が進んで交友を持ったものは、真澄の知る限り、彼女以外には存在しなかった。
 もっとも、矢寿馬の友好は淡白に過ぎ、真澄は幾度も戸惑いを覚えたものだ。
 それでも彼女は、矢寿馬とつきあいつづけた。それは、矢寿馬が時折見せた、やさしさや彼の冷たい美貌に一瞬にしてのぼり、次には消え去る笑みのためであったろう。
 しかし、つき合いながらも、自分と矢寿馬との間にあるものが、決して恋愛感情などではないと、真澄は知っていた。
 矢寿馬との友好は、ボールペンで一本の線を引きそびれたように、切れたと思えば、不意につながる。そういうものだったのだ。

 頭上には糸杉と冬の曇天がのしかかるばかりにかしいでいる。
 門衛の開いた青銅の門扉から車を入れ、彼女は館に圧倒された。
 今の日本に、こんな館など維持するだけでも至難の業に違いない。
 石造りの、いくつもの尖塔が聳え雨どいがわりのゴーレムたちがあまた天を仰ぎ悲嘆にくれる、古めかしいゴシック様式の館であった。
 玄関の扉が重々しく両側から開かれ、初老の男性が姿を見せる。
 ずらりと両側に並んだお仕着せ姿の使用人たち。その中から進み出て執事であると自己紹介したそのさまは、笑い話のネタにでもなりそうなくらいのものであった。
 三階まで吹き抜けになっているホールから導かれるままに行くと、二階の一室に通された。
 うっすらと埃をかぶったような家具調度が、使用人の数とあまりにも不釣合いだった。
 美術愛好家が見れば噴飯ものの絵画や彫刻やブロンズ作品の取り扱いは、おそらくは矢寿馬自身の興味の喪失によるものなのだろう。
 それだけでも考えられないことであった。
 大学時代矢寿馬が暮らしていた、目玉が飛び出るほど高価なマンションの部屋部屋の整然とした秩序とはかけ離れた乱雑さだった。
 そのため、そこが矢寿馬の居間であると気づくのに、時間がかかった。
 部屋の奥の扉から矢寿馬が現れなければ、もう少し時間がかかったろう。
 矢寿馬のようすにはあまり変化は見られなかった。強いて探せば、目の下の隈や、目の色の微妙な違和感に気づいたかもしれない。
 しかし、彼女は、久しぶりの矢寿馬との再会に、それら、ささいなものに気づくことがなかったのだ。
 ひとしお音信普通のあいだの出来事を語りあい、ふたりが息をついたとき、館の奥からなにかの壊れる派手な音が響いた。
 矢寿馬の顔が青ざめる。
 あまりにすみやかなその変化に、彼女が戸惑う。
 立ち上がろうとする彼女を動作でとどめ、矢寿馬は立ち上がった。
「心配ない」
 そう言ってそびらを返した矢寿馬の顔には、ありありと苦痛の色がにじんでいた。

 真澄は、庭を散策していた。
 午前十時を過ぎたというのに、矢寿馬はまだ眠っているのか、部屋にこもっている。
 部屋の方向に目をやったが、矢寿馬の部屋の窓はカーテンに覆われたままだ。すぐさま視線を返す。
 そのとき、近くで呼ぶ声が聞こえた。
 すぐ脇の腰までの高さの茂みから、ひとりの少年が現れた。
 学生服を着ているところを見れば、中学生か高校生といったところだろう。背は彼女と同じくらいだから、それほど高くはない。しかし、まだこれから伸びるだろう。まだあどけない幼さが顔に残っている。
「ここのお客さんだろ? 瑞貴元気してっかな?」
「みずき?」
「ここんちの次男だよ。この一ト月ぜんぜん学校に来ないしさ、みまいに来ても門前払いなんだ。……くさっちまうよなぁ…………。休む前からなんかあいつ変だったんだ。いつもみたくオレの冗談にも突っ込まなくなってさ。なんか、オレ、瑞貴のことが心配で」
 足元の土を蹴りながらぶつぶつ言っている少年が、ことのほか可愛らしく思えたのは、ここのところ矢寿馬とばかり顔をあわせていたからだろう。
 そういえば――と思い出す。
 矢寿馬にはたしかに弟がいた。
 一度写真を見せてくれたことがあり、その記憶を頼りにすれば、今、十五か六くらいのはずである。
 写真を見せてくれたときのようすから、矢寿馬の弟に対する溺愛ぶりをはかったものであった。
 何をおいても紹介してくれるだろう弟を、矢寿馬は、口にすらしない。
 おさまりの悪い、いやなものが、腹の底に重くわだかまる。
 自分をじっと凝視する少年に、ようすを聞いておくよと約束し、真澄は少年の背中を見送った。
 その夕方、食事のテーブルで、
「矢寿馬、そういえば、弟さんがいなかったっけ」
 遠まわしに探りを入れるのは、得意ではない。だからといって、ストレートすぎたかと、凍てついたようなその場の空気に、後悔する。
 沈黙は、あらかさまに肯定の意味を含んでいた。
 矢寿馬の後ろに控える執事の肩のあたりが、硬く引きつっている。
 しばらくの後、
「ああ。病気が治らなくて、ひとにはあわせられない」
 矢寿馬の声は、低く軋むように重いものだった。
「そんなにひどいのか?」
「まぁ、そう……だな」
 凝った沈黙が再び流れてとぐろを巻いた。

 夜。
 十六夜(いざよい)の月が煌々(こうこう)と地上を照らす。
 糸杉のシルエットがカーテン越しに不気味に覆いかかってくる。
 ひたひたとひとの足音がしじまを破る。
 複数の足音は、思い返してみれば、彼女がやってきたその夜にはすでに特定の時間に響いていたような記憶がある。ただ、彼女が気にしなかったというだけにすぎない。
 素足に靴下を履き、彼女はパジャマの上にガウンを羽織った。
 足音をしのばせ、そっと先行する足音をたどる。
 地下に向かっているのだろうか。
 地下には霊廟があると矢寿馬が言っていたのを思い出す。
 その場の雰囲気に呑まれた無気味な想像に、背筋が逆毛立(そそけだっ)たそのとき、彼女の目の前に古い回廊が現れた。
 かなたに、シルエットがふたつ。
 矢寿馬と執事のものである。
 回廊は、月光に白々と照らされた庭を突っ切っていた。
 ふたつのシルエットは、黒い不吉な影を白い回廊に引きずりながら、突き当たりの扉に消えた。
 しばらくして、最初の日に彼女が聞いたのと同じ、なにかの派手に壊れる音がしじまを引き裂いた。
 豪華な飾り彫りの施された、重々しげな扉が目の前にあった。
 閉て切られていなかったのか、細い糸目ほどの隙間が、扉のあわせにできていた。
 不安という名の誘惑に勝てず、彼女は、隙間から覗き込んだのだ。

 床一面なにかの破片が散らばっている中に、矢寿馬と執事の立ち尽くす後姿があった。
 声は聞こえない。
 やがてふたりが踵を返したのに、あわてて柱の陰に身を隠す。
 見てはいけないものを見たのだと、本能が悟っていた。
 ふたりが彼女の隠れる柱の前を通り過ぎる刹那、
「ロトの罪は、やはり罰せられるのだ」
「神などおりませぬよ、旦那様。大丈夫でございますとも」
 ふたりの背中を見送りながら、彼女は、彼らの会話を反芻していた。

 ロトの罪――――
 彼女も彼も、ミッション系の大学を卒業している。信者であろうとなかろうと、キリスト教の教義などは必須科目だった。だから、聞いた記憶があったのだ。ただはっきりと思い出せないだけで、ぞわぞわとした不快な印象だけが記憶の底に滓のようにたまっている。それだけの、知識の断片にはすぎなかった。
 まさか矢寿馬に訊ねるわけにもゆかないだろう。
 在学中必須授業のキリスト教概論に悩まされた挙句、さんざん『キリスト教なんて〜』と喚いていた自分が突然聖書を貸してなどと言い出せば、変な顔をされるだろう。
 奥歯に挟まった魚の骨のような忌々しさに、自棄半分タバコをふかしていた。
 結局禁煙も、三日目でポシャってしまった。
 紫煙と呼ばれる白い煙が、天井に向かって伸びてゆく。
「退屈しているな」
 その一言で、真澄は現実に立ち返った。
 ここは、矢寿馬の居間だった。
 矢寿馬が静かに見つめてくる。
 アナログの音が好きだと言っていた矢寿馬にふさわしく、レコードが弦楽の響きを奏でていた。
 ひとのすすり泣きにも似た物悲しい楽器の音色が、まるで、矢寿馬自身のものであるかのようだった。
「そうだ――ね。矢寿馬、何を隠している? 相談したくて呼んだんだろ。いつものように、聞くだけならできる。それでいいなら言ってみるといい。気が楽になるなら、な」
「君らしい言い方だ。確かに、気は楽になるだろう。だが…………」
「言うといい。すぐに忘れる」
「………ロトの罪さ。少し違うかもしれないが、やはりそんなものだろう。我が家の家系は、それで言うなら、罪人(つみびと)の家系だ。自分の代で、それを断ち切ろうと思った。父の苦しみも母のそれも見てきたから、そう決意していた……」
 矢寿馬は、手にしていたグラスにウォッカを注ぎ足した。
 無色透明なアルコールが、切子グラスの底に溜まる。
「酒のうえでの冗談だと――そう思ってくれ」
「わたしにもくれないか。付き合おう。そのほうがいいだろう。ついでくれ」
 度数の高い液体を喉の奥に流し込む。
 焼けつくような熱が、彼女の意識を半ば爛れさせた。
「準備、オーケイだ」
 しばしの逡巡。
 物悲しい弦楽器の、掻きむしるような旋律。
「私は、一ト月ほど前、弟を、抱いた」
 刹那、矢寿馬が瞑目し、見開く。
 声をなくした彼女の目の奥を覗き込み、自嘲気味に、
「言い訳をしたところではじまりはしないとわかっているつもりだが、無様だな。あれ以来、瑞貴の心は壊れた。いや、壊れたふりをしているのか。昨晩見ていたろう? あの部屋に閉じ込めている。私のことを、兄に憑りついた化け物だと思い込もうとして、口も利かない」
「なぜ」
「些細なことだよ。他愛のないことが、思った以上の衝撃になった。自分がこんなにももろいとは、呆れてしまうくらいだ。……がラブレターをもらった。ただそれだけのことなんだ。うれしそうに、照れくさそうに、笑っている瑞貴を見て、許せないと、そう、思ってしまった」
 もう一度グラスに注いだウォッカを、矢寿馬が飲み干す。
「私は、こんなにも、実の弟に対する独占欲や肉欲、そんな汚いもろもろの感情を必死になって押し隠しているというのに、叶えてはいけないと、毎日のように心に刻み続けているというのに、ただひとり、何も知らないで……。そう、あれには、我が家の家系の淀んだ血のことは、話さないようにしていたからね。だから、あれは、何も知らない。何も知らないままで、この血から、自由になれる。私から、遠く離れてゆく。清らかなまま、私の苦しみなど、気づかないまま。そう思うと、もう、抑えきることができなかった」
 これがあの矢寿馬かと思わずにいられないほど、憔悴しきった表情で、真澄を凝視した。
「この手、この手で、瑞貴を押し倒し、押さえつけた。服を破り、思いのたけを伝えようと、ケダモノになった」
 矢寿馬は、自嘲に口を歪めた。
「あれは、愛じゃない。あれは、ひとりだけ逃れられるに対する、憎しみだった。殺したいほどの、憎悪だ。そうして、自分もこうであれば、どんなに幸せだったろう―――そんな、憧れだ。そう、瑞貴を貫いたのは、憎悪と、憧憬だった。愛情など、どこにも、ありはしなかった」
「………でも、殺さなかった。それは、愛じゃないのか」
 哀れなほどに歪んだ矢寿馬の顔が、かすかな笑みを刻む。
 それは、心和ませるものではなく、あきらめの表情だった。
「違う……。あれを抱くとき、私は呪詛のように、穢れはてた血だと、罪人だと、ささやきつづけた。逃げられただろう、弟を汚し、同時に、止めを刺したのだ。だから、」
「狂った?」
「そう! いや……。狂ってなどいない。瑞貴は……」
 矢寿馬の、色の薄い瞳が、宙をさまよう。
 狂っているのは、狂いかけているのは、矢寿馬、君のほうだ。
 そうして、瑞貴は………。
   真澄の脳裏に、昨夜の光景がよみがえる。
 ふたりを見送り、真澄はあの部屋に入り込んだ。
 鍵などかかってはいなかった。
 否。
 かける必要などありはしなかったのだ。
 散乱しているのは、花瓶のかけら。古いのと新しいのが、おびただしいほど床に散らばっていた。
 そうして、まだ新しい白バラが、そこを巨大な棺のように見せていた。
 瑞貴はおそらく、自身、いのちを絶ったのだ。
 まるで眠っているようにベッドに横たわるのは、少年の骸(むくろ)だ。
 その手首の包帯が、彼の死因を暗示していた。
 真澄が矢寿馬に招かれてこの館を訪れていくらも経たぬうちに、散らばる花瓶の破片で手首を掻き切ったのに違いない。
 遠く響いてきた、なにかの壊れる音、そのひとつは、瑞貴のたてたものだったのかもしれない。
「思い出すんだ。あせらなくていい」
「いやだ」
「矢寿馬」
「いやだ」
「瑞貴くんは、君の弟は、」
「聞きたくない!」
 荒く上下する肩を抱き寄せ、真澄は頑是無いこどものように首を振りつづける矢寿馬の耳に、
「君の弟は、死んだ」
 ささやいた。
「死?」
「そう」
「弟………みずきが?」
「そうだ。もう、生きていない」
 その瞬間の、矢寿馬の空白の表情を、真澄は、一生忘れることがないだろう。
「死んだ………」
「そうだ。もう苦しんでいない」
「なら、私は、取り残されたのだね」
 くすくすと笑う矢寿馬に、後頭部が、ヒリリと痛む。
「矢寿馬?」
「そうだった。あれは、自分で、手首を切ったんだった」
 歌うように、矢寿馬がつぶやく。
「ぱっくりと縦に開いていた傷口には、べっとりと血がこびりついていて、てらてらと光っていたっけ」
 骨だけが不思議と白くてね………。
 やはり笑いながら付け足す矢寿馬に、思わず、後退さる。
「ひとりだけ――じゃ、あれも寂しいだろう」
 だから―――そう言いながら、矢寿馬の手が、彼女の首に伸ばされ、そうして、力を籠めた。



 もうもうと立ち込める煙。
 赤黒い炎が、屋内を舐める。
 いがらっぽさに目覚めた真澄は、喉の痛さに咳き込み、周囲の状況に、呆然と言葉を失った。
「矢寿馬?」
「執事さん?」
 よろめきながら部屋を出ると、そこにいたのは、矢寿馬だった。
「ああ、気がついたんだ。これから起こそうと思っていたんだ」
 そう言って笑った矢寿馬の表情は、いたずらっ子のようで、まだ悪夢がつづいているのだと、いやおうなく実感する。
「君が行っても、瑞貴には誰かわからないからね。だから、私が行ってやることにしたよ。君は、家にお帰り」
 そう言って、矢寿馬は、彼女を、突き飛ばした。
 なにかの冗談のように、大きく口を開けた窓から、植え込みの上へと、真澄は突き落とされたのだ。
 痛みから立ち直った真澄が二階を見上げたとき、すでにそこに矢寿馬の姿はなく、廊下ごと階段が崩れ落ちた。
 豪華な荼毘だった。
 真澄は、すでに逃げ出していた使用人たちとともに、館の崩壊を見守るよりなかったのである。

おわり

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