水 妖



 僕は、ただ、水面を見つづける。
 広く青い海の中で、見つけた、ただひとり。
 薄れる意識の中、夢だったのか、幻だったのか。
 水難事故にあった後、しばらく入院をしていた病院から戻って、僕は、毎日、海を訪れた。
 思い返せば思い返すほど、あれは、夢であったような、幻であったような、不確かな気分に襲われる。
 けれど、あれは、現実だった。
 そう。
 やわらかいガラスの中のような水に囲まれて、僕の命など風前の灯なのだと感じる余裕すらなかった、あの恐慌の最中に。
 僕は、見たのだ。
 人魚の群を。
 長い髪を水藻のように揺らめかせた水の精が、船から落ちた僕たちを水の底へと引きずり行こうとしていた。
 海に沈む、恐怖と苦痛に引きつった、顔。
 たくさんの、顔。
 いずれ、僕の顔も、ああだったのに違いない。
 僕ひとり、助かる謂れも、理由も、ありはしなかった。
 けれど。
 僕は、助かったのだ。
 歳若い人魚の、戸惑ったような表情を、僕は思い返す。
 まだ幼い、丸い頬。くちびるを噛み締めるようにして、僕と、他の溺れているひとたちを、何度も見比べていた大きな眸。
 僕の腕を掴む手の力も、ためらいがちで、死に瀕していた僕であっても、その気になれば、他愛なく、振り切れていたのに違いない。
 けど。
 僕は、そうはしなかった。
 なぜなら。
 その人魚に、僕は、かつての幼馴染の面影を見たと、そう、思ったのだ。

 大切な、少年だった。
 明るく聡い、ただひとりの、僕の、理解者。
 彼にとって、僕は、ただの幼馴染でしかなかったろうが。
 しかし、僕は、彼を、愛していたのだ。
 誰にも手渡したくないほどに。


 けれど。


 僕の思いを彼が知ったのは、あの夜。
 ずっと好きだった少女に告白をしたんだ――と、彼が僕に打ち明けた、あの夜。
 僕のこの手が、彼の首を絞めた、あの、月の明るい、夜。
 たゆたゆと揺れる波の下から、まん丸に見開いた彼の目が、僕を見上げていた。
 まだ細かった首に、僕の手のあとを生々しく写して。
 僕の手が、彼の首に絡みつき、そうして、力を加えた瞬間の、彼の戸惑ったような表情。それが、人魚の顔に、重なって見えたのだ。

 死んだ少年が、僕を迎えに来たのだと。
 僕は、長い長い喪失がやっと埋まるのさえ、感じていたのに。
 なのに。
 人魚は、僕を、見捨てた。
 冴え冴えとした光を瞳に宿して、そうして、人魚は、僕の手を、離したのだ。
 これが罰なのだと。
 自分を殺した人間を、決して許しはしないのだ――と。
 離れてゆく人魚を見やりながら、僕は、手を伸ばして、“彼”の名を叫んだ。
 ―――――。
 長い髪が水にひるがえり、ちらりと、彼が僕を見た――ような気がした。

 気がつけば、僕は、病院のベッドの中だった。

 たくさんの人間が死んだのだと。
 僕が助かったのは、奇跡だと。
 医者と看護師とが、静かに口にした。
 僕は、声もなく、ただ、静かに首を横に振るだけだった。

 きらきらと、水面に千の銀が散る。
 目を眇めて、僕は、ただ、水面を眺めつづける。
 いつか、彼が、再び姿を見せてくれることはないだろうか――と。

 嗚咽が、静まり返った空間に、波紋を描く。
 断続的な機械音がしだいに間を開き、ついには、甲高い悲鳴に似た音となる。
 とおる――と、ひとりの女性が、ベッドに横たわる青年の上に、身を伏せた。



 嵐の夜、ひとりの青年が海に呑まれた。
 なぜあんな嵐の夜に病院を抜け出したのか。
 救助された青年は、すでに息がなかった。しかし、その表情は、不思議と幸せそうなものだったという。
 理由を知らないひとは、口々に、青年の軽率さを、病院側の管理体制を杜撰だとあげつらう。
 しかし、青年を知るものは、痛ましげに、ただ、首を横に振るのみだ。
 たまに病院を抜け出す以外は、いたって静かで手のかからない患者だったのだ――と。
 重い口を開いたのは、誰だったのか。
 もう五年は昔の惨劇を、ひとは、思い出すかもしれない。
 それは、連続殺人事件。
 当時犯人は、捕まらず、被害者は、三人を数えた。
 最後の犠牲者が、高校生の少年だった。
 少年は、絞殺され、海辺で発見された。
 発見者は、少年の幼馴染。
 とても仲のいいふたりだったのだと。
 その晩、ささいな仲たがいで二人が別れたその後に、少年は殺されたのだ。
 謝ろうと引き返した彼は、少年の、最期を、その目に焼き付けた。
 ―――――――そうして。
 その後に、彼がとった行動を、誰が、とがめだてできるというのだろう。
 彼は、犯人に襲いかかったのだ。
 幼馴染を殺され逆上しての行為は、心神喪失との判決が下され、彼は、入院を余儀なくされた。
 その間の生活で、彼は記憶を、書き換えてしまったのだ。
 他の誰でもない、彼自身が、幼馴染を殺したのだと。
 穏やかに彼はほほえみ、言う。
 愛しているから、誰にも渡したくないから殺したのです。
 静かに、ただ、誰をも見ていないまなざしで、医師に告げるのだ。
 僕は、彼を、愛しているのです――――――と。


おわり

up   09:35:11 2008 08 14
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