可哀想な王妃様のはなし





 昔々あるところに、公爵家のご子息がおられました。ごくごく平凡に育てられたご子息は、当然のように世間知らずの坊ちゃんで、毎日を、彼にとっては普通に暮らしておりました。坊ちゃんの名前を、ラクランといいました。
 さて、ラクランくんは平凡な少年でしたが、彼の国というのが、少々平凡とは言い難いお国柄でありました。なぜなら、国王さまが、魔王さまで、国の中には魔女や魔物、妖精や妖魔といった存在がゴロゴロしている、なんでもありな国だったからです。
 どこにでもいるような少年のラクランくんでしたが、たったひとつ、他とは違うことがありました。
 ラクランくんの恋人は、人魚姫だったのです。そう。上半身は人魚で、下半身が魚の、決して逆ではない、美しい海の妖魔です。
 しかし、これに、彼の両親はよい顔をしませんでした。なぜなら、ふたりの跡継ぎは、ラクランくんだけだったのですから。そうして、こういうことは、えてして常識どおりに運びます。所謂お約束というヤツですね。歳若いふたりは、周囲の反対があればあるほど、頑なになってゆきます。もはや、互いの目には、相手しか映らないようなありさまで、これには、公爵夫妻も、お手上げ状態だったのです。
 ところで、このたび魔王さまの、ン百歳ともン千歳とも噂される、誕生パーティーが、王城でおこなわれる運びになり、国中に布礼が回されました。
 これはチャンス―――と、公爵夫妻は、息子にこう言いました。
「ラクラン。おまえももうじき十七才になる。人魚の娘をどうしても妻に迎えたいと言うなら、ふたりして魔王さまの城へ行って、人魚を人間にしてもらいなさい。そうすれば、私たちは、何も言いませんよ」

 ――――――そんなわけでしたので、ラクランは、人魚姫と連れ立って、魔王さまの城へと、公爵夫妻よりも一足はやく、旅立ったのでした。

 慣れない人間の衣装を身につけた人魚姫は、時々窮屈そうにしていましたが、ラクランくんがなにくれなく世話を焼くのです。
 甘い甘いひと時が、馬車の中に流れておりました。しかし、ふたりは、まだ、手を触れ合わせるのがやっとの、初心な恋人たちでありましたので、後ろの窓から中を見てしまった従者など、気恥ずかしいやらまどろっこしいやらで、顔が赤らむくらいでした。

 魔王の城の大広間は、たくさんの綺羅をまとった人々で埋まっておりました。とはいえ、そのうちの幾人が純粋な“人”なのかは、知らぬが仏、言わぬが花。盲亀の浮木優曇華の花。

 ラクランくんは、何しろ公爵家の子息でありましたので、広間でも玉座にかなり近いところに場所が与えられておりました。隣には、もちろん人魚姫と、両親がいます。
 人魚姫は、何しろ下半身が魚のままですので、ラクランくんの腕に縋るようにして立っているのが、やっとです。
 そうこうするうちに、侍従がラッパを高らかと吹き鳴らしました。
 いよいよ魔王さまのご登場です。
 ラクランくんと人魚姫とは、手と手を強く握りしめあいます。
 堂々と現われた魔王さまが、玉座につかれますと、どこからともなく人々の手元にグラスが現われました。それを手に、人々が魔王さまの誕生日を寿ぎます。
 魔王さまが礼を述べられ、グラスを高く掲げました。
 チン!
 涼やかなクリスタルの音色が、しばしの間、大広間に響きます。
 ラクランくんと人魚姫とは、ドキドキと緊張していました。
 タイミングがつかめないのです。
 下手なタイミングで言うと、礼を失いそうですし、下手をすれば、無礼者です。
 そんなふたりのようすを、公爵夫妻は、横目で伺っておりました。何しろ相手は国を統べる魔王さまですから、何百年も前に一族の誰かが魔王さまの血を受けて授かった公爵の位など、既に薄まった血の前には、はかないもの。息子が失態をやらかさないか、こちらも、表には現さないものの、緊張しきっていたのでした。
 魔王さまへの贈り物の数々が披露され、いよいよパーティー本番です。楽隊が、これまでの荘厳なものとは違った、軽快なワルツを奏ではじめました。
 玉座から魔王さまが、ゆっくりと下りて来ます。
 まずは、魔王さまが一曲目を踊るのです。しかし、魔王さまには、お妃さまはもとより婚約者の姫君もおられませんでした。ですから、一座から、パートナーを選ばなければならないのです。
 ゆっくりゆっくり、魔王さまの靴音だけが、オーケストラの音色に混ざって聞こえていました。と、ふと、その足が、ラクランくんの前で、ぴたりと止まったのです。
 臣下の礼をとっていたラクランくんの前に、手袋に包まれた、魔王さまの手が伸べられています。
「へ?」
 これには、誰もが驚愕を隠せません。大広間に、ざわめきが、小波だちます。
 なんでもありのお国柄とはいえ、さすがに、ダンスの相手などものごとには、女性を選ぶのが暗黙の了解という、時と場合などが存在します。それを無視しての魔王さまの行動です。
 ラクランくんが、妙な声を出したとしても、この場合咎めだてされることは、まずないと、断言できるでしょう。
「お相手を」
 けれど、そう乞われて断れるわけもなく。――なにしろ、お相手がお相手ですからね。ラクランくんは、戸惑いながらも、周囲の視線を痛いほどに感じながらも、魔王さまの掌に、手を重ねるよりなかったのです。
 さて、これが合図となり、一同が、ふたりを残して、引き潮のごとくさがります。
 ワルツの音がひときわ大きく奏でられはじめた大広間で、わけがわからないまま、ラクランくんは、魔王さまのリードに従うよりなかったのでした。

 そうして―――――

 曲が終わった後も、魔王さまはなぜかラクランくんを離そうとはせず、玉座まで連れ戻ってしまいました。これには、誰も彼もが唖然としましたが、魔王さまを相手に、なにが言えたでしょう。
 どこかしらぎこちない空気のまま、人々は、ダンスに興じはじめました。
 こうなると、可哀想なのはひとり取り残された人魚姫です。なにしろ、海の中では仲間達と自由に踊ることが大好きな人魚姫でしたから、こんな場で、壁の花では、つまらなさ過ぎます。それも、ラクランくんが隣にいてくれればどうということもないのですが、それは、いまや、不可能なことで。人魚姫は、ひとり、壁際のソファに腰を下ろして、ダンスの誘いに、悲しそうに首を横に振り続けていたのでした。
 ぼんやりと、人魚姫は、玉座を見上げます。
 ちらちらと、ラクランくんが、自分を見ているのが、わかります。
 悲しくて、淋しくて、何よりも、魔王さまに、逆らえない自分に、そうして、逆らおうとしないラクランくんに、人魚姫は、しだいに腹立ちを覚えはじめていたのです。
 そのタイミングで手を差し伸べてきた男の、屈託のない笑顔に惹かれて、
「人魚だから、踊れないのです」
「なんだそんなことか。なら、ここではつまらないでしょう。庭にでも出ませんか」
 男は、そう言うと、うなづいた人魚姫を軽々と肩に抱き上げたのでした。
 ラクランくんは、魔王さまの隣からこれを見ていて、慌てました。
 相手が魔王さまだということも忘れ、玉座を駆け下ります。
 その時、ラクランくんは、片方の靴が脱げたことに、気づかなかったのです。

 しょぼくれたラクランくんのもとに、魔王さまの使者が来たのは、その次の日でした。
 百年の恋も覚めた――――と、人魚姫にふられたことがショックで、ラクランくんは、まだ、ベッドの中でした。
 ラクランくんのご両親の内心は、複雑です。人魚姫とご子息とが別れたことは、諸手を上げて喜べることではありましたが、ラクランくんの昨夜の行動は、彼らの心を痛ませるのに充分だったからです。なにしろ、ラクランくんは、彼の名を呼ぶ魔王さまを無視して、人魚姫を追いかけたのですから。
 ですから、魔王さまの使者の中に、魔王さまご本人を見つけられたときのふたりの心は、想像ができないほどに怯えていたに違いないのです。
 急いで呼ばれたラクランくんは、白いすとんとした寝巻き姿で、近衛兵たちに囲まれて、今にも腰をぬかしそうになりました。
 初恋が粉々に砕けたことなど、瞬時にして、時の彼方に飛んでいってしまいます。
 声も出せずにいるラクランくんの目の前に、昨日、ラクランくんの足から脱げた、靴が、恭しくクッションの上に乗せられて、差し出されました。
 近衛のひとりが、
『この靴がぴたりと足に合うものこそ、魔王さまのお妃さまである』
と、巻物を棒読みします。
 もはや、ラクランくんの頭は、真っ白です。
 足に合うも何も、その靴が自分のものであることは、あまりに明白で。
 では、自分は、魔王さまのお妃なのか?
 男なのに?
 とか、ぐるぐると、それだけが、意味を捉えられることもなく、頭の中で、まわっていたのでした。
 動けずにいるラクランくんの足に、靴が、履かされます。
 ぴたりと合うのは、当然のこと。
 しかし、周囲は、
『おお!』
と、様式美のように、驚いて見せ、あまつさえ、
『あなたこそ、魔王さまのお妃さま』
と、声高に宣言されてしまったのです
 悠然と現われた、魔王さまが、靴をはくためにソファに座らされたラクランくんの手を取って、くちづけを落とします。
 結婚してください――でも、
 愛しています――でもなく、
『おまえは私の妃だ』
と、既に、魔王さまの中では、決定されている事項を告げるのでした。
 公爵夫婦が、手を取り合います。跡継ぎはいなくなりますが、考えてみれば、息子が玉の輿に乗ったのは、間違いありません。色々変則的ではありますが、名誉なことには違いないのです。
 近衛たちも、手を叩き、おめでとうございます――と、繰り返します。


 そうして、拒否するタイミングもなにもかも、すべてを取り払われてしまったラクランくんは、そのままずるずると、意に沿わない結婚式の日を迎えてしまうことになるのでした。


 ウェディングベルが鳴り響き、周囲からお妃さま万歳と、声が波になるなか、まだ、現実を把握しきれずにいるラクランくんだけが、周囲から取り残されていたのでした。


おわり

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