三年が過ぎた。
オレは、十七才になっていた。
オレは、久住の城で元服を迎えたのだ。
三年の間に、久住の城も変わった。
城主の未来の奥方というのが城に迎え入れられたこともあって、どちらかといえば武張った印象が強かった城の内部が華やいでいた。
まぁ、それは、城の奥向きというか、下というか、基本的に、天守で生活しているオレにはほとんどかかわりのないことだった。
オレも、少しは、背が高くなった。
反して、色が、白くなったようだ。
蜜がなくなったりすると、オレは自分で賄いに貰いに出向く。――本来なら、そんなことは、別のものの仕事だが、そうでもしなけりゃオレは、とことん運動不足になってしまう。ま、今更な気もするが。――気安くなった、そこの女衆に、うらやましがられるようになったのだ。
色が白いって、男が言われて嬉しい言葉じゃないんだが、心底いいなぁと言われるとへらりと笑ってしまう。
そんなところ柏木にでも見つかったら武者らしくないとチクリとやられるんだろうが、この城でのオレに武者らしくあれなんて言うのは彼くらいなものだ。
だれだって、知っている。
そう、オレは、この城で飼い殺しにされているだけなのだ。
人質という厄介な存在を遊ばせておくのも無駄だと――誰が考えたのかは知らないが、一応、オレはこれでも隣国の城主の甥であるから、理由もなく殺せない。で、ていよく厄介払いした先が、天守の竜の番なのだろう。
城主の秘密。
業病に憑りつかれて弱った城主の命の源。それが、竜の血であるのだと、オレは、知った。
そんなことを知ったオレが、無事に国に帰されることがあるとは、思えない。
おそらく、オレの伯父が牙を剥くそぶりを見せれば、オレはその場で殺されるに違いなかった。
そう。
城主の秘密が、外に漏れる心配は、ないのだ。
「とよてる」
竜の深い声で呼ばれて、オレは、物思いから我に返った。
「どうした?」
竜の金の色した瞳が、オレに向けられていた。
この三年で、竜も、変わった。
いや、見てくれには、変化はない。
ただ、少しずつ人がましくなってきたとでも言えば、しっくりくるだろうか。
まだたどたどしさは残るが、しゃべれるようになった。
そうして、歩くこともできるようになったのだ。
―――これらはもちろんのこと城主には、内緒だが。
限られた天守の内部を、鎖の尽きる範囲を竜は歩く。
ゆるやかに、音をたてることもなく。
その姿は、竜と呼ばれるにはあまりにはかなげだ。
蜜と清水を糧とするその姿は、竜というよりも仙女とたとえるほうがしっくりとくる。まぁ、性別は、男だが、それだけ、なよやかで、美しいといいたいのだ。
「今日は、久住が、来ます」
切れ切れに告げられた言葉に、オレの顔が強張ったのだろう。
「大丈夫。久住の目的は、あくまで、私ですから」
やわらかく笑む竜に、オレは、言葉もない。
オレが慰められてどうする。
目の前で笑んでいる竜のほうが、よほど、城主の訪れを恐れているというのに。
「悪い」
「いいえ。夜、とよてるは、そこに。でてきては、ダメ、ですよ」
衝立を指し示し、竜が、言う。
「でも……」
「とよてるに、見られたくないんです」
青ざめた白皙が、その内心を物語っている。
けれど、オレに、なにができるだろう。
オレは、竜の番人で、その前に、隣国の人質だ。
「わかった。オレは、そこに、いる。だから」
「はい」
「遙――――」
竜では呼びにくいからとつけた名を、噛みしめるようにオレは口にする。
「だいじょうぶです」
遙は、にっこりと笑って、そう言ったのだ。
城主が遙の血を思う存分啜って、後も見ずに天守を去ってゆく。柏木が、付き従う。
ふたりの姿が消え、足音が聞こえなくなるまで待てなかった。
オレは、詰めていた息を吐き出して、慌てて、遙に駆け寄った。
「遙。おいっ。だいじょーぶかっ」
くったりと青ざめた遙が、オレを認めて、かすかに笑んだ。
枷にしなりそうな細っこい腕が持ち上げられて、オレの頬にそっと触れた。
「だいじょうぶですよ。そんな、心配そうな顔をしないで。私は、これくらいでは、死にません」
「けどっ」
死ぬより辛そうだ。
「ね。とよてる。水をください」
「ああ……ごめん」
オレは、遙に衝撃を与えないように壁にもたせかけると、水瓶を覗き込んだ。
「ほら」
オレが、水を汲んだ椀を口元に持ってゆくと、遙は、よほど渇いていたのだろう、喉を鳴らして、飲み干した。
「もう一杯?」
「お願いします」
オレは、無言のまま、二杯三杯と、遙に、水を飲ませた。
幾杯目なのか。
ほう――――と、遙が吐息をこぼした。
「蜜は?」
「いいえ。それより、とよてる………」
ゆったりと、遙が、両腕をオレの首に回した。
チャリ――と、鎖と枷が触れ合う音が、聞こえた。
かすかに震えている遙を抱きしめて、オレは、そのまま、横になった。
三年、寝起きを共にしていて、いつしか、オレと遙は、抱き合って眠るようになっていた。
――ただ、抱き合うだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。けれどその行為は、遙とオレの恐怖や不安を遠くへと押しやってくれる。互いのぬくもりが互いを癒してくれるのだ。
オレと遙は、抱き合ったまま、深い眠りへと落ちていった。
その日、オレは、天守から降りていた。
蜜と水の補充のためだ。
蜜はともかく、水は頻繁に変えなければ悪くなる。もっとも、水瓶はオレでは運べないから、力仕事専門の男が天守まで運び上げてくれる。そんな時、彼らに見られないよう、遙は、オレが引きずり出した衝立の影にいる。
きっと、彼らは、天守に囚われている遙を見れば、仰天するに違いない。なぜなら、竜が実際にいるということを、彼らは知らないのだ。オレが天守で生活しているのは、竜の番人のためではなく、天守で、姿の見えない竜神を祭っているということになっている。
賄いで壷に蜜を満たしてもらい、オレが天守に引き返そうとしたとき、
「よいところに」
突然、声がかけられた。
見れば、柏木が、立っていた。
小姓頭が、賄いに? おかしなことがあるもんだ――――そんなことを考えていると、
「若槻どの。殿のお呼びです」
思いもよらないことを、言われて、オレは、目を見開いた。
いったい何の用なんだ?
今までこんなことはなかっただけに、不安になる。
それに、昨日の今日である。
いくら、衝立の影に身を潜めていたとはいえ、気配は感じる。音も聞こえる。
獣じみた城主の荒い息と、血を啜るぴちゃぴちゃという音は、静まり返っている天守では大きく響いたのだ。
首をかしげながら、柏木の後を歩いていたオレは、城主の居室に通された。
そこで、オレは、城主に襲われたのだ。
貞操の危機を逃れられたのは、城主の未来の奥方のおかげだった。
オレよりも年下の幼い未来の奥方は、かなり気が強いらしく、戸の外に控えていた柏木の制止を振り切って部屋に入ってきたのだ。
その隙に、まろぶようにして、城主の居室を後にしたものの、オレが行くところなど、ひとつしかない。
しかし、こんな最低最悪の気分のまま、遙のいる天守に帰りたくなかった。
なんというか、城主が本気だったら、オレに、抵抗しきることは、不可能だ。
どうすればいいのだろう―――――
がんがんと聾がわしい鼓動の音に、オレの思考は、まとまらない。
いったいなんだって、城主は、オレに触手を伸ばしたのか。
城主には、柏木ほか、かなり見目麗しい小姓たちがいるというのに。
背筋がそそけ立つ。
城主の、思いのほか固い掌の感触が、首筋を這いずったくちびるのぬめぬめとした感触が、ふいに、よみがえったのだ。
結局、なにをどう悩もうと、オレの脚は、天守に向かう。
この城の中で、オレがいることができるのは、そこしかないのだから、当然のことだ。
遙に気づかれないように、できるだけ、平常心を保とうと、深呼吸を繰り返し、着物の乱れを、直した。
けれど、
「とよてる、どうしたんです」
そんなことは、遙には通じなかったらしい。
こっちへ――そう招かれて、オレはへたりこむように遙の傍らに座り込んだ。
凝視してくる遙の視線は、痛いくらいだった。
どうしようもない震えが、こらえても、こらえても、湧き上がる。
「私が、恐いのですか?」
背けることのできない視線が、痛いくらいに開いたままの瞼が、ただ、金のまなざしを映していた。
どこかしら不安げな、縋るような、金の瞳に、オレは、やっとのことで、首を左右に振ることができた。
遙のことは、恐くはない。
それは、本当のことだ。
恐いのは、これから、なにが起きるかということだ。
そう。
どさくさにまぎれて、城主の手を逃れることができたとはいえ、二度目がないとは言い切れない。
おそらく、今日のあれは、城主の気まぐれに過ぎないとは思うが、二度目があれば、オレには、抗うことは、できない。
城主は、つねに、切り札を持っている。
切り札は、有効に使うべきものだ。
もしも、オレの国のことを持ち出されれば、拒絶することは、できない。たかがオレを――抱くためだけに、それを使うなどとは思わないが、それでも、絶対無いとは言い切れない。他人の考えなど、そうそう、読みきれるものではない。
「とよてる」
ふと、先ほどまでとは違う、遙の強張ったような声音に、オレは、我に返った。
ぐい――と、遙の白く細い指先が、オレの首の付け根に押し当てられた。
「な……に」
そこは―――
ぞわりと、下でのことが、脳裏によみがえる。
今まさに遙が指で押しているところを、城主のくちびるが、ぬめぬめと這いずったのだった。
「うわっ」
あの、唾棄したいほどの、怖気が、背筋を沸き立たせた。
とっさに、襟をきつく合わせようとしたが、遅かった。
遙の、いつもは優雅な動きを見せている繊手が、まるで獲物に襲い掛かる蛇めいた素早さで、オレの着物の合わせをくつろげたのだ。
目をつむってしまったのに、痛いほどに、遙の視線を感じた。
心臓が、壊れんばかりに荒い動きを繰り返す。
ほっ――と、遙の吐息を感じた。
恐る恐る目を開けてみると、遙の視線が、放心したようにオレを見下ろしている。
「はる……か?」
声が、上ずる。
「あっ……」
気まずそうに、遙が、オレの着物から手を放した。
「すみません」
わたわたと、左右を見やる遙の頬から首や耳が、真っ赤に染まっている。
なんだか、その様子がとても可愛く見えて、オレは、声をあげて、笑ってしまった。
「わ、笑わないでくださ……い」
一層真っ赤になった遙の顔が、強張り、最後のひとことが、力なく床にこぼれ落ちた。
青ざめた遙の表情に、その視線をたどる。
オレの、背後、そこにいつからいたのか、城主と柏木の姿が、あった。
ふたりもまた、遙に負けず劣らず、その場に、凝りついている。
しまった――――と、後悔しても、遅すぎた。
オレは、ふたりに、遙がしゃべるようになったことも、動けるようになったことも、ましてや意識が普通にあるなどということを、報告していなかったのだ。そんなもの、オレの仕事内容に含まれてはいなかったからだ。――もちろん、オレの言い分が欺瞞だということは、百も承知の上だが、あくまで、オレは、竜の番人なのだ。
どうすればいいのか、オレにはわからない。
こんな状況など、考えたこともなかった。
そう。
彼らがここに来るのは、十日に一度の深夜。
オレが番人になった三年間、それが一度たりとも破られたことのない、習慣だった。
だから、油断しきっていた。
まさか、今朝のような、思いもよらない出来事など、想定したこともなかったからだ。
今この時の、城主の用は、おそらく、オレなのだろう。
昨夜の今朝で、ここを城主が訪ねる理由など、ないのだから。
凝りついた空気に、最初に我を取り戻したのは、さすがと言うべきか、城主だった。
「竜の意識が………」
それで、おそらく、全員のこわばりが解けたのだ。
身を翻した城主を、柏木が追いかける。
押し上げ戸が、聾がわしい音を響かせて入り口を閉ざした。
「逃げよう」
オレの言葉に、遙が、信じられないものを見るように、オレを見上げた。
「無理です」
「こんなもの」
忌々しい鎖と枷とを、オレは、力任せに引っ張った。
「やめてください」
悲痛な声に、オレは、手から力を抜いた。じゃらりと、鎖が音をたてて床にとぐろを巻く。手が痺れていた。
「それには、私の血が混ぜられています。ですから、どんな得物を使おうと、断ち切ることは、不可能です」
「でも、なんか方法があるはずだ。鍵穴があるんだから、鍵さえあれば………」
「どうやって、鍵を見つけるつもりです?」
「どうせ、城主か、そうでなければ、柏木が持ってるだろう」
―――盗む。
そう決意した刹那、
「とよてるには、守らなければならないものがあるのでしょう」
遙は、そう、静かに、口にした。
オレの背中が、ぎくり――と、逆毛立つ。
そうだ。そのために、オレは、ここにいる。
けれど………。
遙の意識はある。動くことができる。しゃべることもできる。
それらを知った今、城主が、どんな手段をとるか。
考えるだけでも、不安になる。
竜が、遙が、なにをされるのか。
閉ざされているだけでは、すまなくなるかもしれない。
天守から地下に移されでもしたら。
まだ、ましなのだ。そう。閉ざされているにしても、空気の通りが良い天守は、まだ、地下に比べれば、遥かに、ましな待遇だと言えるだろう。
地下は、じめじめと、からだに悪い。地下牢に長年閉じ込められた囚人たちがどんな最期を遂げるのか、考えるだけでも怖気が走る。
遙がそんな目に合わされでもしたら………。
口にするものといえば、蜜と清水だけ。そんな存在が、過酷な環境に、耐えられるだろうか。
「とよてるの、きもちだけで、充分です。あなたの肩にかかっているものを、優先してください」
泣き笑いめいた表情で、遙が、ゆっくりと、告げた。
「私は、あなたに、私のために、罪を犯させたくは、ありません」
「でもっ」
「大丈夫です。考えてください。私は、城主の最良の薬。薬を城主が必要とするかぎり、私を今より酷い目に合わせることは、ないでしょうから。だから、とよてるは、あなたの肩にかかっているもののことだけを、考えなさい」
遙の静かな声に、オレは、どうしようもなく、ただ、あふれ出る涙をとめることもできなかった。
――――泣きたいのは、誰でもない。遙のはずである。
そうわかっていても、どうすることもできなかったのだ。
遙が言ったとおりだった。
遙の身の上には、直接の変化はなかった。
ただ、オレが、天守から下ろされただけで………。
オレは、竜の番人を、やめさせられたのだ。
オレの代わりに番人になったのは、オレの知らない男だった。
こればかりは譲れないと、首を縦に振らなかったオレに当身を食らわせ、柏木がオレを引き摺り出した。気がついた時、オレは、天守から連れ出された後だった。そうして、無理矢理、城主の小姓組に入れられたのだ。
最後に見た遙の金色の瞳に宿されていた諦観が、オレの脳裏には刻み込まれていた。
どんなに、遙の意識を目覚めさせてしまったことを後悔しただろう。しゃべれるように、歩けるように、少しでも遙が居心地よく過ごせるようにと、そうしたことを、後悔した。
それに、なによりも、オレは、遙に会いたくてならなかった。
遙を抱きしめて、眠りたかった。
遙のために、天守にいたかった。
こんどの番人は、遙にやさしくしているだろうか。
遙は、新しい番人に、馴染んだだろうか。
ふたりが、親しくなれたのなら、いい。そう思った時、オレの胸は、痛いくらいに縮まった。
けれど、番人が、遙にやさしくしていないのなら―――――。
どうにかして、知りたかった。
小姓の仕事の合間を縫って、オレは、何度も、天守に近づいた。なんとかして、遙のところに行けはしないかと―――。せめて、今度の番人が遙にどうしているか、それだけでも知ることはできないだろうか―――そう、考えて。そのたびに、オレは、柏木や小姓組のだれそれに、引きずり戻された。叱責を受けても、オレは、へこたれなかった。
とにかく、遙のことだけが、気になってしかたがなかったのだ。
そうして、オレはオレの代わりが遙のことを天守の見張りにこぼしているのを耳にした。
本来は極秘のはずの遙のことを、そいつは見張りに喋っているのだ。
オレは、耳を疑った。
曰く、気味が悪い、ばけもの、なぜ自分がこんなことをしなければならないのか――など、よくそれだけと思えるくらい、男は見張り相手に愚痴をこぼす。
それは、オレの心を重くした。が、同時に遙がオレの代わりには慣れなかったことが、嬉しくてならなかったのだ。そんな自分の感情に、オレは、罪悪感を覚えずにはいられなかった。