ただ散る桜の只中で
立派な馬が前後をゆるやかに歩く。
間に挟まれ守られているのは、蒔絵も美しい黒い漆塗りの駕篭が二つ。
細いあぜ道の両側には、村人たちが平伏する。
一行が通り過ぎた後には、頭をあげた村人たちのささやき交わす声。
「あの子もえらい出世だな」
「もともと聡い子だったからなぁ」
「ご領主様に気に入られたんじゃあ、村長もあきらめるしかないしな」
「ご領主さまじきじきにおいでになられては、あの子も断れなかったろうしなぁ」
涙ぐんで見送る村一番の器量よし、村長の一人娘をちろちろと見やる視線は一様に同情深いものだった。
十年前村の入り口に近い林の奥で記憶を失っていた少年は、とても頭がよく、人当たりもよかった。彼は、成長するに従って村長の娘と仲良くなり、やがてふたりは夫婦になるだろうというのがおおかたの村人たちの予想でもあった。村長も、聡い少年を気に入っていたし、どこにも、問題はないようだったのだ。ただ、少年は、そういう村人たちに、
『そんなことはないだろう。だって、俺は捨て子だし』
と、返していたが、謙遜だろうというのが大半の村人たちの見方だった。
少年の聡さは、村だけでは納まらなかった。どこからか少年の噂を耳にした領主が、なにかと難問を持ちかけるたびに、少年はそれをみごとに解いて見せたのだ。そんな少年を領主はいたく気に入り、ついには、城に召したのだ。
その意味を、村人たちは察していた。
半ば以上は、ごり押しではあった。しかし、誰が領主に逆らえるだろう。
それは聡いと評判の少年にしても同じことで。
少年はぼんやりと、駕篭の中から小窓をすかして村を振り返っていた。
捨て子の自分を卑しめることなく受け入れ育んでくれた村人たちが、遠くなってゆく。
可愛くやさしい村長の一人娘。彼女が嫌いというわけではない。愛しいと思っていた。村長も彼女と自分が仲良くすることを嫌わなかった。村長たちはいつも、自分のことを歓迎してくれた。それでも、彼女と夫婦になれるだなどとは思えなかったのだ。
そんな彼らのことをありがたいと思う反面、けれど、なぜだか、自分は彼らに対してじりじりとした苛立ちのようなものを感じていたのだ。
なぜなのか。
差別など厭な感情だとわかっていると言うのに、自分は彼らとは違うのだという不快な感情があったのもまた、事実だった。
寂しい。
だから、どこかで、ホッとしている自分がいる。
別に領主に召されてゆくことが嬉しいというわけではない。領主の城で自分を待っているだろう、裕福な暮らしが嬉しいというわけでもない。
なくした記憶と関係があるのだろうか。
わからない。
水を張ったばかりの田んぼが、きらきらと光をはじいている。
春の土と水の匂い。
春。
桜の季節に、自分は桜の木下でぼんやりと立っていたのだと言う。
その桜の木まで、もうじきだ。
なぜなのか、心が急いた。
むかしから十年という区切りの歳月が心の奥深くに、わだかまっていた。
十年経てば―――なにがあるのか。
なにが起こるのか。
わからないなりに、自分はそれだけの歳月が過ぎてゆくのを、恐れていたのか、それとも、心待ちにしていたのか。
十年間、できるだけその桜の木は避けていた。
村の入り口近く、林の奥にある古木だった。
白い、みごとな花が咲く。
十年前の記憶は、それをぽんやりと見上げていた自分。
降り注ぐ、桜のはなびら。
そうして―――――――――
そうして。
何かを思い出しかけた。
心が急く。
なんだろう。
これは。
とくとくと、心が、逸る。
林の半ばで一休みと、領主の乗った駕篭から声が放たれた。
馬が止まる。少年の乗った駕篭も、止まる。
戸が外側から開かれ、少年は駕篭から降りた。
そこでは、何十本とある桜が今を盛りと咲き狂っている。
只中に佇むすらりとした立ち姿に、少年の心臓が大きく爆ぜるように跳ねた。
花の匂いのまじる風が、さやさやと、通り過ぎてゆく。
領主の後頭部でひとつに括っただけの髪が、風に揺れる。
うっすらと笑って少年を見るのは、少年を召した当の領主であった。
領主と少年とを囲むようにして腰を落とした侍たちが、汗を拭き水を飲む。
少年は差し出された水の注がれた器を手に、ぼんやりと空を見上げていた。
そう。
十年前。
こんなふうに、自分は、なにかを見ていたのだ。
なにか、いや、誰か―――かもしれない。胸が引き裂かれるような痛みとともに、少年は思い出す。
誰―――だったろう。
そう。
誰か――――――――――――だ。
花びらの降りしきるなかで、空を駆けてゆく誰かを、自分は見送っていたのだ。
空を駆けてゆく誰か―――そんなありえない。しかし、とても恋しい、とてもあたたかな、存在だった。
すこしずつ。
少しずつ。
心の奥底に硬く結ばれていた何かが、ほころびる花のようにほどけてゆく。
だから、少年は、領主の存在を忘れていた。
「どうかしたのかな」
そろそろ駕篭に―――と、領主は少年の肩に手を乗せ、振り向いた少年に涼しげな目元を眇めた。それに、少年ははじめて自分が涙を流していることに気づいた。
去ってゆく背中。
その、とても恐ろしく頼もしく、何よりも慕わしかった背中が、春霞のなかにとけてゆく。
それを追いかけられない自分がもどかしく、そうして、呪わしかった。
あの、十年前の最後の記憶よりも、前の―――――――――
少年のくちびるが、声をかたちづくる。
「なにを」
領主が首を傾げたその時、一陣の強風が吹きぬけた。
桜が身をよじり、花びらを撒き散らす。
白くあたたかな、花の雨。
降りしきる花びらが視界を閉ざし、再び開いてゆく。
「遅かったよ。俺、待ちくたびれた」
気配なく現れたその存在を、ひとと表現してよいのか。
すらりと丈高く様子のよい青年が、いつの間にか少年の背後に佇んでいた。
領主は動けなかった。
侍たちも、また。
その場で動くことを許されるのは、ただ、桜と少年、それに新たに現れたその存在だけなのだというかのように。
少年が振り返る。
振り返り、そうして、自分よりも高い位置にあるその金の双眸を見上げた。
「捨てられたのかと思った」
その言葉に、金の瞳の主はほほえんだ。
「私が、君を?」
形良く白い手が、少年の頬を両側から包み込む。
「十年は、長すぎる」
少年の鳶色の瞳が、金色の瞳を見返す。
「気をつけましょう」
次はないですけれどもね。
青年の最後の言葉に、少年が首をかしげた。
「君を、二度と手放したりはしませんよ」
そのための十年だったのですから。
青年が、少年を抱きしめた。
「吉哉」
「夜尋(やひろ)」
少年が、青年の背中に腕をまわした。
領主の目の前で、侍たちの見る中で、ふたりの姿は散る桜に消されてゆく。
そんな、錯覚があった。
「どこへ………」
領主の口から、切羽詰った一言が転がり出る。
それに、金目の主がはじめて吉哉から視線を逸らせ、目を見開いた。
「意志がお強い。さすがと、言っておきましょう」
答えになっていない答えに、領主の手が、震えながら、刀に伸ばされる。
「おやおや」
肩を竦めた夜尋が、あきれたようにつぶやいた。
「ごめん、ご領主さま。俺、夜尋と行くよ」
全部思い出したから。
吉哉が、幸せそうに笑った。
聡い反面あけっぴろげな少年は、誰からも好かれた。少年もまた。しかし、領主は気づいていた。少年は誰のことも好きだと言う。その裏側に、少年自身意識してはいないかもしれない自分たちに対する隔意のあることを。
いつも、吉哉の笑いは、そのためなのかかすかな寂しさをはらんでいるように見えたのだ。
それが、今の彼からは拭い去られていた。それはまるで、すべてを悟った末期の人間のようで、領主は焦りから、
「どこへ、行くのです」
声を振り絞らずにはおれなかった。
「ごめん。ご領主さま。俺は、最初から、夜尋のものなんだ」
だから、お城には行けない。
――――――それは、人間ではないのですよ。
言おうとして、愚を悟っていた。
もちろんのこと、吉哉は何もかも知っているのだ。
夜尋という金目の青年のことなど。
「良くしてくれてありがとう。けど、俺も、人間じゃないから」
そう言って、吉哉は、着物の前をはだけた。
まるで花びらのような白い肌がさらされる。
「俺は昔、夜尋に捧げられたものだったんだ。そうして、今は―――夜尋の、如意宝珠の欠片」
「そうしなければ、君は死んでいたでしょうからね」
今、完全にしてあげます。
言うなり夜尋は、吉哉の胸に手を押し当てた。
赤、青、緑、黄、紫、さまざまな色調の透明な光が、そこを中心に、集まってゆく。
そうして、なにかが吉哉の体内に押し込められてゆくのを、領主は食い入るように見つめたのだ。
吉哉にしても夜尋にしても、それは本意の行動ではなかったに違いない。
けれども、それは、必要なことに違いなかった。
そう。吉哉にとっては領主を納得させるために。そうして、夜尋にとっては、吉哉の願いをかなえるためにこそ。
やがて、吉哉は、蛋白石(オパール)にも似た輝きを放つ球へと変貌を遂げた。
それを手に、夜尋もまた漆黒の輝きを宿す竜へと。
領主が、侍たちが、信じられないとばかりに目を凝らす先で、少し前までは少年と青年の姿であったものが、空へと駆け上る。
暴風が吹きぬけた後にも、桜は、舞い散っている。
ただ散る桜の只中で、十年前の吉哉のように、残されたものたちは空を見上げるばかりであったのだ。
いつまでもいつまでも。
ただただ、空を、見上げつづけていたのである。
おわり
up 21:04 2010/05/08
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