立ち上がったエーリッヒが、ソファに戻ると、ロジャーがグラスを差し出した。
「意外な特技をお持ちですね」
とても、すばらしい腕前でした。
「それは、どうもありがとう」
グラスを受け取り、一気に煽る。琥珀の液体が、エーリッヒの喉を焼きながら落ちてゆく。
「ところで、先ほどの曲には、何か、いわくがありそうですね」
「なぜそう思うのです」
ゆったりと、グラスを両手でくるむようにもてあそびながら、エーリッヒの視線が、ロジャーのやはり黒いまなざしを見返した。
「いえ、ね。実は、我々がこの家に越してきて一月経っていないのですよ」
こどもに返ったように、越してきてすぐ、館の探検と洒落込んだ。
「家具調度一切こみで買ったものですが、忙しくて、細部まで確認してはいなくてね」
ふたりの近くに、ダニエルと卓弥、要一が、集まった。マイエル・リンツは、最初から、窓辺で、ひとり酒を飲んでいる。
「そうなの?」
「ま、な。一から揃えるのめんどいしな。買ってすぐ、オレの部屋とリハビリ用にする部屋を決めて、改装したんだよな。あとは、階段、車椅子じゃ駄目だから、階段の手摺にリフトっつーのか? 昇降用に車椅子を運ぶ装置をつけたけど、それだけかなぁ手を加えたのは。ああ、台所とか、水回りも手は加えたか」
指折り数えながら、ダニエルが、卓弥に答える。
事実、この家は、バリアフリーに気を使っている。
段差は極力おさえているし、階段には、先ほどダニエルが言ったリフトが備え付けられている。風呂やトイレも、そういえば、と、卓弥は、思い返した。
「愛されてるんだぁ」
しみじみと――といったように、卓弥が、ダニエルの顔を覗くと、
「ガキがなにませたこと言ってんだ」
と、顔を赤くしたダニエルが、卓弥の髪をかき回した。
「それで、リフトの具合を確かめるのを兼ねて、屋根裏部屋の探索をしたんだったよな」
ロジャーが、口元に笑いを忍ばせて、ダニエルに確認する。
「あ、ああ。そうでしたっけね」
タバコを吸いたいなぁと考えながら、ダニエルは天井を見上げた。
「昔は使用人の部屋だったらしい区切られた壁をブチ破って、色々と不用品が詰め込まれていました。衣類から、古くなった家具や絵画、楽器の類とか。で、興味深かったのは、羊皮紙を使った、書籍の類です。巧妙に隠されていたので、これまでの持ち主も、発見できなかったらしくてね。古書店に売れば、目が飛び出るくらいになるでしょう稀覯本の山でしたよ。鞣革に金銀やら色石を使って、綺麗に装丁してありました。写本なのか、原本なのか、あいにく、私にはわかりませんでしたが。一応全部図書室に移動しましたよ」
「あの時は大変だった。執事やら料理番やら総動員して下ろしたからなぁ。オレもロジャーも埃で真っ白になっちまった」
「おまえは手を出さなくてもよかったんだぞ」
「いまさらでしょ」
「それで?」
興味を覚えたらしいエーリッヒが、先を促す。
「どうやら、この館の大分前の持ち主は、錬金術にかぶれていたようで」
「大分前というと?」
「四、五百年ほど昔というところでしょうか。もっと前の可能性も否定しませんが。ともあれ、本の間から、この館のものらしい絵図面や設計図が出てきたところをみれば、もしかしたら、最初の持ち主かもしれませんね。この館を設計したのかもしれません」
「それ見るかぎりじゃ、もっと広かったみたいだよな。時代を下るにつれて、落雷で塔が壊れたり、あちこち売り払ったりして、今の規模になったみたいだ。昔は、隣の公園とかも敷地に含まれてたみたいだし」
「へぇ……お金持ちはちがうなぁ」
卓弥の感想に、空気が、和む。
「まぁ、それでひと段落ついた後に、もう一度屋根裏に行ったわけです。取りこぼしがないか――とね。で、これが、あったわけです。壊れかけたチェンバロの足元に、数枚の羊皮紙が、くるくると半分丸まりながら落ちていた。それが、楽譜だったんです」
「では、もしかして、それが、今の曲だと?」
「ええ。あれよりは、洗練されているようですが。……ああ、失礼。まどろっこしい説明になってしまいましたがね」
たしかに――と、突っ込むものはいなかった。
「私が見た楽譜に、タイトルはついてませんでしたが」
「縁は、奇なものとか。不思議なこともあります」
エーリッヒが、ソファの背にゆったりともたれて、足を組み替えた。
「取引先の社長の家に招かれて、そこが、かつて、私の先祖が暮らしていた家だという確率は、どれくらいなのでしょう」
エーリッヒが、口にする。
「それでは……」
「昔。私の祖先は、この地に暮らしていたらしい。何百年も昔のことだから、土地の名前も変わっているだろうから、今の住所とか番地とかでは明瞭にはわからないが。それでも、どの辺りにどのような館があってそこに一族で暮らしていたという記録は、残っている。先ほどの曲も、一族に伝わっている曲だ。無名の作曲家が作曲したという無題の曲にタイトルをつけたのが誰か。私が知った時には、すでに、夜に香る星々の宴と、呼ばれていたのだが」
座が、静まり返る。
しばらくは、暖炉の薪が燃えるパチパチという音だけが、室内に響いた。
それを破ったのは、
「ねぇ」
「なに、卓弥?」
服の裾を引っ張られて、一条が、横にいる卓弥を見下ろす。
「なんかさぁ、見られてるみたいな気がしない?」
「見られてる?」
「うん。なんかねぇ、そこのほうから、視線を感じるんだ」
そう言って、卓弥が指し示したのは、暖炉だった。
太い木を、炎が、焼き焦がしてゆく。
少年の高い声に、大人たちの視線も、なにげに、暖炉に向かう。
窓の外、吹雪はますます激しく、やむ気配もない。
「その向こうにあるのは、ただの壁だぞ。石造りの家だから、かなり分厚くできているが、壁向こうは、庭で、それより向こうは、公園だ」
ダニエルが、卓弥の頬を両手で挟んで目を覗き込む。
「どうした、眠いか?」
お子さまはおねむの時間かな〜と、暖炉の上の時計を見れば、九時を過ぎたところだった。
「馬鹿言うない!」
丸い頬をなお一層膨らせる。
「疲れたのかもしれないね」
要一が、横から、ゆっくりと、口を挟む。
知らないひとが多いから、ちょっとはしゃぎすぎたかな――と。
「一条まで子ども扱いするっ」
「だって、こどもでしょ、君も僕も」
にっこりと微笑まれて、卓弥は、ぐうの音も出ない。
「そりゃそうだけどさぁ………」
「もう、寝る?」
眠いけどなんか、うなづくのが癪で、卓弥は、
「いいけど……でも、なんか、物足りない」
自分でもわがまま言ってるなぁと思いながら、要一に絡んでしまう。
「じゃあ、なんか本でも借りる?」
先ほどの話にも出てきたが、この家の図書室の蔵書がかなり充実しているのを、以前ダニエルに案内してもらって、要一は知っている。
「かまいませんか?」
ロジャーを振り返ると、
「ああ。何冊でも好きなだけ」
面白そうに自分たちを見ていたロジャーの視線とぶつかった。
「じゃ、そういうことで、お先失礼します」
「おやすみ」
にっぱりと笑って手を振る卓弥に、ダニエルが、
「部屋まで案内しよう」
と、進み出した。
喉から、悲鳴が迸る。
ぶざまに掠れた悲鳴が。
引き攣るように、絞められるように、喉が、痛い。
けれど、抑えることができなかった。
怖くてならなかったのだ。
怖くて。
逃げたくて。
全身を縛める根を引きちぎろうと、痛みよりも壮絶な恐怖に、オレは、必死になって足掻いた。
けれど、すべては、徒労となって返ってくるばかりだ。
こみあげてきた涙が、眼球に染みる。
あの黒い目が、怖かった。
まるで、オレに襲い掛かってくるかのような、強い視線。
イヤだ。
逃げないと。
オレの記憶を固めている漆喰が、剥落してゆく。
細かくひび割れて、小さな欠片が、オレの周囲に、飛び散る。
駄目だっ!
叫んだ。
思い出すんじゃない。
ああ。
記憶を固めたのは、誰でもない。
オレ自身だったのだ。
疲れ果てた思考が、そこへと到達する。
忘れたい。
忘れよう。
その望みだけが、オレの願いの中で叶えられた、ただひとつだったのだ――――と。
虚しいばかりの思いに捕らえられ、オレは、足掻くことすら忘れていた。
「広いや〜」
ベッドの上で飛び跳ねながら、卓弥がはしゃぐ。
客間について部屋を見た途端の卓弥の興奮具合に、ダニエルが、後頭部を掻く。
「ありゃ。眠気が吹っ飛んじまったか?」
「大丈夫ですよ。あれなら」
クスクス笑いながら、要一が、ソファセットの上に、数冊の本を乗せた。
「おまえさん、まじで、あいつのこと、好きなんだな」
「あなたが、メイヤー氏のことを好きなていどには」
自分の半分以下の年齢の少年が、キッパリ言い切るのに、ダニエルは、緑の瞳を見開いた。
「そうか。ま、がんばりな」
「ありがとう」
ふわりと笑んだ要一と、まだベッドの上で飛び跳ねている卓弥に、
「おやすみ」
を言って、ダニエルは、部屋を後にした。
「なぁ、ラクランさん、何言ったんだ」
ベッドから飛び降りた卓弥が、ソファに腰かけた要一の背中から抱きついて顔を覗きこんだ。
「別に、たいしたことじゃありません」
膝の上に、本を乗せてめくっている。
「なに借りたの?」
表紙を閉じて、卓弥がよく見えるように、少し持ち上げる。
「なになに? ……拝蛇教……………ってこれ、たしか、錬金術系の」
ラテン語のタイトルを読んで、卓弥が、赤い革に金箔と金とルビーらしきもので飾られている表紙をめくった。
「そう。錬金術の経典ですよね。さっき話題に出てたので、借りてきました」
「じゃ、こっちのも?」
「ヒエロニムスにパラケルスス。あとは、ニコラス・フラメルもありましたよ。とりあえず、代表的なのを数冊だけ借りたのですけどね」
「台所からできた学問ってやつだよなぁ」
「料理も、言ってみれば、原始的な錬金術ですからね」
「なんだっけ……術者は、術を始める前に、必ず、男女ふたりで、かまどの前で精神を統一しなければならない――だったっけ?」
「そう。陰陽の合一がなされていないと、術は失敗するんですよ。どちらが欠けても、不完全。言ってみれば、先取的な、男女平等の思想ですよね」
「有名な錬金術師しか知らないけどさ〜女のひとって記録に残ってたっけ?」
「そういえば、そうですね。僕も、寡聞にして、知らないです」
ふたり、顔を見合わせた。
と、ガタガタと、ひときわ大きな風に、窓が音をたてた。
「明日。帰れるかなぁ」
「どうでしょう。……どうしたの? 淋しいですか?」
金茶の瞳に覗き込まれて、卓弥が、すこし、身を引いた。
「そんなことはないけどさ」
「わかりました」
「な、なに」
にやりと少しひとの悪い笑いをたたえた要一の表情に、いやな予感を覚える。
「ホームシックでしょう。卓弥くんっ」
クスクス笑う要一に、
「馬鹿言うない」
と、食ってかかった。
笑いながら、卓弥の拳を受ける要一は、心底楽しそうだった。
こぼれ落ちた記憶の欠片が、できの悪い人形芝居をくりひろげていた。
チェンバロをオレのミニチュアが弾いている。
最新式の、六オクターブの音域の広さを誇る、チェンバロだ。
オレのミニチュアは、チェンバロの音色に酔っている。
と、黒々としたひとの形をした影が、現れ、オレを、背後から、抱きしめた。
ゾワリ――――オレの背中を、怖気が、駆け抜ける。
しかし、ミニチュアのオレは、戸惑っている。
見返して、頼りなげな、不安そうな笑いを顔に貼りつけている。
そう。相手は、オレの支配者なのだから、逆らったりしたら、オレはどうなるのか、わからない。
何も知らないオレのミニチュアは、だから、緊張して、相手を見返すばかりだ。オレなど、ただの道化師と変わらない。いや。道化師のほうが、弁が立つ分、潰しがきくのかもしれない。
酒に酔ったのだろう支配者は、軽くあしらわなければ。
けれど。
支配者のくちびるが、耳の付け根をきつく吸い上げてきた。頬にすべり、首筋へと移動して、オレのミニチュアが我に返る。
藻掻くミニチュアを、支配者の影が、きつく、背後から縛めた。
ミニチュアの顔色が、赤く、青く、次々と変化する。
首を振り、逃れようとするミニチュアが、渾身の力で、支配者の影を、押し退けた。
逃げ惑うミニチュアを、支配者の影が追いかける。
ぶざまなほどにうろたえながら、ミニチュアが、逃げる。
叫び声が、耳に痛い。
逃げるオレは、どれほども保ちはしない。
先の展開など、思い出すまでもない。
見たくなかった。
オレの願いは、かなわないのだから。
黒い影に犯されるオレのミニチュアから視線を外すことだけが、オレにできる唯一のことだった。
オレは、窓の外を、眺めた。
ああ…………
寒い。
窓の外の吹雪は、オレを、凍死させようとしているかのようだ。
キリキリとオレを締め上げる木の根もまた、寒さに、震えるかのように蠢いていた。
卓弥と一緒のベッドで眠っていた要一は、夜中に、目覚めた。
「卓弥くん?」
枕もとのスイッチを押して、ライトを灯す。
オレンジの光が、天蓋付きのベッドの内部を照らした。
オレンジに染まって、卓弥が、眉根を寄せている。
うなされている卓弥を揺すってみるものの、目覚めない。
いかに寝汚いとはいえ、うなされているのだから、きっかけを与えれば目覚めそうなものなのに。
「ごめんね」
つぶやいて、ぴしゃりと、頬を叩いた。
「って」
弾けるように瞼が開く。
まっすぐな瞳が、周囲を確認するかのようにゆらめいて、要一を捉えた。
「いちじょう………」
ホッとしたのか、卓弥の瞳に涙がこみあげてくるのを、要一は、静かに、見つめていた。
「寒くて、怖くて、どうしようかと思った」
震える卓弥を、要一は毛布でくるくると包みこむ。準備万端のポットのお湯で淹れた紅茶に、蜂蜜をたっぷり溶かしこんだものを手渡す。
「飲むといい。落ち着くし、ぬくもるからね」
室内の明かりをすべて灯し、毛布の上から、背中をさする。
「淋しくてね。辛くてね。どうすればいいかわからないんだ。どこにも逃げるところがなくって、全身が痛くて、苦しくて寒くて………」
涙をこぼす卓弥に、
「夢だよ。悪い夢だ。でも、卓弥はこうして目が覚めたんだから、もう、苦しいことも辛いこともないんだよ」
「ん。でもね、あれは、誰か、他の誰かの、夢、ううん。記憶みたいなものだと思うんだ………」
「他の誰か?」
ゆっくりと、卓弥がうなづいた。
「ぼくは、その誰かの心に入り込んだみたいな、別の誰かが苦しんでるのを感じてるだけなような、そんな感じがしてならなかったんだ」
卓弥の切なそうな表情に、要一は、かけることばを失っていた。
誰だろう。
誰かがいる。
見えない誰かが。
そんな気がしてならなかった。
見えない誰かが、オレのために心を痛めている。
錯覚に決まっている。
誰も、オレのために、悲しまない。
誰も、オレを、救ってはくれない。
オレは、取るに足らないものなんだ。
ここで、苦しみながら、朽ちてゆくしかない、ただの、ひとの形をした塊。
なのに、その見えない誰かが、オレのために涙を流しているような気さえして、オレは、どうすればいいのかわからなくなった。
寒くて、辛くて、痛くて、怖くて、ひもじくて。それは、少しも変わらないのに、なのに、ほんの少しだけ、嬉しいような切ないような、不思議な気持ちにとらわれていた。
「見つけたぞ」
「はい」
「あれは、やはり生きていたな」
エーリッヒが、満足そうに、つぶやいた。
「まさか、元の屋敷に囚われているままとは考えもしなかった」
あれらしいといえば、あれらしいが。
喉の奥で、笑いを噛み殺しながら、独り語ちる。
「それでは、かつてのあのどさくさで」
マイエル・リンツが、合いの手を入れた。
「おそらくは、逃げそびれている間に次元がずれたのだろうが」
あれは、かなりな、騒動だったからな――――。
声に出して笑いながらも、エーリッヒの目は笑っていない。
「まったく。手間をかけさせる」
「それでも、手放されるおつもりは」
「ない」
マイエル・リンツの言葉を断ち切るように、エーリッヒは言い放つ。
その、黒檀よりも黒い瞳が、王者のように傲然とマイエル・リンツを見返していた。
知らず、マイエル・リンツの視線が揺らぎ、逸らされる。
「たとえ騒動を起こした張本人とはいえ、あれは、あくまで、私のものだからな」
どれだけ探したと思っている。
「どうなさるおつもりです」
「もちろん、取り戻す」
「お手ずから?」
「ほかに誰がいる」
不遜なことばにも、マイエル・リンツはただうなづくだけだった。
剥落した記憶の欠片が、あちらこちらで好き勝手に、過去の再現を繰り返す。
過去は、直視したくないものばかりで形成されているかのようだ。
叫びだしたくなる。
自由であったのなら、泣き喚いて、その辺の石を投げつけているのに違いない。
オレ自身のミニチュアと、黒さが薄れてゆく支配者の影に――向かって。
狂えればいいのに。
狂ってしまえれば。
記憶の欠片が好き勝手するのを見やりながら、オレは、ただ、オレを憐れんだ。
先ほどの切なさも、嬉しさも、もはや、役には立たない。
ただ、オレは、目を閉じ、叫んだ。
叫びでもしなければ、声が聞こえてくるのだ。
聞きたくもない、いろんな声が。
ふと、何かが耳に届いたような気がして、ダニエルは、読んでいた本から目を上げた。
「どうした?」
パソコンに向かっていたロジャーが、首だけで振り返った。
「え? いえ、なんか、誰かの悲鳴が聞こえたような気がしたんすけどね」
「吹雪の音だろう。まだ風が強いようだ。明日は日曜だからいいとして、明後日までにはやんでほしいものだ」
「仕事好きですからね」
「仕事以上に好きなものもあるが?」
椅子から立ち上がりながら、ロジャーが言い放つ。
「そんなもの、あんたにありましたっけ?」
首を傾げるダニエルに、
「誘ってるのか? おまえに決まっているだろう」
と、くちづけを落とす。
「やめてくださいって、まだ、本、途中なんですから」
「そんなもの、別に明日でもいいだろう」
本を取り上げ、ロジャーが、ダニエルを抱き上げる。
「まったく。我儘なんですから」
「おまえにだけだ」
「それは……知ってますけどね」
ロジャーの首に腕を回して、赤くなったダニエルが、ロジャーにくちづけた。
闇だ。
ただの闇。
けれど、解き放たれた記憶は、明暗に関係なく、まざまざと繰り広げられる。
いっそ、鮮やかなまでに。
悪意でもあるのかと、怯えてしまうまでに。
やがて、オレのミニチュアは、ひとつにまとまった。
黒々とした影が薄らいでいたオレの支配者もまた、ひとつにまとまり、そうして、思いもよらなかった姿を現した。
ミニチュアだったオレが、不安げに、オレを、オレと支配者の分身とを見比べる。
本物じゃない。
わかっていても、駄目だった。
オレのすべてを支配する男が、けれどもあくまでも男の分身でしかないそれが、にやりと、ふてぶてしいまでの笑いの表情を宿す。
闇よりもなおのこと黒い瞳が、オレを見据える。
――――実体はない。
幻なんだ。
オレは、必死で、つぶやく。
自分に言い聞かせるために。
これは、あいつじゃない。
あいつじゃないんだ。
それでも、しとどに全身を濡らすのは、冷たい汗。
それでも、全身は、おさまりがつかないくらいに震えつづける。
怖い。
そう。
怖いんだ。
オレのすべてを支配するこいつが、オレは怖くてたまらない。
望まない生を押しつけられて、望まない行為を強要される。
逃げたのは、オレ。
そう。
オレは、自分から、ここに留まったのだ。
――――――あの騒ぎのさなか、オレは、望んだ。
ただ、支配者から逃れたいと。
逃れられるのなら、オレは、分解してもかまわなかった。
オレをオレたらしめている、構成要素が解けて、そうして、無に帰してしまっても、オレは、後悔などしなかったろう。
どうせ、オレなど、自然の摂理とはかけ離れた存在でしかなかったのだから。
だから、オレの願いは、叶えられることはなかったのだろう。
思い出してしまえば、何のことはない。
オレは、ひとではなかった。
ひとであるかのように、存在してはいても、神から命を与えられた存在じゃない。
その証拠に――――
支配者の分身が、オレに手を伸ばす。
オレは、手に力を込めた。
ぶつり。
イヤな音をたてて、オレの腕が、千切れた。
オレを縛めていた木の根が、ざわりと、蠢いた。
「うわっ」
「なんだ」
突き上げるような振動に、大なり小なり、驚いて目覚めた。
堅牢な石造りの屋敷が、揺らいだのだ。
屋敷のあちこちに、明かりが灯る。
「地震?」
「揺り返しがくるんじゃないのか」
「しかし、この吹雪じゃ、外には………」
卓弥、要一、ダニエル、ロジャー、執事が、ホールに集まっていた。
樅の木を飾る電飾が、彼らの顔を、色とりどりに染める。
「あれ?」
「リヒトシュタインさんたちがいませんね」
「まさか、とは思うけど、まだ寝てる?」
「まぁ、揺り返しもないようですしね」
一同が安堵したのもつかの間。
電飾も色あせる鮮烈な光が、屋敷を照らし出した。
イヤな音をたてて、オレの右手が、引き千切れる。
途端、オレを襲ったのは、信じられないほどの、痛みだった。
目が眩む。
気が遠くなりそうだった。
しかし、それを押しとどめているのも、また、痛みに他ならない。
――はやく。
なぜ?
オレは、呆然と、オレの肩から流れる赤いものを凝視した。
オレは、ひとじゃないのに。
オレは、神が創ったものじゃないのに。
なのに、なぜ、血が、流れ落ちているのだろう。
ただ、ひとの形をしているだけの、ただの、肉の塊にすぎないのではなかったのか。
ただの、人形。
そう。
あいつにいいように操られる、ただの、人形にすぎないはずなのに。
オレから流れ出る赤いものに、ざわりと、木の根が、震えた。
喜んでいるのか?
するすると、オレの全身を絡めとっている根が、蠢き、外れた。
自由――――なのか?
信じられなかった。
あまりにあっけなく、解放が訪れたせいだろう。
自由を望んだわけではなかったが。
目の前のものから逃げるためには、自由になるよりないのもまた、事実で。
オレは、ゆっくりと、立ち上がった。
萎えた足は、オレを支えられなかった。
一歩踏み出そうとした途端その場に倒れたオレの視界を、青白い光が灼いた。
あまりの眩しさに、目の前が真っ白になった。
この光は――。
覚えている。
―――――オレを見据えた、あの、黒い目。
オレの支配者―――が術を施す時に迸るのと同じ、冷たいばかりの青白い輝きだった。
「何の光だ」
「あっち、居間のほうからだ」
「なっ」
駆けつけた一同が見たものは――――
「これは、いったいどういうことだよ」
逸早く自分を取り戻して、卓弥が、居間に足を踏み入れた。
「卓弥くんっ」
要一の手が、卓弥の肩を掴んだ。
居間の暖炉が、不思議に歪んで見えるのは、気のせいだろうか。
青白い光に照らされて、その半ばまでが透明になった暖炉のその奥に、あるはずのない部屋が、見えるのだ。
これもまた半透明の黒い扉が石の壁が透けて、朽ちかけた部屋がある。
床のあちこちに雪が積もっている寒々しい室内に、木の根に覆われた正面の壁がわに、ひとりの少年が、蹲っていた。
苦痛に歪んだ顔が、こちら側を、見据えている。
「大人しく待っていればいいものを」
卓弥の声など聞こえなかったかのように、エーリッヒが、吐き捨てる。
忌々しげな響きに、卓弥が、エーリッヒを見やった。
「まさか……」
思わず卓弥の口からこぼれ落ちたことばを、
「彼を知っているのですか」
と、要一が、拾い上げた。
「どういうことなんです」
ロジャーの声。
居間に、全員が揃っていた。
「驚かせて申し訳ない」
少しもそうは思っていないような、平坦な声音だった。
「しばらく待ってもらいたい」
そう言うや、エーリッヒは、一歩、踏み出した。
半透明な暖炉に、エーリッヒが、ずぶりと入ってゆく。
まるで、ゼリーに混じりこんでゆくかの光景に、一同は、もはや、声もない。
黒い扉すら通り抜けて、エーリッヒが、少年の前に手を差し伸べた。
この手をどうしろというのだろう。
取れと?
逃げたい相手の手を、オレから?
力のない笑いが、オレのくちびるを割って転がり落ちた。
所詮、逃げられはしないと、そういうことなのか。
かつてと同じく。
――――
魔女の告発をしたのは、オレだ。
そう。
オレ自身だった。
オレを創り出した男を、オレは、殺したかった。
そうでもしなければ、この男からは逃げられないと、オレは知っていた。
なのに。
この男は、まんまと魔女狩りから逃れきり、オレは、ぶざまに、こんなところに囚われてしまったのだ。
「懲りただろう」
どれくらいぶりなのか。直に耳にする男の声に、オレの全身が震える。
「無茶をする」
木の根に絡め取られたままのオレの右手を拾い上げ、男は、オレを無造作に抱きかかえた。
所詮、オレは、この男の所有物でしかないのだ。
諦観が、オレを浸してゆく。
これから先を思って、オレは、どうしようもない苦痛に、目を閉じた。
エーリッヒが少年を抱えて戻ってきた途端、あまりにあっさりと、暖炉の存在感が元に戻った。
青白い光が、収束してゆく。
とってかわったのは、室内を照らす暖色の灯だった。
一同が見守る中、少年はソファに横たえられ、エーリッヒが、千切れた腕を無造作に、切断面にあてがった。
苦痛に、少年が、呻く。
その刹那、エーリッヒの顔に現われた表情に、集まったいくたりかが、震えた。
少年の苦痛を楽しむかの笑みが、エーリッヒの顔に表われていたのだ。
先ほどと同じ青白い光が、傷口に走った。
と、瞬く間に、少年の腕は、千切れたことなどなかったのだと主張する。
思わずといった風に、要一が、少年の腕を、確認した。
どこにも、傷跡一つありはしない。
「あなたは、いったい………」
要一の金茶の瞳が、エーリッヒに据えられた。
「さぁ」
しかし、エーリッヒの口が紡いだのは、ひとを食ったような、応えだった。
「こんな……治療など……ひとにはできない」
要一の震えることばに、
「悪魔、魔女、魔王――――神などと呼んだものもいたな」
意識を失った少年の髪をもてあそびながら、エーリッヒが、嘯くようにつぶやいた。
「で、真実は、どれ、なのです?」
ロジャーの固い声に、
「なんとでも」
肩を竦める。
「なんと呼ばれようと、私は私でしかないからな」
――ただ、存在するだけのものだ。
「では、その少年は」
「これ、か」
エーリッヒの黒い瞳が、不思議な感情を宿して、少年を見下ろした。
「これは、私の唯一の創造物――――」
「ホムンクルス?」
卓弥が驚いたように、つぶやいた。
「そう。これは、私の、人形だ」
血肉を持つ人形。人形であればこそ、年を取らない。死ぬこともない。
数百年前の魔女狩りで失ってから、ようやく、取り戻すことができたのだ。
次元の隙間に落ち込んで、行方が知れないままだったのでね。
突き放すような、包み込むような、不思議な情感の声だった。
「数百年、探していたの?」
卓弥の驚いた声に、
「私のものなので」
穏やかな声が、応じる。
「では、そちらの秘書は……」
「ああ。マイエル・リンツか。彼は、私の、そう、弟子のようなものだ」
「人間?」
「そう人間だ」
声のトーンが平坦に戻った。
「探しものを手にしたところで、もう、用は済んだというわけですね」
ロジャーが、緊張した声で、改まったように話しかけた。
「プライベートはともかくとして、仕事が残っているのでね。そちらが迷惑でないのなら、予定通り、滞在させてもらいたいが」
「私はかまいません。ただ、ひとつ、お願いしたいことがありますが」
エーリッヒが、口角を引き上げた。
「宿泊費代わりということで、いいだろう」
昔なら三つの願いというところだが、ひとつでいいのかね?
「充分です」
ロジャーが、頭を深く下げた。
大人も子供もワクワクしてしまうクリスマスの朝がおとずれた。
吹雪はやみ、白銀の世界が、朝日にきらめいている。
卓弥と要一は、枕の下に、金貨を見つけた。
「誰だと思う?」
「………この金貨、かなり昔のものみたいですよ」
歪な円形の、なめらかな金の塊は、大人の親指の先ほどの大きさだ。
「サンタさんだね〜」
「ほんとだ」
ふたりは、顔を見合わせて、クスクスと笑う。
少し怖そうなあの顔と、世界に流布している赤い衣をまとった老人とが一致しなくて、なんとなく、楽しくなったのだった。
そう。
それに、嬉しい。
なぜなら。
きっと、ダニエルの口にはしない願いがかなっているだろうから。
ふたりは、早く、ダニエルにあいたくて、いそいそと服を着替えた。
そうして――――
ほどなく、ふたりは、ダニエルとロジャーとの願いが、叶えられることを知るのである。
予定の日程を過ごしたエーリッヒたちが、ロジャーとダニエルの家を後にしたのは、その二日後のことだった。
続編?
up 19:29:53 2008 12 06
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