就眠儀式  5 




その五 都斎輝


 落とし戸を閉める。
 これでどれくらいの時間稼ぎができるか、わからない。それでも、きっと、遙の縛めを解くくらいの時間はあるだろう。
 ――あって欲しい。
 じゃらりというなじみのある音に振り向けば、遙が、鎖を弄っていた。
 まってろ、今、外してやる。
 息が荒く、声にすることができなかった。
 まったく、自分で自分が、情けない。いや、そんなことを考えているひまはない。オレは、遙を、解放するために、やってきたのだ。
 呼吸を整える。
「遙っ」
 思いもよらないほどの、鋭い声になってしまった。
 遙が怯えなければいいのだが。
 よかった。顔を上げた遙は、少しも怯えてはいないようだ。何かに耳を澄ませている。
「手、手を出せって」
 焦ってしまう。
 オレを追って、侍たちがやってきている。彼らの罵声が、オレを、急き立てる。
 遙がおとなしく手を伸ばしてきた。あまりやさしくは扱えないが、許してくれ。今は、速さのほうが大事なんだ。
 鍵を、枷の鍵穴に、差し込む。あまりにも手が震えて、数度失敗したが、どうにか、開錠できた。次々に、枷を外してゆく。
 遙が、無言のまま、手首を、さすっている。
 大丈夫そうだ。
 よかった。
 これで、遙は、自由にどこにでも行くことができる。
 こんな、狭く不自由なところなど、遙には、あまりにも似つかわしくなさ過ぎたのだ。
 階が軋む音が聞こえる。追っ手の得物のたてる音が、背筋を粟立たせる。
 遙を、解放することができた感慨に浸っているひまなど、今は、ない。
「遙、立てれるか?」
 立つことができないというなら、オレが、背負ってやる。そう覚悟したオレの目の前で、遙が、笑った。
 金の目が、少しだけ細められ、過ぎるほど赤いくちびるの端が、めくれ上がるように、もたげられたのだ。
 心臓が、ひとつ、耳障りな音をたてた。
 こんな、遙など、オレは、知らない。
 後退さりたいほどの寒気が、背筋を這いのぼる。それを諌めてくれたのも、しかし、また、遙だった。
 オレの手の上に、遙の手が重ねられ、強く、握りしめたのだ。その手のあたたかさが、オレを我に返らせた。
「よっと」
 気分を変えるためにも、オレは力を込めて遙を引っ張り立ち上がらせた。
「都斎輝」
 耳もとに、遙の、やわらかな声が、届いた。
 ああ、いつもの遙だ。
 そう安心したときだった。
 落とし戸が、大きな音を立てて、開かれた。
 屈強な侍が、ふたり、次いで、見慣れた柏木が、天守に、踏み込んできたのだった。彼らの背後、階には、まだたくさんの追っ手の姿がある。
 オレは、それだけのことをしたのかもしれない。
 オレは、それだけのことをしようとしているのだ。
 声もない。
 震える。
 恐いのだ。仕方がない。
 それでも、遙だけは、自由にしてやりたい。永かっただろう苦痛から、解放したいのだ。
 オレは、両手を広げて、柏木たちに対峙した。


 オレは、遙を、衝立の影に、押し込んだ。とっさの判断だったが、かろうじて、間に合った。念のために、手を広げて、柏木の意識をこちらに向ける。
『遙、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込む寸前にささやいたのは、妄信に近い、確信だった。
 竜と呼ばれるからには、根拠があるはず。血を啜られる竜など聞いたこともない。ならば、そうなる以前には、竜と呼ばれるだけの力が遙にはあったはずなのだ。

 ―――自由になってくれ。 

 オレは、心の中で強く祈り、柏木らと対峙した。
「もう、逃げ場はない」
 柏木が、厳しく、告げる。
 そんなことは、わかっている。オレには、逃げ場などは、ないのだ。逃げるにしても、オレの剣の腕はお粗末で、逃げ切ることなどできはしない。けれど、オレ自身のことなど、今はどうでもよかった。オレは、せめて、なんとしてでも、遙を解放してやりたかった。それだけだ。
 オレは、ただ、柏木の目を、見返した。
「いったい、若槻の若君には、なにを考えておられるのか」
 どこか溜息交じりのことばだった。
「殿の御情(おなさけ)を受けることは、このうえない名誉。それを、恐れ多くも、殿を足蹴にして、逃げ出すだなどと。人質であるという、己が身をわきまえてはおられぬのか。あなたの国許が、滅ぼされてもかまわないと、まさか、考えておられるはずはございますまい」
 そんなことは、わかっている。今更―――だ。
 やってしまったことは、取り返しがつかない。
 許されることでも、許されようとも、思ってはいない。
 奥歯を、噛みしめる。
 と、不意に、柏木の口調が変わった。
「まさかと、思うが、若槻の若君は、竜に誑かされておしまいか」
 嘲るような柏木のことばが、オレの中の何かを、弾いた。
「それとも、すでにねんごろでおられる――とか」
 ねっとりと、さげすむような声に、オレの中で形になりかけていたものが崩れ去る。
「見目形は整っておれど、所詮人外。竜と呼ぶも、家畜に過ぎぬ。そのようなものに誑かされるとは」
 嘲笑う柏木に、オレの我慢も、限界だった。
「遙は、家畜じゃないっ!」
 刀の柄(つか)に手がかかったと思った時には、抜刀し振りかぶっていた。
「名前までおつけか。物好きな。家畜と一つ身になられるようでは、殿の御情を受けるに値せぬが――殿はことのほか若槻の若にご執心のごようす。どうであれ、連れ戻れとのご命令」
 小太刀で、オレの攻撃をかわした柏木が、オレの手から刀をもぎ取った。
 その時だった。
 下のほうから悲鳴が聞こえてきた。それはまるでこの世のものとは思えないほどの、ありえぬものを目にした恐怖の悲鳴だった。
「なにごと」
 柏木の声が、力をなくした。
 オレを捕らえている手が、小刻みに震えだす。
 オレもまた、今の自分の状況を忘れ去り、ただ、目の前を、凝視していた。

 目の前――落とし戸の矩形の入り口から、入ってくるもの、それは、本当に、
「と………殿」
 生きているのか。
 青白いというより、青黒い。そんな肌色の人間が、うつろなまなざしで、こちらを見ていた。
 その口からこぼれ落ちているのは、赤い――血。その手にしているのは、ひとの、手―――だろうか。
 咀嚼する音が、怖気を、吐き気を、誘う。
 いったい、なにが起きているのか。
 ゆらりと、近づいてくる、その、おそらくは久住だろうモノから、オレは、目を放すことができなかったのだ。


その六 遙

『遙、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込まれる寸前にささやかれたのは、都斎輝の妄信に近いほどの、きつい確信だった。

 ―――自由になってくれ。 

 都斎輝の、血を吐くばかりの願いが感じ取れた。

 聾がわしいほどの音をたてて入ってきた男たちが、そのうちのひとり、見覚えのある男が、都斎輝を嘲りはじめる。滴る悪意に、あの男が都斎輝を妬(ねた)んでいると、察した。
 都斎輝のからだの震えが、切ない。
 都斎輝のことを、抱きしめたかった。
 どれだけ、ここから飛び出したいと思っただろう。しかし、今飛び出したところで、助けられはしない。元の木阿弥どころか、本末転倒でしかない。都斎輝のしたことのすべてが、無駄になる。それは、痛いほどに、真実だった。
 都斎輝の願い。
 それは、私が、自由を取り戻すこと。
 しかし、彼は知らないままだ。自由を取り戻したとして、傍に彼がいない自由では、今の私には、もはや意味がないということを。
 都斎輝がいてこその自由だった。それこそが私が欲する唯一のものだと言うことを、彼は知らないでいる。
 だからこそ、私だけで逃げろと、そう、言うのだ。
 自由にだけしておいて、私の願いを、知らない。
 彼さえいてくれれば、彼のぬくもりを胸の中に感じてさえいられるならば、実はここで閉ざされつづけていようとかまわないとまで思えるのだ。
 こんなにも、私は、都斎輝を、愛している。
 ―――そう、愛しているのだ。
 逃げるなら、彼も共に逃げるのでなければ、意味がない。
 それを、知ってもらわなければ――――私の中で、何か得体の知れないものが、ぞろりと、鎌首をもたげた。それは決して不快なものではなかった。このまま、この衝動に、身をまかせてしまいたい。内なる誘惑に、私は、逆らうことができなかった。
 君に、私がどれほど君のことを愛しているか、知ってもらわなければなりませんね―――――
 私であって私でないものが、歌うようにつぶやく。まるでそれが合図ででもあったかのように、くらりと、すべてが、揺らぎ、溶け消える。
 私もまた、溶けてしまう。
 その灼熱の酩酊を、私は、ただ、黙って、受け入れた。

 焦りを感じるほどに長い時間と思われたそれは、しかし、あっという間の出来事に過ぎなかった。

 都斎輝が、振りかぶった一撃を、男が受け流す。
 都斎輝を、捕らえ、何事かを、彼に告げる。
 それらが、まるで、匙の端からながれおちる蜂蜜のように、ねっとりと間延びして見えた。
 そうして、新たな登場人物の不快な姿までもが私の視界に入ってきたのだ。

 久住―――

 驚きはない。
 むしろ、それは、当然の姿だった。
 喉の奥が、可笑しなように震えた。
 クスリ――と、笑いがこみあげ、止まらない。
 面白い。
 そう、今日は、ちょうど、十日目。
 十日前に、久住は、私の血を啜った。
 一度の吸血の効果は、今日で、切れる。
 私の血には、常習性がある。
 一度くらいならまだしも、強い薬効のある薬がそうであるように、飲めば飲むほど、きれるときの苦痛は、はかり知れない。私の血は、人間のどんな病も癒すとされているが、常習しなければ、意味がないのだ。
 きれたからといって、死にはしない。
 死ぬことはないが、おそらく、本人は、死を心から望むだろう。
 ――正気を保ってさえいればだが。
 大半が、あまりの苦痛に、今目の前にいる久住のように、狂い、見境なく血肉を貪るものに成り果てる。
 成れの果て――を、嘲りたくて、たまらない。
 あれは、私を、閉ざし貪った、当然の報いなのだから。
 こみあげる、悪意。おさまりきらずあふれる、狂気。
 喉も弾けよと、私の喉の奥から、哄笑がほとばしった。



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