紅薔薇の夜




 大きな丸い月が、空を統べる、それは、銀の夜だった。

 林の奥、不意に薔薇の香がたちこめた。
 ―――あのひとの香だ。
 ひとりの少年が足を止め、目元を拭った。
 十代半ばほどに見える少年の細い影が、木々の落とす影にまぎれこむ。
 赤く充血した目が、それまで、少年が涙をこらえていたことを物語っていた。
 何度も肩を上下させて、息を整える。
 大丈夫――と、まじないのように、つぶやきつづけ、少年は、ひときわ茂った常緑の木立を抜けた。
 それだけで、景色は一転する。
 冬も間近の侘しげな周囲が、毒々しいまでの赤へと、変貌を遂げる。
 庭を覆いつくしている赤は、すべて、剣咲きの薔薇だった。
 銀の光に照らし出された花々は、冷ややかな空気にゆらゆらと揺れて、まるで少年を手招くかのようだ。
 薔薇が手招く先は、こじんまりとした白い洋風建築である。
 少年が、一歩、赤いうねりの中に足を踏み出した。
 花々が、身をよじらせる。
 枝を、葉を伸ばし、何とか少年に触れようとする。
 少年は、それらを無視して、ただ、憑かれたように、前に進んだ。
   その後姿を食い入るように見ている人影があることになど、少年は気づいていなかった。

 あたたかな室内だった。
 大きな窓からは、夜空に浮かんだ月明かりに、一面の薔薇が、見渡せる。
「なにがあったの」
 やわらかな女性の声が、少年の耳に、心に、染みてゆく。
 踝丈の臙脂色のドレスが、衣擦れの音をたてる。
 居間のソファに腰を下ろして、少年が、顔を背けた。
 かすかな音をたてて、陶器が、テーブルの上に置かれた。温かなココアの匂いが、女性のまとう薔薇の香に混じる。
 少年より十ほど年上に見える女性が、少年の前に、膝をつく。
 少し褐色がかった、長い髪が、流れるように、胸元に零れ落ちる。それは、少年の膝の上、握り締めたこぶしに、触れた。
 白い手が、少年の頬に、触れる。
 思いもよらなかった行為に、少年の、褐色の眸が、見開かれた。
「千史(ちふみ)……さん」
 少年――千史の眸から、こらえつづけていた涙が、ついに転がり落ちた。
 嗚咽が、千史の喉を震わせる。
 心に渦をなしている感情を、千史は、口に出すことはできなかった。どう口にしても、あまりに無様すぎるように思えてならない。
 すべて、自分が悪いとしか思えないのだ。
 不幸にひたっているわけではこれっぽっちもなく。それでも、そう思わずにいられない。
 なにもかも、自分のせいなのだろう。
 たぶん。

 なぜなら、自分の病気が、すべての元凶なのにはちがいないのだから。

 こんな、呪われた病気を持って生まれてきさえしなければ、保護者でもある兄家族に、厭われることなどなかったに違いない。

 最初のボタンを掛け間違えれば、後は、ずれるだけだ。シャツであれば、気づくと同時にかけかえればすむ。しかし………人間関係は、そう簡単にはいかない。ことに、血が流れたとあれば、なおさら。
 三つ年下の昇が流した血を啜ってしまったシーンを、その母親に見られてしまったとなれば、どうやっても、修復は不可能なのだろう。
 十年前。最初の間違いは、目の前で転んだ昇を助け起こしたときに起きた。
 千史は六歳、昇が三歳のときの出来事を、千史は鮮明に覚えている。
 物心ついてからずっと、慢性的に感じていた渇き。それが、昇の膝小僧から流れる血を見た途端、強くなって襲い掛かってきた。抗いがたい誘惑の匂いは、甘く、千史を誘ったのだ。
 気がつけば、幼い膝小僧にむしゃぶりついていた。
 生まれてはじめて、渇きが癒えた気がした。
 食事時に、鯉の血やすっぽんの血、はては、ごくまれのことではあったが蛇のものだという血がコップ一杯分だけ、千史の膳には毎回つけられていた。
 他人がそれらをあまり好まないことを、知ってはいても、千史はそれらを飲まずにはいられなかった。
 とろりとした血は、ほんのりと、甘く、千史の渇きをいつもほんの少しだけ、癒してくれたからだ。
 昇の傷口ににじんだ血は、あれらなど問題にならないほど、濃く感じられた。
 濃厚な、血の味。
 何を口にするよりも、ひとの血の味が、自分の飢えを満たすのだと、千史は、はじめて知った。そうして、後になって、千史は自分自身に、戦慄を覚えずには、いられなかった。しかし、そのときは、ただ、夢中だった。夢中で、血の止まった昇の傷口を、舌先で、歯で、つつき、広げようとした。
 昇の泣き声など少しも、意識にはいっていなかった。
 突然昇から引き剥がされ、頬を張られ、昇の母親に鬼のような形相で罵られるまで、現実を忘れて、夢中になっていたのだ。
 それまで、やさしく笑いかけてくれていた義理の姉の態度を百八十度変えさせるのに、自分の行為は、充分なものだったのだろう。
 あれ以来、自分の家なのに、身の置き所は、離れの自室以外にはなくなった。

 すぐに倒れるからだの弱さに、学校にも通えなかった千史にとってさえ、狭すぎる世界だった。
 それに――――血の味を覚えてから、渇きは、よりいっそう強くなった。隠しつづけるのが困難なほどに。
 どれだけ、病を、自分自身を、呪っただろう。
 救いは、昇の存在だった。
 兄夫婦が自分に近づけないようにすればするほど、昇は、意地のように、千史のところにやってきた。やんちゃで頑固だったけれど、変化のない千史の毎日の、たった一つの活性剤だった。
 けれど、それは、救いであると同時に、苦痛でもあった。昇を見るたび、血の味を思い出したからだ。あの味を知ってしまっては、食事の膳に載せられているコップ一杯分の血など、水のように感じられてならなかったのだ。そんな夜、千史は、外に出た。藤崎家の土地である林を、夢遊病者のように、さまよい歩いた。そうして、千史は、自分の手で生き物の血を得るすべを覚えた。―――自分自身の手で縊った生き物の血は、コップの中の血よりも、わずかに、濃いように感じられたのだ。ひとの血には及ばないけれど、それでも、ほんの少しでも、喉を焼く渇きは、癒される。自分自身の浅ましさに、泣きながら、いつしかそれは夜毎の習慣になった。最初は、自分のために飼われている池の鯉やスッポンを、次いで、猫や犬の血を吸った。吸いつづけた。

 ―――こんな自分、嫌われていて、当然だ。

 たぶん、自分が、この家の跡取りでさえなければ、兄たちは、自分を、追い出しただろう。
 自分ひとり、家から追い出すことなど簡単だ。療養とでも言う名目で、どこかここよりもずっと田舎の別荘にでも閉じ込めてしまえば済む。そうしないのは、ひとの目が口が、うるさいからだ。田舎とはいえ、藤崎の家は資産家だから、跡取りをないがしろにしたとか、愛人の子が正妻の子を追い出したとかいろいろと、わずらわしいのだろう。
 千史は顔を知らない母を、父は大切にしていた。愛人を持ったのは、跡取りができないことに対しての、予防でしかなかった。だから、千史ができると、兄の存在価値は、ますます、ないに等しくなったらしかった。
 兄が藤崎の家に来たのは、父の死がきっかけで、千史の保護者となることが条件だったのだ。
 はじめて会った時、兄は、優しかった。
 たとえ、うわべだけだったとしても。

『変態』
と、最後に兄から投げつけられた罵声がよみがえり、千史の涙が、いっそうのこと、あふれだした。

 数年前の、あれも、夜。林の中で、苦しいのなら、あげる―――と、昇が差し出した腕には、赤い血が盛り上がっていた。
 呆然と、血の盛り上がる傷口と昇の顔とを交互に見比べる千史に、
『血を飲まないと、苦しいんだろ、飲めばいい』
 ぐいと、押し付けるように差し出した。
 血の匂いが、誘う。
 甘美な、誘惑だった。
『池の鯉は、人目があるから、獲れないだろ。猫も犬も、最近じゃここにはめったに近寄らないしな。そう簡単には捕まらない』
 知られていたことが、信じられなかった。
『知ってるさ。兄さんのことだから』  昇だけが、叔父である千史を兄と呼んで、慕ってくれた。
 そんな昇には、知られたくなかった。
 浅ましい姿を、見られたくなんかなかったのだ。
 それなのに――――――
『それとも、ここのほうが、いい?』
 無造作に差し出された首筋は、ほどよく日に焼けて、健康そうだった。
 その下を通る太い血管が、そこを流れる、甘美な赤い液体の幻想が、千史の渇きを、助長する。
 限界だった。
 むしゃぶりつくようにして昇の首に、歯を立てた。
 そうして、気がつけば、地面に昇を押し倒していたのだ。

 そこを兄に見られて、勘違いされた。
 幼い甥に肉欲を抱く、性倒錯者だと、誤解されたのだ。
 兄の罵り言葉が、千史を打ち据えた。
 あれ以来、千史は、昇を避けつづけていた。
 昇は相変わらず千史に会おうとしてはいたが、千史が、一方的に、扉を閉ざしたのだ。
 夜の習慣だけはつづけずにいられなかったが、ひとの気配がすれば、すぐに、身を隠すすべを覚えた。そうして、気配が消えるのを待って、そろりと物陰から這い出すのだ。そのたびに、自分の惨めさに、涙がこぼれた。
 ひとと会わないことが寂しくて、血を吸わずにいられない自分が惨めで、どうしようもない。
 離れの縁側から声をかけてくる昇を拒絶しつづけることが、どれほど辛かっただろう。
 会えば、昇は、血をくれようとするだろう。
 誘惑に逆らえない自分の弱さを、千史は痛いくらいに自覚している。だけに、また、その場面を誰かに見られ、勘違いされるようなことは、避けたかった。これ以上、千史は、誰からも、蔑まれたくは、なかったのだ。
 しかし、昇は、執拗だった。
 十三歳の聞かん気盛りの少年は、親の言いつけも、千史の拒絶も省みることなく、千史に会おうとしつづけた。
 そうして、今日。
 今夜。
 千史は、いつかと逆の状況に陥ったのだった。
 からだの上に、昇がいる。その状況を、どう理解するべきなのか。
 混乱していた千史のくちびるに、昇が、触れた。
 彼のくちびるで。
 その後の、思いもよらない告白を、千史は、ただ、目を見開いて、聞いていた。
 いつの間にか、昇は、千史の背に追いつかんばかりになり、体重は、千史を越えていた。
 押さえ込まれては、もがくことすら、ままならなかった。
『愛している』
 両親も何も要らない―――と、ただ、怒ったように言葉をぶつけられて、千史の脳裏によみがえったのは、兄からの罵りの声のだった。
 変態―――と、蔑むように、汚らわしいとばかりに吐き捨てられた、ひと言は、千史の心に、太く鋭い杭となって、突き刺さったままだった。
 昇は、知らぬ間に、それに、触れてしまったのだ。
 肉の巻いた杭は、しかし、鋭くとがった切っ先が、深く肉を抉っていた。よみがえってなお生々しい痛みに、千史は、昇を、突き飛ばしていた。そうして、逃げ出したのだ。

「一緒にいらっしゃい」
 耳元でささやくやわらかな声に、千史の全身が大きく震えて、ぴたりと、止まった。
 夜の徘徊で偶然出会った女性は、野良犬のように飢え渇いた千史のさまに、なにを聞くことなかった。
 ただ静かに受け入れてくれたのだ。
 薔薇に囲まれた白い家で、千史は、どこよりも、くつろぐことができた。
 藤崎の土地なのに、なぜ、このひとが独りで住んでいるのか。最初はその疑問には目をつぶり、しかし、今、千史には、ある予測があった。しかし、決して口にすることはなかった。口にしたら最後――のような、そんな危惧があったからだ。
 林の中を歩いて、会いに行く。それは、渇きがひどくない夜だけのことだった。
 あんな醜態をこのひとに見せたくはない。
 それは、千史の強い願いだった。
「わたしと一緒に、ゆきましょう」
 からだを離し、手を差し伸べてくる。その白い手を、千史は、取った。
 やわらかな手の温かなやわらかさに、少しずつ、興奮が収まってゆく。
 ――言っても、もう、いいんだろうか。
 ずっと、彼の中にあった予測。それを口にしてもいいのではないか。この手を選んだのだ。もう、最後には、ならない。ある日、ここに来てみたら、彼女がいない――そんなことは、決してないのだ。
「愛しい子………」
 かわいそうな―――――
 千史を抱きしめて、女性は、その赤いくちびるを、千史の首筋に、寄せてゆく。
 かすかな痛みを覚えて、千史の全身が、痙攣する。
 同時にめまいに似た快感が襲い掛かってきた。全身の力を抜き、目を閉じる。
 あのひと言を口にしなくても、もう、かまわなかった。彼女の口調にふくまれていたあのトーンに、自分の予測が正しかったのだと、千史は、悟ったのだ。
 幸せだ――と、生まれて初めて、千史は思った。
 足元から、力が抜けてゆく。
 死んでもかまわない。
 もう、いいんだ……。
 全身が麻痺したように、けだるさを訴える。
 まるで、子供に戻ったように、千史は、全身を、彼女に預けた。

 と―――――――

 何が起きたのか、わからなかった。
 全身を、床に打ち付けていた。
「昇っ」
 窓が開いていた。
 いつの間にか、居間に、昇が立っていた。
 片手に女性の髪を掴み、
「兄さん、何をやってるんだ。この女は、これで、あんたを殺そうとしてるんだぞ」
 もう片方の手で、剣呑な光を宿す銀のナイフを、女性から奪い取る。
 そうして、昇は、女の上に、ナイフを振りかぶった。
 ナイフは、過つことなく、女性の胸を貫くはずだった。


「どうしてっ」
 昇が叫ぶ。

 それに、ゆったりと笑って、
「これでいいんだ。オレには、わかってたんだ。オレを殺して、自分も死ぬつもりだったんだろう? そうだろう――――母さん」


 最後のひと言に、女が顔を上げる。その青ざめた頬に手を伸ばして、ゆっくりと、軽く、触れる。そうして、千史は、死んだ―――ように、見えた。
「うそ、だ」
 昇の口から、絶望に彩られた声が、転がり落ちる。
 全身から力が抜け、床に腰が落ちる。
 手から、女の髪が滑り落ちた。
「兄さん」
「嘘だろ」
 信じられなかった。
 自分の手が、千史を刺したのだ。
 掌に感じた肉を断つ感触が、徐々に、生々しさを増していた。
 この手で。
 この手が。
 呆然と己の手を見続けていた昇の目の前で、女が、千史を抱きしめる。
 千史の背中に刺さったナイフをゆったりと抜き取ると、あふれ出す血もかまうことなく、自分の胸につきたて、引き抜く。
 ほとばしる血が千史に降り注ぐ。
 女からあふれ出る血の勢いがうせるとともに、女の姿は、解けるように、さらりと空気に溶け消えた。まるで、最初から彼女は存在していなかったかのように、それは、あまりにあっけない出来事だった。
「兄さん?」
 四つん這いで這いよる昇が、恐る恐る手を伸ばす。
 もともとあまり血色のよろしくない千史の頬に、ほんのりと朱が指していた。
 おびただしいまでの血は跡形もなく消えて、何事もなかったかのように静まり返った室内には、ただ、彼女のまとわせていた薔薇の香が漂っているかのようだった。





「千史」
 耳慣れた声が、千史の名を呼んだ。
 昇が、千史を名前で呼ぶようになって、どれくらいになるだろう。
 千史は、ぼんやりと、自分を見下ろす陰になった甥の顔を見上げていた。
 自分の歳を追い抜いて、今では藤崎の当主となっている昇の顔には、昔日の面影はない。
 自分の母親がなんと呼ばれる存在だったのか、今では、千史にはわかっている。そうして、自分が何と呼ばれるもの――なのかも。
 母が暮らした洋館に、千史は、閉ざされている。
 おそらくは、父が母に強いたと同じだろうことを、昇は、彼に、強いていた。
 母が父を愛していたのかどうか、千史は知らない。けれど、赤い薔薇の棘で縛ってしまいたいほどに、父は母を愛していたのに違いない。
 母に血を吸われ、母の血を浴びたあの夜から、千史は、この館から出ることができなくなってしまった。
 薔薇をきれいだと思う心の半分が、薔薇の棘を恐怖するようになっていた。
 薔薇が、千史を呪縛する。
「愛しているよ」
 同時に、血の繋がっている甥が、千史を、呪縛するのだ。
 昇に抱かれながらその血をすする自分を嫌悪しながら、一度死にそびれてから、どうしようもないほどに死ぬことが恐ろしくなっていた。
 独り取り残されることが、恐ろしくてたまらないのだ。
 だからこそ。
「私が死ぬときは、必ず、お前も連れて行ってやる」
 独りぎりで残しはしないと、真摯な思いの込められたそのささやきに安堵を覚えてすがりついてしまう自分自身をどうしようもないのだった。


おわり




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