桜 降る




「姫っ」
 若武者が、声を張り上げる。
「うさみっ」
 長い髪も美しい歳若い姫が、繊手を若武者へと伸ばしていた。
 寺に参詣の途中だった。
 麗しい姫の、母親が、病に倒れた。
 母親の信心する御仏に縋ろうと、姫君が参詣をはじめて、今日で満願の日を迎えるはずだった。
 美々しい牛車が、打ち倒され、あちこちで、姫の侍女が、悲鳴をあげて逃げ惑う。
 警護の武者らは、皆、突然の強襲に必死の形相で応戦している。
 若武者も、そのひとりだった。
 若武者の名を宇佐美芳影うさみよしかげという。彼は姫の亡き乳母の末息子、所謂、乳兄弟に当たる。
 鬼が出ると噂される隧道すいどうだった。
 警護の武者らは、気を引き締めていた。
 噂はあった。
 鬼が出るというのである。
 一匹や二匹ではなく、鬼は徒党を組み、美しい姫を略奪、金品を強奪するのだと。
 しかし、今日で、二十一日目。その間、なにひとつ、あやしいこととて起こらなかったのだ。
 慣れたあまりに、気の弛みが出た。
 旅人とすれ違うだけの細道に、山賊はもとより、鬼の気配とて感じなかったのだ。
 それが、この、地獄絵である。
 芳影は、なんとか姫を助け出そうと、鬼たちと相対していたのだが。いかんせん、力量において、あきらかに、劣っていた。そのうえ、多勢に無勢。ひとり、またひとりと、武者達が、打ち倒されてゆく。
 オレも、死ぬのか………。
 諦観はおとずれない。
 芳影を捕らえるのは、恐怖だった。
 殺されるも恐怖、姫を助けられず、館に帰るのも、恐怖だった。
 逃げてしまえ。
 何かが、芳影に、そう、ささやきかける。
 誰も気づかないさ。
 駄目だ駄目だ駄目だ!
 芳影は、首を振った。
 姫の涙に濡れたまなざしが、芳影の脳裏によみがえる。
 実の兄や姉よりも、姫君こそが、いっそ慕わしい、存在だった。
 その姫を捨てて、逃げ出すことなど、できはしない。
 必死だった。


 がやがやと熱気と喧騒とに満ちた奇怪な岩屋の奥の広間で、芳影は、目を、見張った。
 思い思いに場所を陣取り、姫たちに踊りを命じるのは、鬼である。
 鬼の数は、数十を数えていた。
 姫たちが震えながらも、健気に舞を舞う。
 どこからか現われた、青白い女たちが、無表情に、酒を注いでまわる。
 運ばれてくる、酒肴の山。
 呆然としている芳影の背中を、まだ酒にありついていない鬼が、乱暴に、突き飛ばした。
 姫たちの踊りの只中にまろび出す。
 姫が、侍女たちが、中断された踊りの形のまま、その場に、立ち尽くした。
 ざわり―――と、ひときわ大きなざわめきがたち、痛いほどの静寂が、広間を支配したのは、その時だった。
「頭領」
 芳影を突き飛ばした鬼が、ありついたばかりの酒の杯を額に掲げて、そう叫んだ。
 大柄ではない。
 どちらかといえば痩せぎすの、ふつうの男に、それは、見えた。
 額から生えている一対の角がなければ、ひととまるで変わりはない。
 しかし、その場に現われただけで、その鬼は、間違いなく、その場を支配していた。
 場の雰囲気は彼ただひとりに呑みこまれ、誰しもが彼が次になにをするのかを、待ちわびる。
 圧倒的な、存在感だったろう。
「ひめにふれるな」
 力のない声だった。
 そんな声しか出せない己を、芳影は、恥じた。
 しかし、誰も、笑いはしない。
 姫の顎に手をかけていた頭領と呼ばれた鬼が、芳影を、見下ろしていたからだ。
 黒い瞳孔とその周囲の金の虹彩。虹彩の外は、黒く縁取られるかのようで、白目がやけに、目立つ。
 そんな、一対の双眸が、芳影を、凝視するのだ。
 ぞっと、血がさがるのを、芳影は、感じていた。
 獣の目だ…………。
 芳影は、そう思った。
 視界が、眩む。
 やばい。
 そう思ったときには、二の腕を掴まれ、立ち上がらされていた。
「これを、もらってゆこう」
 後は、好きにするがいい―――――――
 低くよく通る声が、広間に響いた。


 あれから、幾日が過ぎたのか。
 ようやくの、脱走だった。
 鬼の頭領は芳影のどこを気に入ったのか、手放そうとはしなかった。
 刹王と名乗った鬼に、殺されることはない。
 しかし、そんな安堵とは逆に、昼夜の別なく伸びてくる腕が、恐ろしくてならなかった。
 慣らされたからだが、心を裏切る。
 嫌悪と恐怖。
 それをすらしのぐ快感に、芳影は、解放されるたび泣いた。
 自分が自分でなくなってゆくかの恐怖は、殺されていたほうがましだと、芳影に後悔の思いを抱かせた。
 姫を助け出そう―――と、そう思ったのは、せめてもの、矜持であったのかもしれない。それとも、自害できない己の不甲斐なさを、ごまかすためであったのか。
 誰かが、逃げる自分を殺してくれるかもしれないと。
「姫、お速く」
 うつろなまなざしで、姫が、芳影を見る。
 鬼たちに姫がされただろう仕打ちが、芳影には、痛いくらいわかった。
 ひとりの鬼にされるのでさえ辛いというのに、姫は、複数の鬼の相手を強いられ、からだよりも先に、心を壊してしまったのだ。
 涙が、こみあげてくる。
「もっと、オレが早く………」
 姫の手を握る反対側の手で、芳影は涙を乱暴に拭った。
 館に戻りさえすれば、姫の心は、わずかでも元に戻るかもしれない。
 癒されるかもしれない。
 自分は、お館さまに、殺されるかもしれないが。
 それでもかまわなかった。
 いや、それを、自分は、望んでいるのかもしれない。
「あれは………」
 入り組んだ岩屋の通路は迷路のようで、どこをどう進んでいるのかもはや芳影にはわからなくなっていた。しかし、
「姫、光が、あそこが出口に違いありません………」
 振り向いた芳影は、ことばをなくした。
 いや、己が握りしめているものを認めることができなかったのだ。
「うわあ」
 悲鳴と共に、芳影は手を振った。
 禍々しいものを振り払うかのように振った手から、薄闇にも生白い女の手が、ぼとりと地面に落ちて転がった。
 クツクツ――と低い笑い声が芳影の耳に大きく聞こえた。
「ああ…………」
 芳影の背中が岩屋の壁にぶつかり、そのままずるずると蹲る。
 近づいてくる鬼が、獣の目を光らせながら、怖ろしい笑いを顔に貼りつけていた。
 顎をとられて上向きになった芳影の目の端に、腕の付け根から血を流す姫の姿が、おぼろに映っていた。

 姫の死を芳影が知ったのは、その翌日。
 刹王の口からだった。


 岩屋の前に広がる森の木々は、少しずつつぼみをほころばせはじめている。
 前日の寒さが嘘のような、あたたかい一日だった。
「ちっ。留守番かよ」
 岩屋の入り口でたむろしている鬼の中、一番若い鬼が、唾を吐く。
「まぁ、そう腐るなって」
「だってよ〜。やっぱ、留守番より、ひと暴れしたいって、血が騒ぐんっすよね。それに、よりによってあいつの見張りってなんか………」
 宥める年嵩の鬼に、若い鬼が親指で示した先には、金襴の衣をまとった少年の姿がある。
 心を飛ばしたさまで、ぺたりと地面に座り込み、ぼんやりとしている。
「しかたない。あれは、頭領の道楽だからな」
「あいつが怪我でもしたら、頭領に叱られるのは、俺なんすよね。鎖でもつけておけばいいと思いません」
 釈然としないなぁとぼやく鬼に、
「決めたのは頭領だからな。しっかり見張っとけよ。ほら、どっかいくぞ」
「え? 嘘。やばっ」
 ふらりと立ち上がった芳影が、覚束なげに、歩き出す。
「勘弁してくださいよ〜」
 情けなげな顔になりながら、若い鬼は、芳影のあとを追った。

 姫の死が、芳影の心を、打ち砕いた。
 狂った芳影を、しかし、刹王は、手放そうとはしなかった。
 そうして、姫の死から、やがて一月になろうとしていた。
 岩屋の前の、桜の森は、少しずつ花色にけぶりはじめていた。


 芳影の心が砕かれてから、一年がやがてめぐってこようとしていた。


「芳影〜。おーいっ」
 少し目を離した隙に、頭領の寵愛を受ける少年が姿を消した。
 狂った頭で、逃げようとは考えはしないだろうから、おそらく、なにかの気まぐれで、また、岩屋を抜け出したのに違いない。
 留守兼見張りを命じられた若い鬼は、真っ青になって、岩屋の周囲を捜していた。
 どれくらい、探し回っただろう。
「あ〜っ」
 雑草を踏みにじりながら、鬼は、芳影に近づいた。
「こんなとこで何やってんだ」
 絹の衣に包まれた、細い肩を掴む。
 血の匂いに、
「怪我でもしたのかっ」
 焦ってしゃがみこんだ鬼は、ぼんやりと芳影が見下ろす先を、確認した。
「触るんじゃない」
 怪我したら怒られるのはこっちなんだぜまったく。
 ぶちぶちと愚痴りながら、鬼は、芳影の手よりすばやく、それに、触れた。
 それは、矢を背に受けた、人間の子供だった。
 振り分け髪もいたいけな、まだ七つにもなっていないだろう年頃の娘だった。
「そら、行くぞ」
 芳影の手を取った鬼が、芳影を引きずるように立ち上がらせる。
 しかし、芳影は、指の先についた娘の血をぼんやりと、眺めている。
「そらっ」
 引きずる鬼に、芳影は、珍しく、抵抗をする。
「面倒は、勘弁してくれよ」
 なにかと芳影の見張りが回される若い鬼は、空を仰いだ。
「オレは、知らないからな」
 それでも、愚痴りながら、娘を肩に担ぎ上げる。
「頭領になにをされても、オレはっ、ほんっとうに、知らないんだからなっ」
 念を押す鬼に、芳影は、珍しく、ぼんやりと笑った。
 それは、背中が逆毛立つような、笑みだった。

 刹王は、何も言わなかった。
 芳影が娘の髪をなでるのを、傷口を不思議そうになでるのを、ただ、見ていた。
 娘の傷が治り、岩屋から逃げるように姿をくらませた時も、やはり、何も言わなかった。
 芳影の持ち物の中から、小さな女持ちの懐剣がひとつ無くなっているのに気づいたときにも、刹王は、ただ、口角をもたげただけだった。

「もうじき、桜が咲くな」
 膝の上に芳影を乗せたまま、刹王が杯をかたむけた。
 攫われてきた女たちが、岩屋の前の広場で、震えながら、舞を舞う。
 緊張に躓いて転がった女に、どっと、鬼が、笑った。
 寄せ手が襲い掛かってきたのは、まさに、その時だった。
 鯨波ときの声を張り上げた、武者の数は、数百を数えていた。



「なにを!?」
 武者は、信じられないとばかりに、少年を見下ろした。
 脇腹に、灼熱を感じる。

 鬼に襲われたのだと行方の知れなかった妹が返ってきた時、男は、妹に、一振りの女持ちの懐剣を差し出された。
 鞘の部分に小さく象嵌された家紋は、一年ほど前に消息を断った娘の家のものだった。
 貴人のもとに懐剣を届けた後、男は、貴人に、鬼を討てと雇われた。
 ――――姫が生きていれば、楽にしてやってくれと。
 涙ながらに頼まれた。
 鬼の慰みものにされて一年、なよやかな姫が、よもや持ち堪えられるとは思えない。
 そうして、妹から鬼の岩屋の場所を聞いた男は、部下を募って、打って出たのだ。

 あでやかな絹の衣をまとった少年が、鬼の頭領の手に引かれてまろぶように、走っていた。
 あれが、妹を助けてくれた少年だと、男はすぐにわかった。
 血煙や、断末魔、おびただしい血溜まりに倒れる屍の山。
 もはや、動いているのは、男と、少年、それに、鬼の頭領だけである。
 妹の恩人を、男はできることなら救うつもりだった。
 だから、鬼の頭領と、切り結んだのだ。
 鬼が、ずるりと、その場に、くずおれてゆく。
 傷口から迸る血が、少年を朱に染めた。
 少年が、自分を染める赤いものを確かめる。
 数瞬後、甲高い悲鳴が、少年の口から、あふれ出した。
「なにをしている」
 狂ってるみたいだった――妹をしてそう言わしめた少年は、確かに狂っているのだろう。
 男は、少年を叱咤し、腕を掴んだ。
 その時だった。
 何かが、男の、脇腹を、貫いた。
 幾たびも鬼とやりあったために裂けていた鎖帷子の裂け目から、なにかの冗談のように、刀の柄が飛び出して見えていた。
 男が、刀を、引き抜く。
 上がった血しぶきに、少年は、笑った。
 泣きながら笑う少年に、男は、少年が、鬼に心を奪われていたのだと、悟った。
 少年に、最後の一刀を浴びせかけ、男は、手から、刀を落とした。
 傾いてゆきながら、男は、少年が、くずおれる鬼の頭を膝に乗せるのを、見たと思った。


「刹王」
 名を呼ばれて、刹王は、目を開けた。
 獣の目が、芳影を見上げる。
「やはり、振りだったのだな」
 刹王の手が、芳影の頬を、そっと、撫でた。
「許せなかったか」
 私のことも、そうして、自分自身のことも。
「みんな、壊れてしまえばいい」
 あんたに囚われたオレの心が何よりも先に、壊れるべきなんだ。
「だから………」
「そうか。おまえが招くものなら、なんであれ、受け入れようと、決めていた」
 だから、嘆く必要はない。
「せつおう?」
「愛している」
 最期に、そう言って、鬼は、目を閉じた。
 深い息に、胸が大きく上下した。
 そうして、それきり、鬼が、目を開けることはなかった。



 甲高い悲鳴が尾を引く。
 やがて、それは、途切れがちな笑い声へと変貌を遂げた。
 ケラケラと笑うのは、てらりと濡れた絹の衣をまとった、少年である。
 膝の上の鬼の首を抱きしめて、少年は、ただ、笑いつづける。
 流れる涙に気づくこともなく、やがて声が嗄れるまで、笑いつづけた。



 人里離れた桜の森は、いまや静まり返っている。
 静寂の中、花冷えの冷たい風に舞い散る花びらが、地面を覆う。
 しとどに濡れた、赤い地面の上に、息絶えた少年の上に、淡い桜色が、降り積もり、染まってゆく。
 少年の狂気を憐れむかのように、少年の死を悼むかのように、ただ、桜は、降りしきっていた。




おわり


end 20:35 2009 04 10


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