辺境の春は遅い。
名残の雪が虫干しの綿のようにあちこちに点在する野原で、僕はそのひとに出会った。
そのひとがこんな辺境に来るなんていうことはとても珍しいことで、多分、里のほうでは噂で持ちきりだったのかもしれない。
けど、僕ら家族は知らないことだった。
僕ら家族――父と母と兄の四人家族だ――は、入り組んだ国境近くの森の中に暮らしていて、人里にはあまり近づかなかった。
元々僕らは流れの民で、二年をかけてこの近辺の国々を廻っては金を稼ぐという生活をしていたらしい。
らしい――というのは、僕が物心つくころには僕ら家族は既にここで暮らしていたからで。僕が聞いたのは、からだを壊した父のために地に根を下ろした生活を決意した母が選んだのがこの地だったということだけだ。
僕らは、父のために静かな生活を送っていた。
無理をしなければ普通の生活ならできるものの、旅から旅への生活は父のからだには負担が大きすぎる。だから、父は元々得意としていた木彫りを生活の道に選んだ。父が作った品物を村や町で売るのは母の仕事だったから、僕と三つ年上の兄とはふたりして家のこまごました家事をこなしていた。
その日、僕は野原に芽を出しているだろう春の野草を摘みに出かけていた。
くせの強い匂いと噛んだ途端口いっぱいに広がる苦味が僕は苦手なんだけど、父と母の好物なんだ。沸騰する湯に塩を入れて軽く湯がいたそれを刻んだものを、潰した芋にまぜて味を調えたり、ソースに混ぜ込んだり、調理をするのは兄さんだ。
味を想像するだけで顔をしかめる僕を、ガキの味覚だな――と兄さんがからかうのが、春一番の恒例行事だったリする。
今日がその日なんだろうなぁ。
そんなことを思い描きながら、見つけた野草を摘もうとしゃがむ。
ああ、あっちにもあるな。
ここにもあるじゃん。
夢中になって摘んでた。
塩を揉んだら保存もきくし。僕は苦手だけど、結構重宝する食べ物なんだ。
背負ってた籠がいっぱいになって、僕は一息ついた。
腰と膝を伸ばそうとしたときだ。
なにかが、僕の膝裏にぶつかってきたんだ。
それが、モロ膝裏でさ。僕はその場で転んだんだ。
籠の中身は散らばるし、服は汚れるし。
いったいなんなんだ――――――って、顔とかについた泥を擦ってる僕の目の前でもがいているのは、矢を背中につきたてられた、イノシシだった。
転ばされるだけですんで良かった。ひずめで蹴られてたら大怪我か、下手したら命がなかったよななんて思えばこそ、この状況のやばさが身に染みてくる。
それは、僕にとっては、不運極まりないことだった。
猟犬の声が、遠く聞こえる。
逃げないと。
それは、間違いなく、条件反射だ。
手負いのイノシシなんて、危なすぎる。森や山で出会って一番怖いのは、盗賊は別として、クマ、オオカミ、イノシシだろう。その上手負いともなれば、言わずもがなだ。
その証拠に、僕を見ているイノシシの両目は、怒りで燃えるようだ。
折った膝で、起き上がろうと泥を掻いている。
イノシシの怒りが僕に向けられている。ただその場に立っていただけで。
イノシシは、矢で射られたことなどよりも、きっと、その痛みだけが腹立たしくてならないのだ。そうして、その怒りを誰かにぶちまけたくて、この場に居合わせた僕に白羽の矢がたったってことなんだろう。
幸運が二度もつづくとは思えなかった。
逃げよう。
覚悟を決めた。
けど。
心とからだは別物だった。
僕はその場に貼りついたみたいになって、動けなかったんだ。
どうも僕は、いざって時に弱い性質らしい。間抜けというか、へたれてるというか。十三にもなって自分でも情けないなぁと思うんだけど、生まれ持ったものなのだとしたら、どうしようもない。ほんとうに―――。
目の前でイノシシは怒っている。
僕に向けられている怒りが、痛いくらいだ。
イノシシに殺されるのは厭だなぁ。
馬鹿みたいに、そんな場合じゃないのに、そんなことを考えてた。
それでも、逃げたくてたまらないんだ。
背中が冷たい。
必死だったんだ。
どうにかして。
ようやく一歩後退できたけど、尻もちついたら、洒落にならない。
荒い息をつきながら立ち上がったイノシシが、迫ってくる。
たまらなくなって、目を閉じた。
イノシシの牙が、右腕をかすめる。イノシシが地面を蹴立てる凄まじい音と風圧とが、僕に襲い掛かる。
その時になって、やっとだ。
遠く聞こえていた猟犬の鳴き声が、興奮して荒い息が、僕の周囲に渦をなした。
それは、心強い盾だった。
涙でかすんでいる視界に、斑模様の犬が何頭もいて、イノシシを囲んでいる。けどイノシシは、犬を蹴散らしそうないきおいだ。
立たないと。
一難去ってまた一難って感じだ。
何でって。
腰が抜けたんだ。
焦ってた。
何度も踵で地面を蹴ったけど、どうやっても立ち上がれないんだ。
そうやってもがいてる僕の後ろから、
「なにをしている」
平坦な低い声が降ってきた。
艶光する黒い馬の背から、そのひとは僕を見下ろしている。
その黒い目が、つまらなさそうに、僕を見ていた。
狩り装束の男たちが、慌てたようにたくさん駆け寄ってくる。
そうして、僕とそのひととの間に割ってはいった。
それは、そのひとを守るためのようだった。
僕の目の前に、男が三人立ちはだかって、残りの七人はそのひとを取り囲む。
残る五人が、イノシシを片付け、縄をかける。
イノシシは運ばれてゆき、僕も、彼らに引っ立てられるようにして、彼らが張った天幕へと連れて行かれたんだ。
僕の家がすっぽり入るくらいの天幕の中は、贅を凝らしたものだった。
見たことのないきれいな物がたくさん、ただ狩りをするためだけに張られている野営用の丈夫な布の中に、据え置かれている。
地面に敷かれた敷物は、まぁ、まだ寒いし、濡れた地面にじかに座りたくないと思えば当然だろうけど。でも、椅子を使ってるし。わざわざ持ってくるのが凄い。それにしても、やけに肌触りのいい絨毯を何枚も重ねているのは、無駄というか、もったいない気がしてならなかった。
まぁ、そのおかげで、後ろ手に手首をひとまとめにされてその場に押さえつけられてても、僕も、ごつごつとした感触に顔を擦り付けることがなくてすむんだけど。
そんなことをぼんやりと思いながら、でも、絨毯の感触を楽しむ余裕なんかあるはずがない。
身分の高いひとたちが猟をしている場所にまぎれこんでしまったのだということが、わかったからだ。
彼らの楽しみを台無しにしてしまった罰を、受けるんだ。
どうなるんだろう。
なにをされるんだろう。
全身の震えは、再開していた。
脂汗はひっきりなしで、寒い。
いったい、今日はどうなっているんだろう。
思いすらしない成り行きに、僕の心臓は慌てっぱなしだ。
イノシシも恐ろしかったけど、この男たちも同じくらいに、もしかしたらイノシシなんかよりも、もっとずっと怖いのかもしれない。
僕の目の前には、あの時つまらなさそうに僕に声をかけた男のひとが、椅子に腰を下ろして、やっぱり、僕を見下ろしている。
父さんよりは若いだろう。
だとすると、三十台くらいなんだろうか。
男らしく整った顔立ちは、硬く引き締まって、少しの甘さもない。眉間に刻まれてる深い皺と、への字に結ばれたくちびるとが、男からそんなものを総て奪い去っているみたいに思えた。黒く形の良い眉の下の鋭いまなざしが、僕を怯えさせる。
「なぜ、あんな場所にいた」
声は、男の右後ろに立つ男のものだった。
男はただ、黙ったまま僕を見ている。相変わらず、興味はないのだが、視線が向くのが僕のところだから仕方がないとでもいった雰囲気で、椅子の肘掛に頬杖をついている。
訊かれたことに僕は、必死に答えた。何度もつっかえたけど、わかってもらえないとどうなるかわからない、そんな怖気があったんだ。
「………………いいだろう」
領主殿からの通達があったとは思うがな。
不満そうな口調だったけど、どうにか信じてもらえたらしい。
ホッとした僕の耳に、
「それは、何だ」
やはり右後ろの男だった。
椅子に座る男は、もう、僕に興味がないことを隠すようすも見えない。運ばれてきた何杯めかの杯を干して、戻していた。
男が指差したのは、僕の首からぶら下がっている皮袋だった。
―――お守りだからね。開けちゃ駄目だよ。
母さんに言われたことを、僕はずっと守ってきた。
―――開けると、お前の身に災いが降りかかるからね。
滅多にすることはないけれど、母さんの占いは、よく当たるのだ。
だから、皮紐は何度か変えたけど、それでも、袋の中を覗いたことはない。
「毒ではあるまいな」
再び男たちが色めきたつ。
あんまりな言いがかりに、僕はもう、恥も外聞もなく、泣きだしてしまいそうだった。
首を振る僕から、それをもぎ取るのは、男たちにとってはあまりに容易いことだったろう。
僕はどうあがいてもまだ十三の非力なガキでしかないのだから。
からだを鍛えることよりも、家の中で木切れに細工をすることのほうが好きなんだ。
僕の夢は、父さんのような細工師になることなんだ。
男が僕の目の前で、さかしまにして皮袋を振った。
しゃらりとかすかな音をたてて、なにかが流れ星の尾のように光った。
そうして絨毯の上に転がり落ちたものを、僕は、呆然と見ていた。
「私が」
皮袋を取り上げた男の声よりも、椅子に腰掛けている男のほうが、すばやかった。
男が拾い上げたものは、繊細な金の鎖が通された、金の指輪だった。もしかしたら純金なのかもしれない。細かな彫が施された深い色調の金の輪の真ん中に、大人の親指の爪ほどもありそうな深紅の石が嵌っている。それは、僕なんかじゃ一生かけても持てないような、信じられないくらい立派な指輪だったんだ。
男の黒い瞳が、信じられないくらい大きく見開かれていた。
ざわめきが、やまる。
つまらなさそうだった男の瞳に、光が宿った。
射るように、僕を見る。
頭の天辺から足指の先までを、まるで解剖でもするかのように、じっとりと眺めてくる。そうして、僕と、指輪とを、何度も、見比べるのだ。
永遠と思えるほどの時間に思えた。
もちろん、実際はそんなに長いはずはないんだけど。
静まり返った周囲も、指輪の意味を知っているんだろうか?
疑問が不安へと変わってゆくのに充分な、沈黙だった。