空気が動いた気がした。
風?
そう思考がゆらめいた途端、寒さを感じた。
寒い。
どうしてこんなに寒いのだろう。
周囲を確認するオレの目に、大きく開いた窓が飛び込んできた。そこから、風が入るのだ。
カーテンがひるがえる。
灰色の空に、ぼんやりと滲む太陽が、まぶしい。
目を開けていることが苦痛なほどに、まぶしかった。
窓を閉めてカーテンも閉じよう。立ち上がろうと、動かした手が、わずか数センチで、止まる。
なんだよ……
なんなんだよ、これはっ!
オレは、いつ、こんなことに?
オレの両方の手には、木の根が絡みついていた。腕と同じくらい直径があるだろう太い根から、細めの根がうねりながら迷路を作っている。それが、オレを、壁に縫いつけているのだ。
違う。
腕だけじゃない。
首にも、腰にも、床に投げ出している足にも、それらが這いずり、オレを縛めている。
だから、オレは、ほんの少ししか、動けない。
気持ち悪い。
怖い。
なによりも、心細い。
オレは、何も、思い出せなかった。
数メートル先のドアが、とてつもなく、遠い。
誰か。
助けて。
オレに、気付いてくれ。
叫ぶオレの喉からは、情けないうめきがこぼれ落ちるばかりだった。
「いいな、ダニエル。おとなしく、看護士さんの指示に従うように。この間のような無茶なリハビリなんぞしたら、おまえがどんなに泣き喚こうが、部屋に押し込めとくからな」
黒髪の男が、車椅子の青年の金髪を軽く引っ張りながら、言い放つ。
「はいはい。わかりましたから。……ロジャー、飛行機に遅れますよ」
ほんの少し垂れ目がちな緑の目が、上目遣いに、ロジャーのブルーアイズを見上げた。
「知りませんよ。秘書のホークス女史は、怖いんでしょ?」
青年に促されるように腕時計を確認して、
「女史も怖いが、俺が何より恐れているのは、おまえがまた無茶をやらかして体調を壊さないかというその一点だ」
「わかってます。もうしませんから」
顎を捉えられ、覗き込むように見下ろされて、青年の頬に、うっすらと赤みが差した。
口角の下がった青年のくちびるに軽くキスを落とすと、
「では、頼みます」
車椅子の後ろに立っている、三十代ほどの男性に頭を下げる。
「わかりました」
有能そうな看護士が、青年の車椅子を静かに押す。
玄関ホールから、広いアプローチを見渡すポーチに出ると、もう一度、男が青年にくちづけた。
「まったく、こんなに忙しいのでは、おまえとゆっくり過ごすこともままならん」
最後に憮然とつぶやくと、男は、階段を降り、ずっと彼を待っていたのだろう、黒い高級車に乗り込んだ。
車が門を抜けるのを見送って、
「さぁて、じゃあ、ぼちぼちやりますか」
青年が、車椅子の上で伸びをした。
金髪の青年、ダニエル・ラクランが年上の恋人とこの家に住みはじめたのは、ほんの数日前のことだった。
ダニエルの恋人は、ロジャー・メイヤーといい、巨大複合企業クレセントの社長だ。二月ばかり前の、クレセント前社長の退陣劇を覚えているものも、少なくはないだろう。あのときまで、ロジャー・メイヤーは、クレセント傘下の一企業の雇われ社長に過ぎなかった。ロジャーは、胸に秘めていた野望を、遂に達成したというわけだ。ダニエルの怪我は、その時に、ロジャーを庇ったためのものだった。あの後に病室で繰り広げた愁嘆劇を思い返して、ダニエルの頬が赤くなる。結局、口でもロジャーに敵わないダニエルは、言いくるめられ、退院後は、なし崩しに、ロジャーの新しい家に連れ込まれたというわけだった。
退院前日に、ロジャーに贈られたホワイトゴールドの指輪が、ダニエルの左の薬指に光っている。
ぼんやりとそれを見ていた自分に気付き、ポリポリと後頭部を掻きながら、ダニエルは、
「今日のリハビリメニューは?」
と、背後を振り返った。
寒い。
まぶしい。
今日の空は、とてつもなく、青い。
楽しそうな、こどもの声が、聞こえる。
助けてくれ。
声を限りに叫ぼうと、ただやくたいもない喉の痛みと疲労ばかりが、オレを、苛む。
オレは、なんだって、こんなところにいるんだろう。
よりによって、こんな、磔みたいな目にあってまで。
腹が減った。
喉が渇く。
ああ。
誰か。
誰でもいい。
オレに、水の一杯でいいから、恵んでくれないか?
甲高い笑い声が、オレの耳を、貫く。
うるさい。
うるさい………。
豪奢な寝室に、
「疲れた……」
ダニエルの声が、漂った。
ベッドで横たわっていたダニエルの手が、無意識にサイドボードを漁る。
しかし、
「チッ」
舌打ちをして、よいしょと重そうに起き上がる。
「禁煙してんだったっけな」
自主的な禁煙ではなく、強制的な禁煙である。
汗を流した後は、無性に、一服したい。それは、もう、どうしようもない、ヘビースモーカーの性のようなものだ。たとえ、それがリハビリの後であろうとも――である。
「治んのかね、オレの足」
誰もいないとき、ふっと、弱音がダニエルの口からこぼれ落ちる。
「あ〜苛々するっ!」
手に力を入れて、ダニエルは、思い通りにならない足を引きずった。
ようやく車椅子に移動できた時には、ダニエルの顔は、真っ赤に紅潮している。
手に力を込めて、ダニエルは、車輪を回した。
看護士に断わってから、ダニエルは家を後にした。
さんぽがてら、どこぞで煙草を手に入れて吸おうと思っていることは、内緒である。
家の敷地に隣接している公園に、入る。
公園を突っ切ったほうが、どこに行くにしても、近道なのだ。
さんぽと言った手前、車に乗るわけにもゆかず、ダニエルは、半ばうんざりしながら、車輪を回し続けた。こういう時、いずれ治るんだからと、意地でオートマティックの車椅子にしなかったことを、少しだけ後悔する。
「今更だよなぁ〜」
と、突然、車輪が軽くなった。
振り向くと、
「押したげるよ。どこまで?」
東洋人らしい少年が、屈託のない笑顔で、そう言った。
「たすかる。それじゃあ、公園外の、ドラッグストアまで頼む」
「オッケー」
車輪が地面を抉る音に、少年の足音が混じる。
「重くないか?」
「ん〜。重いけど、別に僕だけの力ってわけじゃないからね。大丈夫」
もちろん、ダニエルも、車輪を回している。
「ああ、そうだ。オレは、ダニエル・ラクランって言うんだ。おまえさんは?」
「ぼく? ぼくは、秋津卓弥だよ」
「チャイナ?」
「日本人」
「学校、休みなのか?」
そういえば、まだ、学校が終わるまで時間があるよなと、考えていると、
「休講になっちゃって、暇だったから、公園で昼寝でもしようかなって思ってたんだ」
「休講……昼寝って、おまえさん、今日がいくらあたたかいからって、もうじきクリスマスだぜ」
凍死希望か? と、突っ込みそうになる。
「思ったより寒かったから、諦めてたら、ラクランさんが見えたからさ」
「そりゃ、いいタイミングだったのかな」
「だね〜」
たあいのないことを喋りながら、ふたりは、ようやくドラッグストアに到着した。
「タバコね」
目的の物を抱えてほくほくしているダニエルに、あきれたような、卓弥の声が聞こえてきた。が、本人はなんとでも言ってくれ状態である。
「ホットココアくらいなら奢るぜ」
そう言うダニエルに、卓弥が、腕時計を確認する。
「ありがとう」
ドラッグストアの隣にあるカフェで、ふたりは、向かい合って座っている。
電飾の飾り付けられた樅の木、店内に流れている音楽も、賑やかであたたかなクリスマスソングのメドレーである。
「吸わないの?」
マグカップを両手で包み込んで、卓弥が訊ねる。
「おまえさんがいるのに、吸えんだろ」
口にくわえたタバコに、火はついていない。
こもった声でそう言われて、
「手伝って悪かった?」
「そんなことないさ。助かったし」
手の中でタバコの箱をもてあそびながら、ダニエルが言う。
「でもなんで一箱だけなの? わざわざ買いに行ったんでしょ? まとめ買いしない?」
そうでもない?
茶色の瞳に見つめられて、ダニエルは、人差し指で頬を軽く掻いた。
「いや、まぁ………」
カートン単位で買っての隠しタバコは、分が悪い。今は高いところに手が届かないから、隠すところも限られてくる。仮に隠したとしても、ひとに取ってもらうわけにもいかない。それくらいなら、いっそ、さんぽの習慣を作って、散歩先で吸おうかと、悪巧みしたダニエルなのだった。
「もしかして、吸っちゃ駄目とか?」
上目遣いにそう言われて、
「………」
ダニエルの緑の目が、店内を惑う。
「駄目だよ〜タバコの吸いすぎは!」
じと目で見られた上に言われて、
「しかしな。これは、すでに、オレの、精神安定剤であって……」
少しばかりダニエルはおたついた。
「ラクランさん怪我人だもんね、医者に止められてるんじゃない?」
絶句、である。
どう見ても、小学生くらいのガキんちょの洞察力の鋭さに、
「おまえさん、休講って言ってたな。………小学生じゃないのか?」
そういえば、と、気になっていたことを聞いてみた。答えにくい質問には、質問返しである。
小学校に休講というのはないだろう。仮にあったとしても、休講とは言わないような気がする。自習とか、そんな感じだ。
ダニエルの切り返しに、ふいっと、卓弥の大きな瞳が、揺らいだ。
「ん。あっちの大学に行ってる」
と、卓弥が指差したずっと向こうには、そういえば、数百年の歴史を誇る、大学があった。
「医学部……とか?」
「それは、僕ですよ」
「一条!」
少し構えていた卓弥の表情が、ぱっと先ほどまでの明るさを取り戻す。
慌てて声の主を探し出せば、卓弥よりは年長だろう少年が、ダニエルの横を通り過ぎ、卓弥の横の椅子に座った。
「これはまた………」
ダニエルのくわえタバコが、ぽとりとテーブルに転がり落ちる。
「休講になったのなら、来てくれてもよかったのですよ」
教授も、卓弥くんが来るの楽しみにしてますし。
「え? だって……この時間、一条、解剖実習だって言ってたじゃん」
さぼった?
「まさか。今日の献体は人間でしたからね。しっかりありがたく活用させていただきましたよ」
にっこりと笑う薄めのくちびるが紡ぐのは、かなり物騒な台詞だった。
えらい綺麗なガキだ……と、ダニエルは、一条と呼ばれた少年を見ていた。
手間暇かけて作り上げられたオリエンタル・ドール――それが、ダニエルが一条に対して抱いた第一印象だった。
少女じゃなく少年だとわかるのは、その瞳の鋭さのおかげだ。
不思議な、金色めいた一対のまなざしは、しかし、卓弥に向けられると、途端、やわらかく、とろける。
対照的なふたりの少年は、しかし、まるで、あらかじめ決められた一対の人形めいたしっくりとした雰囲気で、ダニエルの目の前にいる。
近づいてきたウエイトレスが、一条の前に水の入ったコップを置くまで、ダニエルは、ふたりを観察していた。
灰色の空が、重苦しく、垂れ下がっている。
誰もオレに気づいてくれない。
寒い。
淋しい。
寒い………。
空腹も喉の渇きも、麻痺してしまったかのように、感じなくなった。代わりに、オレを苛むのは、寒さと寂寥ばかりだ。
オレは、いったいなにをしたのだろう。
なにか、悪いことをしたのだろうか。
思い出せない記憶を穿り出そうと、目を瞑る。
なにか、ひとつ、たったひとつでいいから、思い出せないだろうか。
オレの名前だけでもいい。
好きだったものでもいい。
どんな他愛ないものでもかまわないから、思い出せ。
けれど、思い出せない。
まるで、漆喰か何かで固められてしまったかのように、オレの記憶は、見つからないのだ。
疲れた。
このまま眠ってしまおうか。
オレなど、誰にも、必要じゃないんだろう。
だから、誰も、オレのことを探してくれない。
思い出してもくれないのだ。
このまま。
凍えて、オレは、朽ちてしまうのか。
怖い。
淋しい。
寒い。
誰か。
誰か。
誰か――――
溢れ出す涙に頬が焼かれる。そうしてその熱が、凍えるほどの冷たさへと変わってゆく馴染んだ感触に、オレは、目を閉じた。
ふと、何かが、頬に触れた。
そんな気がして目を開けたオレは、窓から吹き込む雪の白い欠片に、気付いた。
はじめての雪だ。
その冬最初の雪の欠片に触れたヤツの願いは何でもかなう―――――頭の片隅に、浮かんだのは、そんなことだった。
だから、さあ、願いごとを。
だれかが、オレに囁いた。
いつのことだったろう。
誰の声だったろう。
ああ。
さっきの欠片が、最初の雪のひとひらなら、ここから出してくれ――と、オレは願うのに。
ロジャーが帰ってきたのは、出かけてから五日後のことだった。
恋人と過ごすらしい長めのクリスマス休暇をとった看護士と入れ違いのように、あの日以来親しくなった、秋津卓弥少年と一条要一少年のふたりが、遊びに来ていた。
八才と、十二才の少年は、その知識の量が半端ではなかった。が、大学とは関係のない彼のところでは息を抜けるのか、ふつうの少年たちとさして変わらないようすを見せる。
リハビリを終えた後のダニエルと、数時間、ボードゲームやカードゲームなどをして、遊ぶのが出会って以来の習慣になっていた。
「少し窓を開けますよ」
大人びた台詞と、流れるような挙措で、一条が立ち上がる。
部屋の中、凍えるような冬の空気が、入ってくる。
「うわぁ」
「寒いな」
「雪になりそうですね。そろそろ、おいとましますか、卓弥くん?」
「晩飯食べていかないのか?」
顔を上げた卓弥を見て、
「一応、七面鳥とケーキの準備はしてあるぞ」
と、付け足す。
「食べたい」
卓弥を釣るのは、食べ物だ。で、一条を釣るには、卓弥を釣るのが一番だと、疾うに、見越している。
ロジャーが帰れるかどうかは、微妙なところだ。まぁ、クリスマス・イブを仕事で過ごすというのも野暮だが。せっかくのイブを、ひとりで過ごすのも、これ以上なく、切ない。年下の友人達と、賑やかにすごしたいと思っても、おかしくはないだろう。
しかし、
「ゆっくりしていたら、帰れなくなりそうです」
ほら――と、室内へと差し伸べられた掌の上に、するりと溶け消えてゆく、雪のひとひらがあった。
「今年はじめての雪だね。最初の欠片かもしれないから、何かお願いしないと」
無邪気に卓弥が言うのに、一条が何か返している。それを尻目に言った、
「しかたない。遅らせよう」
思惑通りにならないことも、ある。
ダニエルのことばがきっかけになった。
一条は、部屋の隅に固めてあったコートとマフラーを取り上げ、卓弥に、着せてやる。
そうしておいてから、自分も羽織る。
「大丈夫?」
床の上に直に座ってゲームを楽しんでいたから、ダニエルは、車椅子に乗るのに、少し、もたつく羽目になる。
ミトンに包まれたのと子羊革の手袋とに包まれた、小さな掌につかまって、
「大丈夫さ」
ホラな。
鍛え方が違うと、ダニエルが片目を瞑って見せた。
「門扉が開きますよ」
再び窓に近づいた一条が、外を見ながらつぶやいた。
車椅子を進めて窓から外を見たダニエルが、
「ロジャーだ」
小さく叫んだ。
「そのひとは?」
出迎えたダニエルに、
「ああ。ダニエル。こちらは、エーリッヒ・フォン・リヒトシュタイン氏。取引先の社長だ。しばらく、我が家に逗留することになった。で、後ろにいるのが、リヒトシュタイン氏の秘書でマイエル・リンツ氏」
脱いだコートを執事に渡し終え、エーリッヒ・フォン・リヒトシュタインとマイエル・リンツとが、ダニエルを見た。
ふたりの視線に、ダニエルの背中が、ぞくりと粟立つ。
しかし、それは、ほんの刹那のことだった。
「はじめまして」
「よろしくお願いします」
物腰もやわらかに、手を差し伸べられて、
「ダニエル・ラクランです」
ダニエルは、手を、握り返した。
冷たさにゾッと震えたダニエルの意識は、しかし、
「で、ダニエル、その子たちは?」
ロジャーのことばに、他へと向かう。
クリスマスツリーの飾りをもてあそびながら彼らを見ている二対の瞳に、四人の目が、向けられた。
「留守中に知り合ったんだ。秋津卓弥と、一条要一。あそこの大学生だ」
ダニエルが漠然と指し示す方角にある大学を思い出し、
「それは、ふたりとも、優秀なんだな」
ロジャーが、ふたりに手を差し出した。
「はじめまして」
「よろしく」
「で、そのいでたちは、帰り支度かな」
少し首を傾げて言うロジャーに、そうだ――とダニエルが返すや、ロジャーは、
「それは、よしたほうがいい。吹雪だ」
と、ドアをほんの少しだけ開いて見せた。
「うそっ」
ドアに卓弥が駆け寄るのに、一条がゆっくりと続いた。
「うわ〜一条。これじゃ、前見えないや」
「泊まって行くといい。客は多いほうが楽しいからな」
そう言って、ロジャーは、執事に、客室の準備を命じた。
寒い。
寒い。
寒い。
からだも心も、凍えてしまう。
なのに、どうして、オレは、こうして、ここにいるのだろう。
垂れ込めそうだった空の雲が重さを増して、降りはじめた雪は、激しくなった。
全身が、痛い。
木の根に絡みつかれているところが、切り裂かれそうに痛い。
誰か。
本当に、誰でもいいのに………。
誰でもいい。
誰でもいいんだ。
オレをここから出してくれたら。オレは………
だから。
だれか、気付いてくれ。
凍りつくような涙で白く曇る視界に、届かない扉。
疲れきって、オレは、それを眺める。
黒い、黒檀の扉は、ただ、そこにある。
あの一枚向こうには、きっと、自由がある。
暖かな部屋がある。
この木の根を千切る力が欲しい。
ここから抜け出す力が、欲しい。
ああ、視界がぼやけてゆく。
扉が、ゆるゆると、溶けてゆく。
「あーうまかった。ごちそうさん」
手を合わせる卓弥に、食堂に集まった一同の視線が集中する。
「お腹はいっぱいになったかい?」
ロジャーが笑いながら言うのに、
「もう食べれない」
と、お腹をさする。
成長期とはいえ、猛スピードで料理が減ってゆくのは、見ていて小気味がいいくらいだった。
ふたりの小さなゲストの好対照な雰囲気に、ロジャーは、やわらかな微笑を投げかける。
エキゾチックな美貌のオリエンタル・ドールがなにくれと、腕白そうな年下の少年の世話を焼くさまは、見ていて微笑ましい。
こんなふたりがダニエルと知り合いになったのなら、彼の気分も、少しは浮上するだろう。彼は、自分には何も言わないが、動かなくなった足に、相当なショックを受けている。そうして、治るかどうか、不安で仕方がないのだ。
共寝のベッドで時折りうなされるダニエルに、ロジャーもまた、危惧が消せずにいる。
自分をかばったせいで、最愛の恋人は、下半身に損傷を受けた。『足手まといでしょう』と、別れを告げられた病室でのあの日を、ロジャーは、まざまざと、思い返すことができる。
女の恋人であったなら、美談にもできる。しかし、男の恋人は、たとえ美談となったとしても、いずれは足手まといになる。クレセントの社長には、少しの瑕もあってはいけないんです。
そんな風に言われて、思わず、手を振りかぶっていた。
ダニエルの頬に爆ぜた、自分の掌とダニエルの頬が当たった音が、ロジャーを我に返らせた。
『私がおまえを愛したことが、瑕だと、おまえはそう言うのかっ! おまえが私を愛した、その感情もまた、瑕だと』
『だって……そうでも思わないと、オレは、どうすればいいんです?』
赤く頬を腫らして、ダニエルが、青い瞳で見上げてくる。
『オレは、こんなですよ』
掛け布団をめくって、力なく伸ばされたままの足を、剥き出しにする。
『誰かに、抱きかかえてもらわなけりゃ、起き上がることすらできやしない………あんたに、応えることだって、できないんです―――――こんなオレが、あんたの傍に、いられるわけがないでしょう』
泣き笑いの表情が、痛々しかった。
馬鹿が……としか、言えなかった。
毎日のように、忙しい合間を縫ってダニエルを見舞うたびに、ロジャーは、ダニエルと似たような言い争いを続けた。
そうして――――
『おまえがどんなになろうと、私がおまえを愛していることは、揺らがない』
無理に掴んだダニエルの左手の薬指に、ホワイトゴールドを、嵌めたのだ。
『いいな。これで、おまえは、私のものだ』
魂に刻み付けるように、瞳を覗き込み、ロジャーは、低く、ゆっくりと、そう言ったのだった。
暖かそうな部屋が見える。
趣味のいい落ち着いた室内に、六人の人間がくつろいでいる。
聞こえてくるさんざめきは穏やかで、耳にやさしい。
暖かそうなオレンジ色に照らされている光景に、切なくなる。
羨ましい。
あの中に入りたい。
そう。
たった一枚の扉。
扉の向こう側に、あたたかく心地好い世界はあるのにちがいない。
なのに、どうして、こっち側はこんなに冷たいのか。
淋しくて、痛くて、辛いのだろう。
オレは、本当に、なにをしたのだろう。
こんな罰を受けなければいけないような、なにか、酷い罪を犯したのだろうか。
キリキリと肌に食い込む木の根の痛みが、オレを、この場に、とどめるかぎり、思い出せない記憶に、オレは、ただ、絶望を、羨望を、噛みしめるよりないのだろうか。
食事を終えて、場所を移した一同は、しばらくグラスを傾けていた。もっとも、怪我人であるダニエルと、お子さまであるふたりは、酒はご法度と、ホットミルクだったが。
情けない顔をしてマグカップの中のミルクを啜っているダニエルと卓弥、それに一条は、ホールにあるのより二回りほど小さいクリスマスツリーの脇、火の燃えさかる暖炉の前のラグの上で、ボードゲームに興じている。
ロジャーと向き合ってブランデーを飲んでいたリヒトシュタインが、ふと、立ち上がった。
「いいピアノだ」
今の真ん中ほどにある黒く艶光りするグランドピアノの鍵盤を撫で、ポンと軽く、指を落とす。
「弾いてもかまわないだろうか」
思いもよらぬリヒトシュタインの申し出に、
「どうぞ」
かすかに目を大きく見開き、ロジャーが、肯った。
リヒトシュタインは、グランドピアノに向かうと、鍵盤の上に、なめらかに指を走らせた。
やがて、室内に、音が流れ出す。
曲は、ジム・ノぺ・ディ。エリック・サティの、軽やかな曲だった。
リヒトシュタインの意外な特技に、卓弥たちもゲームの手を止めて、耳をかたむける。
どれくらいそうしていただろうか。静かな曲ばかりが、数曲室内を流れては消えた。
目を閉じたまま鍵盤の上に指を躍らせていたリヒトシュタインが、余韻だけを残して、ぴたりと手を止めた。
拍手が、居間にあふれる。
と、突然、リヒトシュタインが、それまでの曲は指ならしだといわんばかりの迸るような激しさで、和音を掻き鳴らした。
そうして、次に流れはじめたのは、不思議な旋律だった。
どこかノスタルジックな、それでいて重厚な、まるで空気がうねり、すべてを飲み込むかの、螺旋めいた旋律。それは、聴衆をも巻き込み、心地好い酩酊を聞くものに与える。
ピンと、最後の鍵盤が、弾けた。
そうして、震える大気が、ゆるやかに、平静へと戻ってゆく。
気だるさが、聴衆を捕らえていた。が、それは、決して、不快ではない感覚だった。
首を数度降り、ロジャーが、ダニエルが、卓弥が、一条が、そうして、マイエル・リンツが、瞼を瞬かせる。
「それは、何という曲なのですか」
一条が、リヒトシュタインを見上げて訊ねた。
リヒトシュタインの頑ななまでに黒いまなざしは、どこか遠くを見据えているようだった。しかし、一条の声に我に返ったのだろう、金茶の瞳を見下ろした。
ふっと、リヒトシュタインの口角が持ち上がり、
「夜に香る星々の宴――というタイトルがついているのだよ」
そう、答えた。
「夜に香る星々の宴―――ですか。とても素敵な曲でした」
そんな、一条のことばが引き金になり、室内を、しばし、再びの拍手が占めたのだった。
心地よさそうな室内のようすを見ていたオレの耳に、ふと、透明なグラスが砕けるような音が、届いた。
キラキラと、まるで空からふりそそぐような、不思議な音色は、ほんの一瞬、オレの苦痛を忘れさせてくれた。
誰が?
目を凝らせば、黒い髪の壮年の男が、楽器に向かっている。
よく見えない。
そう。扉の奥の光景は、どこか夢の中のように、ぼやけている。
オレは、音色に耳を澄ませた。
と、拍手が聞こえてきた。
もっと聞かせてくれ。
そう思った。
曲に聞き入っていた間だけ、オレは、オレの苦痛を忘れてしまえたのだ。
もっと。
オレの願いは、いつもかなわない。
だから、どうせ叶いはしないのだ―――と、半ば諦めようとつとめながらの願いだった。
だから、それが聞こえてきた時、オレは、本当に、嬉しいと、そう、思ったのだ。
多分、それは、オレにとって、はじめてのことだったにちがいない。
けれど………次に耳に届いた曲に、オレの背中は、逆毛立った。
全身の血が、逆流するかと思った。
聞き覚えがある。
懐かしい。
それでいて、全身が強張るほど、怖ろしい。
旋律が、オレを、したたかに、打ち据えようとしていた。
せめてもと、わずかに顔を背け目を閉じようとした。刹那、オレの視界に、飛び込んできたものがあった。
霞んでいる扉奥の景色の中、楽器を奏でる男の黒いまなざしが、オレを凝視している。
その強さに、オレは、これまで以上の恐怖を覚えたのだった。
つづく
up 20:35:49 2008 12 01
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